日本の男? 内的摂理に貢献 = 妻を天使長(文先生)に差し出す ☞☞ エバ国家の原点・・・日本にもお父様と同じ立場に立った「男」がいた
昨日の記事で取り上げた御言葉は天聖経に載っていますが、他にも、1970年に、この御言葉と同じような御言葉がありますので下記に抜粋しました。これは御言葉選集にある御言葉です。
この下記の御言葉も原理講論に記されている「アブラハムによるイエスの典型路程」になります。やはり、これも摂理を推進する為の重要な内的摂理になっていたと思われます。
「アブラハムによるイエスの典型路程」は次のような諺がピッタリかも知れません。
「千里の馬も蹴躓く」【読み =せんりのうまもけつまずく】【意味】 千里の馬も蹴躓くとは、どんなに有能で名人と呼ばれる人でも、時には失敗することがあるということ。
つまり、統一教会にどんなに素晴らしい経歴者、道義者、宗教者が入境してきたとしても、この内的な摂理を知った時、誰もが不信する可能性をもっているということです。
下記の御言葉・・・・
(※1)「日本にもそういう女がいるでしょう?」
私はここで日本の初代教会時代にあったことが伺える、注目すべきことを紹介したいと思います。あくまでも私見ですが・・・。
それは、(※1)の「日本にもそういう女がいるでしょう? そういうような男性が摂理において非常に貢献してきた。だから摂理は妾から始まります。」というヶ所です。
(※1)の考察については下記の茶文字のコメントをお読みください。驚くべき考察になっています。
七七七双聖酒式後の御言 1970年10月18日水澤里中央修
「聖進さんのお母さんに対しても、もしも怨讐が神のみ旨で奪い取ろうとする者(洗礼ヨハネ的使命に失敗してサタン側となった人物・金百文牧師)がいれば、そこに土産物をつけていくらでも渡してあげます。
ゲラルの王アビメレクも、アブラハムの妻サラを返す時には褒美までつけて返したでしょう?
自分(文先生)の奥さん(お母様)を盗まれても、共にその男(サタン側となった洗礼ヨハネ的人物)の妾のように生活しながらも、(その男と)共に生きる男(文先生)がいるというのです。
おとなしくて、話もしないで祈るし、嫌々ながらもそういう立場で一緒に生活する男(文先生)もいるというのです。
(※1)日本にもそういう女がいるでしょう?
(※2)そういうような男性(自分の妻を神側の天使長の立場の文先生に差し出した男・日本人)が(エバ国家の)摂理において非常に貢献してきた。だから摂理は妾から始まります。
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(コメント)
上記の(※1)(※2)に重要なことが語られています。
(※1)の「日本にもそういう女」とは・・・、お母様と同じような立場に立った「日本の女」になります。つまり、(※2)の「そういうような男性」が自分の本妻である「日本の女」をお父様に妾として差し出したたということです。
分かりますか?
文先生は自分の妻をサタン側に差し出しましたが、日本の「そういうような男」は自分の妻を神側の天使長の立場に立っておられたお父様に差し出したということです。
分かりますね。
ここで注目すべきことは、(※2)の「そういうような男性」が成した信仰によって、「(エバ国家が)摂理において非常に貢献してきた。」と語られていることです。
しかし、1960年代、1970年代に、(※2)の「そういうような男性」が二人目、三人目と日本から現れることをお父様は願われましたが、残念ながら、そのような三位基台をエバ国家に立てることができませんでした。
その為、日本が基台を失っていた為、1992年以降、レアとラケルの摂理により、お母様がサタン側に主管されるようにななってしまい、実体的なカナン復帰ができなくなってしまったのだと私は見ています。
これが原因となって、文先生はお母様によって聖和せざるを得なくなりました。聖和以降、摂理は三代に延長され、四代目に再び再臨主となる第四アダムを迎えるようになったと結論に至りました。(総観図参照)
その為、天聖経にも、晩年の御言葉にも、「再臨主が来ます」「再臨主が必要です」と全て未来形で語られていたのはこの為であったのだと分かるようになりました。
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本家の本妻からは復帰できません。
神様から見た場合、エバは二番目でしょう? 堕落しないエバが本家であって、二番目は妾でしょう?
だから、世界的に有名な偉人とかいう人は、貧しい所から素晴らしい子供として生まれてきます。本妻をさておいて、愛情心に燃え上がって、妾とか、華僑の女とかつきあった、そういう所から素晴らしい男性が生まれてきます。マタイ伝の冒頭には、四人の淫行の女性がいたことが書かれています。タマルも、ラケルも、ラハブも、ルツも皆妾のような立場です。」