平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

「真の愛」の奥義 ➡ 文先生は嫌な顔せずにお母様をサタン(洗礼ヨハネ的人物)に抱かせてあげた

 下記の御言葉をお読みください。


 サタンがエバを奪おうとするなら、文先生は嫌な顔せずにお母様をサタン(洗礼ヨハネ的人物)に抱かせてあげた。これが真の愛によるものだというのですから、驚きです。さらに驚くことは、「右の頬を打たれたなら、左の頬を出しなさい」というイエスの教えに同期することです。


 私ごとですが、私が19歳の時、ドストエスキーの名作「罪と罰」を読んたときのことです。
 「罪と罰」に登場するソーニャが娼婦となって病身の母と妹を養い、飲んだくれの父がお金をせびる度にお金をあげ、十字架の前にぬかずいて罪の悔い改めを祈る姿に、主人公のラスコールニコフも私も心を奪われた。
 そればかりではない。高利貸しの老婆を生きる価値がないとして殺害したラスコールニコフが、ソーニャに恋をし、罪を認めなかった彼が、老婆を殺した罪をソーニャにひざまずいて告白した時、ソーニャはあふれる涙を流しながら、自分はラスコールニコフの懺悔を受けるような身ではないことを語りながらも、彼女は震えながら彼を受け入れた。そして、打ち砕かれている彼に対して、「大地にキスをして神様に許しを請いなさい」と語りかけた場面では、私の時間が止まってしまった。
 さらに、ラスコールニコフがシベリアに流刑される時、彼を愛したソーニャが流刑地のシベリアまでついていく場面がある。罪を負った二人の姿に、私は神様の許しと希望を感じ、涙が止まりまらなかったことを今も覚えています。


 そして、私は20歳で文先生を知り、原理はもちろんでしたが、それ以上に、文先生の生きざまに大きな関心を抱いて統一教会に入教しました。あれから30年余が過ぎ、揺らいでいた信仰の中で、聖和直後、私は下記の御言葉に出会った。そして、文先生が娘のような罪なきお母様をサタンに差し出したことを知り、私の時間が再び止まってしまった。
 どうして、ここに真の愛があらわれるのか、それを知りたい。ここで文先生は(※1)で「あなた方はそうすることができますか。」とまで問うているのです。この真意は何なのか。文先生の異次元の真の愛の姿に、昼も夜も、心を奪われてしまったのです。ある意味では、このブログの原点になっています。


 皆さんはいかがですか。


天聖経 

  罪と蕩減復帰 第二章 五 1. 


 サタンとは何ですか。神様の愛の姦夫です……(文先生は)その怨讐サタンにエバ(ひとり娘、お母様)を抱かせて今まで千回、万回讒訴すれば聞いてあげ、それ(サタン)を愛する立場に立っていたのです。


それが神様の立場です。どれほど神様の立場が難しい立場かということを皆さんは知らないでしょう。


愛する妻(ひとり娘、お母様)を怨讐に抱かせておいて福を祈ってあげることのできる男(文先生)の立場、それ以上の立場が神様の立場であることをひざまづぃばなりません。


(※1)あなた方はそうすることができますか。


           *

 サタンはエバ(ひとり娘、お母様)の姦夫です。ゆえに神様の愛の怨讐です。(文先生は)その愛の怨讐が数千年の間、来て讒訴しても嫌な表情一つしないで、今まで真の主人としての仕事をやってきたのです。


それで神様が(文先生に対して、)この地に一つの中心を育てあげるまでは、誰でも不平を言ったり、それを反対してはいけません。なぜでしょうかといえば、(先生とあなた方を攻撃する)天使長がいるからです。

           *

 サタンは神様の愛の姦夫です。愛の姦夫。これは文総裁が世界的に初めて発表した言葉ですが、悪魔とはいったい何でしょうか。僕が未来に神様の妻になることのできる人(=ひとり娘、お母様)を強姦したのです。

アダム(=ひとり息子、先生)とエバ(=ひとり娘、お母様)とは何ですか。神様の体です。

・・・・

           *

 サタンは神様の立場から見れば姦夫です。エバ(=ひとり娘、お母様)は姦婦で、サタンは姦夫だというのです。そのような立場にある婦人(=大母様)とその娘(=お母様)を、純潔な女性として純潔な娘として考えなければ復帰することができません。

そうでなければ、もともとのままに取り戻すことができません。そのような心情圏に処している神様の悲惨な心境は、誰も知りません。先生以外には、誰も知らないというのです。

           *

 怨讐に引かれていった自分の愛する妻(=お母様)が、子供を産んで再び帰ってこなければならないとき、そのような母と子を結婚前の純粋な心で迎えることができるでしょうか。

サタンは愛の怨讐であり、愛の姦夫です。それこそ(先生とお母様は)アダムとエバが堕落した立場と同じです。

しかし神様の心情圏では、その峠を越えていかなければ平和の世界はできないのです。その基準が成立してこそ、サタンは自然屈服するのです。

           *

 考えてみなさい。

愛の怨讐になった悪魔のその息子、娘たち(=子女様たち)を怨讐の子として扱っていたら、神様のようなことはできません。

それを、堕落する前の本然の息子、娘として愛するのと同じ心をもって愛したという基準を立てなければなりません。そうせざるを得ない悲痛な神様の立場を考えたことがありますか。

           *

 キリスト教や他の宗教の最高基準が怨讐を愛せということです。神様もこのような原則的な立場にあるので、サタン悪魔を愛さざるを得ないのです。これは愛の怨讐ですが、その怨讐を堕落していないアダムとエバ以上に愛さなければならないのです。


なぜそうなのでしょうか。


怨讐の懐に抱かれたエバ(=お母様)が庶子三、四人を連れて入ってくるとき、お父さんは彼らを自分が生んだ子供たちよりも愛さなければ、エバ(=お母様)が本然の立場に帰ってくる道がないからです。何のことが分かりますか。

           *

 自分の愛する妻(=お母様)を怨讐に抱かせてあげて、福を祈ることのできる雅量のある男にならずしては神様の息子、娘になることができないという結論にまで到達します。


なぜですか。


エバとは誰ですか。神様の妻です。サタンが抱いて今まで弄んだ姦婦のようなものを今まで六千年間、六千年ではありません。数万年です。人類歴史を一千万年までと見るではないですか。その間、彼が讒訴しても今まで相手にしてきた神様のその痛い心情の谷間を誰が知るでしょうか。

ですから自分の愛する妻(=お母様)を自分の怨讐に抱かせてあげて、福を祈ることのできる心情圏を出入りする経験をしたことのない人は、神様の心情を知ることができないというのです。

           *

 (※2)結婚(ご聖婚)の前日に神様を捨てて怨讐に引かれていき、(お母様が)姦婦になり、息子、娘を生んで暮らしていたのを再び本然の、そのような傷のない立場として受け入れなければならない神様の心情を思うとき、お母様を偉大なお母様につくらなければならないと考えるのです。


昔のエバ(=お母様)よりももっと素晴らしいお母様にしてこそ、エバ(=お母様)によって傷つけられた悔しく悲痛な神様の心情の傷を埋めることができるというのです。父母様の家庭がそのことをしなければならないのです。

何のことか分かりますか。

           *

 先生がこの道を備えてくるには、先生の愛する妻までもサタン魁首に抱かせてあげ、祝福してあげることのできる心がなければならないというのです。


何のことか分かりますか。


神様がそのような立場に立ったのです。悪魔は愛の姦夫です。怨讐ですが、終わりの日(1992年以降の文先生)になってメシヤになることのできる資格者ならば、自分の新婦までも犠牲にしてサタンに与え、神様を解放しようとすることのできる立場に立たなければ、神様を解放できないのです。



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