御言葉にある『男性』『自分』とは ☞☞ 文先生・創造理想を完成したアダム基準の人間になる
前回の記事の(※2)の『そういうような男性』を(自分の妻を神側の天使長の立場の文先生に差し出した男・日本人)としましたが、この(※2)の『そういうような男性』とは(そういう女性を迎え入れた文先生)であると訂正します。 (下記〔B〕の訂正をご確認ください。)
但し、前回の記事中のコメントそのものには訂正はありませんのでご安心ください。
訂正になった理由
文先生が御言葉で『男性』と語られている原理基準は何処にあるのでしょうか?それが分かる御言葉が下記〔A〕です。
この御言葉からすると『男性』に該当する方は創造理想を完成したアダム基準のお方しかいません。そのお方こそ40年サタン分立路程を勝利されて再び真のアダムの位置に戻られた文先生のみになります。他の御言葉もこの基準で語られています。
つまり、御言葉の『男性』という言葉ほとんどが文先生のことを語られているということです。
補足ですが・・・
他には『自分』『私』という言葉も、文先生がご自身を語る場合、ほとんど場合、創造理想を完成したアダム基準で語られているとみています。この『自分』『私』も『男性』と同じ意味で、読み手の私たちは該当せず、文先生ご自身のことと理解することにより、御言葉の意味がより鮮明になります。
あくまでも、原理基準から見た場合の堕落人間は人面獣心になってしまいまいましたから、御言葉にある『男性』『自分』『私』とは私の目標とはなっても、厳密には無縁と思って読むべきです。これは大変に重要な観点ですので、皆さん自身でも御言葉から確認すべきだと思います。
〔A〕 天聖経
①真の神様 第一章 二 2.
神様は愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。
皆さんは真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真の父母の教理があります。
訂正ヶ所をご確認ください。
〔B〕 七七七双聖酒式後の御言 1970年10月18日水澤里中央修
「聖進さんのお母さんに対しても、もしも怨讐が神のみ旨で奪い取ろうとする者(洗礼ヨハネ的使命に失敗してサタン側となった人物・金百文牧師)がいれば、そこに土産物をつけていくらでも渡してあげます。
ゲラルの王アビメレクも、アブラハムの妻サラを返す時には褒美までつけて返したでしょう?
自分(文先生)の奥さん(お母様)を盗まれても、共にその男(サタン側となった洗礼ヨハネ的人物)の妾のように生活しながらも、(その男と)共に生きる男(文先生)がいるというのです。
おとなしくて、話もしないで祈るし、嫌々ながらもそういう立場で一緒に生活する男(文先生)もいるというのです。
(※1)日本にもそういう女がいるでしょう?
(※2)そういうような男性
(自分の妻を神側の天使長の立場の文先生に差し出した男・日本人)(そういう女性を迎え入れた文先生)が(エバ国家の)摂理において非常に貢献してきた。だから摂理は妾から始まります。
本家の本妻からは復帰できません。
神様から見た場合、エバは二番目でしょう? 堕落しないエバが本家であって、二番目は妾でしょう?
だから、世界的に有名な偉人とかいう人は、貧しい所から素晴らしい子供として生まれてきます。本妻をさておいて、愛情心に燃え上がって、妾とか、華僑の女とかつきあった、そういう所から素晴らしい男性が生まれてきます。マタイ伝の冒頭には、四人の淫行の女性がいたことが書かれています。タマルも、ラケルも、ラハブも、ルツも皆妾のような立場です。」