平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

【上級編①】 神様と惜別した ☞☞ 《「アブラハムによるイエスの典型路程」「妾摂理」》  はたして・・、文先生は悪魔か? 聖者か?

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🔶 【上級編】・・文先生とお母様の事情が見えてくる
  下記の『天聖経』の「宇宙の根本」(※1)を先にお読みください。
  (※1)にあるアダムとエバとは、六千年前のアダムとエバのことではない
     ➡➡ 文先生とエバ(韓母)です。
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読んでみて いかがでしょうか。

 もし、(※1)の「惜別した」という言葉に違和感を覚えたなら、あなたは正常です。しかし、何も違和感がなかったとするなら、あなたは統一原理がまだ分かっていないかもしれません。


六千年前のアダムとエバは「エデンから追放された」

 仮に、このアダムとエバを六千年前のアダムとエバだとするなら、彼らは神様の戒めを破ってエデンから追放されたのですから、この(※1)の「惜別した」という言葉はあり得ない言葉です。

ですから、(※1)の「涙を流しながら神様とアダムとエバが惜別した」というのは、六千年前のアダムとエバではなく、別の時代(再臨時代)のアダムとエバのことになるはずです。

アダムと言われる三人


 分かりますか。


文先生しかいない

 それでは、(※1)のアダムとは誰のことでしょう。アダムと言われる人物は三人います。残りのイエス様か、それとも、文先生になります。しかし、イエス様は家庭を持ちませんでしたから、このアダムはイエス様の再臨であった文先生になります。


 違いますか。


「惜別した」理由 ☞ 原理講論にある

 そこで問題は、どうしてメシヤの文先生が神様と「惜別」して堕落することになったのかという問題です。つまり、これは文先生が「神様のみ旨のために堕落した」という事実蕩減だったのです。



 その理由が原理講論にあります

    ( この問題は今も家庭連合ではタブーとしている)

 この理由こそがアダムであった文先生が罪のない韓母を天使長的人物に差し出された『アブラハムによるイエスの典型路程』にあったのです。この典型路程の為に韓母は教育も受けさせられず、意図的に堕落に追い込まれたのです。

 その韓母と家庭を持つことによって文先生も堕落したことなったのです。さらに文先生の堕落が重なったのは、堕落した韓母を救済する為の摂理として必要になったレアとラケルからなる『妾摂理』でした。


堕落の轍

 ここでもう一つの問題があります。それは、真のアダムであった文先生がどうしてこのような堕落の轍を踏まざるを得なかったのかという問題です。この答えが御言葉にあります。それが「事実蕩減」です。


原理講論にはない事実蕩減

 これこそが原理講論にはない事実蕩減という問題になります。私たちにとっての蕩減はすべて条件蕩減です。しかし、文先生にとっては六千年の蕩減歴史を再現して蕩減するという事実蕩減であったのです。

 たとえ、文先生が神様から遣わされた原罪のないメシヤであったとしても、真のアダムを自ら再創造する( )為、六千年前の蕩減歴史を再現し、六千年前のアダムがつくった堕落に打ち勝つことなくしては、真のアダムにはなり得ないということだったのです。この事を原理講論では「実体的同時性の時代」と言っている(原理講論 緒論 (二) (2) ⑤


文先生の第一の責務 ☞ サタンを自然屈服させる

 更にもう一つの問題があります。この問題こそが、神様と同じ立場に立たれる為にあった文先生の犠牲でした。文先生の摂理は、愛するもの全てを犠牲にしてでもサタンを愛しきり、サタンを自然屈服させなければならない摂理だったのです。

 この為、文先生は自ら進んで最愛の妻をサタンに差し出し、子女をもすべて差し出されたのです。これこそが、文先生がサタンを主人として仕えるという、僕の僕から始まって、僕、養子、庶子、実子、妻、夫の七段階まで、黙示録の七つの封印を真の愛で解放する基準を立て切らなければならなかったのが七年路程であったのです。

 しかし、この七年路程の文先生と一体とならなければならなかった韓母と私たちは、不信を繰り返したのです。その為、文先生は真の父母となる基準を未来からの起源として出発したままになってしまったのです。


文先生が神様と同じ立場に立つ

 それでは、(※1)の「惜別した」という言葉の真意は何だったのでしょうか。

 文先生は神様が妻を差し出せと言ったから差し出されたのではなく、子女を差し出せと言ったから差し出したのでもない。ただただ、神様がサタンに対された真の愛と同じ道を文先生自ら行って神様を解放するアダムになる為であったのです。


生殖器問題

 最後に、重要な観点(※2)の「これ(生殖器)が罪を犯した」を取り上げます。

六千年前のアダムとエバの堕落は生殖器が罪を犯した第一の動機にはなっていない。


これに関して堕落論の「霊的堕落」では次のように記している。

「このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。

・・・・

このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。」



さらに、「肉的堕落」では次のように記している。

「エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。

・・・・・

ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は、そのまま肉的堕落となってしまったのである。」


 このように、六千年前のアダムとエバの堕落の第一原因が生殖器にあったというのではなく、堕落の経路とその結果において生殖器をもって堕落したのです。神様が与えた戒めも愛の減少感が第一原因となってその過程で生殖器の刺激によって堕落する危険性を防止する為の戒めであったはずです。

 しかし、六千年前のアダムとエバの堕落によって、その後の堕落人間たち全てが、刺激が強い生殖器そのものが罪を犯す本体になってしまったのです。

 ですから、(※2)の「これ(生殖器)が罪を犯した」と言っているのは、「アブラハムによるイエスの典型路程」に関わった生殖器が堕落の原因になったことを言っているのです。


生殖器そのものが罪の要因となったのは再臨時代の堕落

 その為、「アブラハムによるイエスの典型路程」という摂理によって妻を天使長的人物に差し出すという行為により、それを天使長的人物が受け入れたという行為そのものが、生殖器が第一に関係して生まれた罪であったということです。その為、(※2)で「これ(生殖器)が罪を犯したのです。」と語られたのです。あくまでも、六千年前のアダムとエバの堕落のことを言っているのではないということです。


注意して読むべし

 このような堕落問題に関する御言葉(特に、メシヤ宣布以降の御言葉・天聖経)にあるアダムとエバの堕落に関するほとんどは、六千年前のアダムとエバの堕落と微妙に食い違っています。その理由は、この堕落は全てが文先生と韓母に関することであるからです。



天聖経

 宇宙の根本 第三章 一 1. 

 エデンにおいて愛を失ってしまいました。悔い改めなければなりません。エデンにおいて、(※1)涙を流しながら神様とアダムとエバが惜別したその何十倍、何百倍の痛哭をしなければなりません。涙と鼻水とよだれの三つが流れ、これがへその線を通じ、あの生殖器を経て落ちなければなりません。(※2)これ(生殖器)が罪を犯したのです。


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