◆◆第11弾 (10-4)を何故、削除したのか? 2
意図的に削除されたシリーズ、(10-4)の2回目です。
(10-4)のみ言は文脈全体から一つ一つの言葉のつながりを捉えて読めば理解できると思います。
ただ、(10-4)からだけでは十分に捉えきれないかも知れませんので、前回のブログで①②を紹介しました。
①②と(10-4)には共通点があることをお分かり頂けましたでしょうか。
その共通点とは、「愛の怨讐を愛する」ということです。これを実体として蕩減していく天の戦法について語られていることです。
堕落人間には心臓がち縮み上がるような逃げ出してしまう戦法です。
これまで私たちが捉えていた真の愛の概念は、イエス様が語られていた「汝の敵を愛せよ」とか、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」というカインアベル的なもの。或いは、純潔教育からくる夫婦の貞操観の範疇でした。
その為に(10-4)、①、②に対する私たちの理解力はややもすると小学生レベルかも知れません。
(10-4)が理解できないと、お父様の本当の姿が分からなくなってしまいます。何故なら、カインアベルからくる隣人を愛しなさいとか、夫婦の貞操を守りなさいと言うような教材は統一教会以外にも沢山あるからです。これくらいの教義ならお父様でなくてもいいのかも知れません。
統一教会が存在している理由はメシヤがいることであり、メシヤが歩かれた道は堕落世界ではあり得ない、(10-4)①②の方法で怨讐を愛する勝利基準を実体で示されたことにあります。
堕落人間には堕落した情念が染みついていますから、(10-4)①②を理解するには神様につかまっていないと振り落とされかねませんから注意を要します。
そこで、今回も(10-4)の解説をする前に(10-4)と①②の共通点を教えてくれるみ言を紹介します。(10-4)に語られた愛の扱い方を間違えば、毒にもなりかねない内容ですので紹介します。
これまでも何度か紹介したみ言、《後天時代の生活信仰》と《原理講論》からとりあげます。
③ 後天時代の生活信仰
1)(後天時代の生活信仰 P129)
『神様は、怨讐に対して剣をふりかざさなければなりませんか。許さなければなりませんか。許すことは簡単なことでしょうか。
胸が詰まるのです。自分の息子、娘を奪って殺したものであり、内外の世界を全てめちゃくちゃにしてしまったのです。
ところが、そのような怨讐に対しても、そのようなことがなかったかのように対さなければならない立場にいらっしゃる方が神様です。そのように対さなければ、復帰の役事ができないのです。怨讐になったことがないかのように考えなければ、救いの役事ができないのです。
怨讐ではないかのように対さなければ、許したという立場に立つことができません。
そのようなところから「怨讐を愛しなさい」という言葉が出てくるようになったのです。
ですから、怨讐を愛さなければなりません。歴史になかった新しい法度が初めて出てきたのです。』
2)(後天時代の生活信仰P134)
『文総裁は、戦ったでしょうか、戦わなかったでしょうか。私は戦いませんでした。神様の創造理想には、打つという論理がありません。
創造理想の中には、怨讐視してむちを打つという、このような理論がありません。
ですから、神様も、打たれて奪う作戦をしてこられました。』
3)(後天時代の生活信仰 P128・P129)
『アダムが神様の息子ならば、彼は神様の代身です。そのようにみれば、天使長は神様の僕なので、神様の息子である人間にとっても天使長は僕です。
それでは、いつ人間が僕を愛したでしょうか。愛しましたか、愛することができませんでしたか。絶対にできなかったというのです。わかりますか。
このような問題がひっかかっているので、これを果たすまでは、サタンを思い通りに主管することはできません。
ですから、打つことができないのです。
これを解ける人が現れなかったので、このような悪の世界が6千年間も延長したということを、皆さんは知らなければなりません。』
④『原理講論』の「アブラハム家庭」から
1)
『アダムとエバが未完成期において、まだ兄妹のような立場にいたとき、天使長がエバを奪ったので、その子女たちと万物世界のすべてが、サタンの主管下に属するようになった。
したがって、アブラハムがこれを蕩減復帰するための条件を立てるためには、既に明らかにしたように、兄妹のような立場から、妻サライを、いったんサタンの実体であるパロに奪わせたのち、彼の妻の立場から、再び彼女を取り返すと同時に、全人類を象徴するロトと、万物世界を象徴する財物を取り返さなければならなかったのである(創一四・16)。
このようなアブラハムの路程は、後日イエスが来て歩まなければならない典型路程となるのである。
アブラハムは、このような蕩減条件を立てたのちに、初めて、鳩と羊と雌牛でもって「象徴献祭」をささげることができたのである。』
2)
『再びアブラハムは自分の妻サラと兄妹の立場に立って、サラをゲラルの王アビメレクに奪われ、いったん、彼の妻になった立場から、再び取り戻すという摂理が行われた。
アブラハムは、このときも、サラと共に人類を象徴する男女の奴隷と、万物世界を象徴する財物を取り戻して出てきたのである(創二〇・1~16)。』
お父様は真の種を持ってこられたメシヤであり、お母様は堕落人間を代表した立場になります。血統が全く違った立場にありますから、(10-4)も六マリア同様に、生活を共にされてもお父様とお母様は全く反対の道を歩まれることになります。
お父様もお母様も、どちらも地獄を通過する心情です。
これを頭では理解しても、受け入れられる女性は誰もいないと思うほどの棘の道です。
人類を代表し、私たちを代表したお母様の通過された蕩減の道を知れば、誰もが逃げ出したくなる道です。しかし、逃げ場がないと思う者には、究極的には悔い改めの役事へと導かれるようになるのではないかと思います。
また、次回もみ言紹介します。
とても重要な(10-4)なのでご了解ください。