①これは深い ☞☞☞ 真理が先か? 環境が先か? ☞ 文先生の答えは????
これが分かれば ☞☞☞ 天聖経が読み解ける
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(※2)環境が先か、真理が先か?
これが問題となるのです。環境が先なのです。
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下記の天聖経の御言葉は、御言葉の読み解く為に必要となる「対応語」の正当性を意義付ける御言葉であると言える。
普通なら、「真理が先にある」となるところ、この御言葉では「環境が先にある」となっています。しかし、この御言葉からすると、私たちに理解できる「真理」とは、八定式の縦的な勝利基準が確定されたことによって環境圏に定められた横的基準のことを言っていることが分かります。
従って、この八定式から導き出した「対応語」による御言葉の読み解き方は正当であることが理解できるようになります。その為、実際に、この「対応語」に転換して御言葉を読み解けば、中心家庭と統一教会、家庭連合のありのままの姿が狂いなく私たちの前にその姿を現すようになっているのです。
【A】
天聖経
➁真の父母 一 三)
宇宙の大運動、大運勢、それが漠然と動くのではありません。みな法度を中心として、主体と対象関係の循環法度運動をするところは、必ず垂直(縦的)です。
その垂直が、二四時間変更されるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしまうのです。
垂直(八定式の縦的な勝利基準)がピッタリと位置をつかんでこそ、そこで空間世界(八定式に横的な勝利基準)に自分(文先生)の位置をつかんで存続の基盤を持つのが常なのです。
このような言葉は、少し難しいでしょう。
同様に、我々人のはかりが何か? 人(文先生)もはかりがなければならないでしょう。
そうではないですか?
(縦的な)数学を解くには、(横的な)世界的に共通の数理的基準を設定しておいたその基盤で「一つ」と言えば世界も「一つ正しい」と言い、「二つ」と言うとき「二つ」、「三つ」と言うとき「三つ」と言いながら正しいと言うでしょう。
(文先生が)ある基準に合格した共通的(目に見えない縦的)な(※1)決議基盤が(目に見える横的な)世界的舞台に立つようになるとき、そのようなものを真理と言うのです。(これが1989年の「八定式宣布」です。)
真理の中には、何があるか? 真理の中には、必ず東西四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、(※2)環境が先か、真理が先か? これが問題となるのです。環境が先なのです。
我々人間を見るようになるときどうですか? そのような存在的な人間を中心として見るとき、真なる人間がどのような人間かというのです。
縦横の標準、「縦に見ても合う。ペチャンコにならなかった。横に見ても合う」と言える、その基準にならなければならないのです。
縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後・左右・上下が差異がありません。(その勝利基準が八定式の宣布です。)
同じです。この同じものを、どこに持っていって合わせてもきっちりと合うというのです。東でも合い、西でも合い、北でも合い、南でも合い、地上世界でも合い、霊界でも合う、というとき「真である!」というのです。
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(※1)「決議基盤」のコメント
下記の二つの御言葉からすると、文先生にとっての「決議」とは、サタンと神様と文先生によって決定されたことを意味している。
宗族的メシヤ 第四章 第六節 3.
「ですから、統一国が顕現するのです。ただのどんぶり勘定式ではないのです。
サタンと神様の間に大使(文先生)を通じた会議の決議を経て、その結果の一致点に従わずしては統一世界は出てくることができないのです。」(一九八九・一〇・三、リトル・エンジェルス芸術会館)
真の御父母様の生涯路程2 第二節 六
「メシヤならば、霊界の総決議により公認を受けて神様からのしるしがなければなりません。」