⑥「韓国(語)とは?」 摂理的国家を ☞ 摂理的人物(達)に擬人化した 私たちの無知の痕跡が天聖経に ☞ (笑い)で記されている 全ては ☞ 真の愛が顕れる為であった
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サタンの血が流れている私たち・・・・
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ありのまま語ることができない
「天聖経」には1992年の「真の父母宣布」以降に必要な御言葉が載せられていますが、お母様と幹部たちの不信により真の父母宣布にサタンが侵入し、私たちにサタンの血が流れていることを実証してしまったのです。
その為、イエス様と同じように、文先生が語る御言葉も、ありのまま語ることができなくなってしまったのです。その結果がイエス様の十字架の死と同じ立場の聖和であったのです。
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「摂理的国家」を『擬人化』
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お父様は、サタン側になってしまったお母様と幹部たち、そして、私たちに対して、一人でも失わないように、不信が原因でサタンに奪われてしまった「アメリカ」「韓国」「日本」を擬人化し、その原因的立場にあった摂理的人物(達)に擬人化して摂理的現状を語られていたのです。
つまり、第三イスラエルの問題を「アメリカ」の問題として、天一国とお父様を韓国として、エバとお母様を日本として語られていたということです。
この擬人化する手法は真の親の愛によるものですが、その愛を私たちに教えようと、お父様は「囹圄の神様」という御言葉を語られたことがありました。これと同じことが聖書、コリント人への第一の手紙に次のように記されています。
コリント人への第一の手紙 9章
19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
21 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
不信の現状についての御言葉は ☞ サタン側の言語を用いて語られていた
この聖句と同じように、お父様も不信してサタン側になってしまったお母様と幹部たちに対して、私たちを失わないように私たちの言語を用いて語られたのです。
つまり・・・、
内的だった第三イスラエルと天使長を外的なサタン側になった「アメリカ」であらわし、(注)内的だった天一国とお父様を外的なサタン側になった「韓国」であらわし、内的だったエバとお母様を外的なサタン側になった「日本」であらわすという方法をもって摂理的な現状を語られていたことが分かるようになりました。
〔(注)・・・イエス様が十字架にかかったと同じように、お父様までも不信を受けてメシヤとして立つべき基台を失い、その負債を一身に負われたのが聖和であったのです。
この聖和を予め知っておられた文先生は、ご自身が再び再臨されることを、全て、今後起こらなければならない未来形で、天聖経に残されたのです。〕
これに対して・・・
未来を切り開く御言葉は ☞ 天の国語・言語をもって語られた
真の父母宣布時代の未来を切り開く為の摂理であった「氏族的メシヤ」「還故郷」「先祖解放」に関しては、お父様は天の国語・言語をもって御言葉を語られました。
つまり・・・、
「氏族」とは私たちの肉親の氏族ではなく、お父様の肉親の氏族復帰を私たちの手で成し遂げてさし上げることであり、さらに、失っていた祝福家庭を氏族として再復帰する為の言葉でったのです。
また、「故郷」とは私の肉身が生まれた故郷ではなく、真の愛のある神様主権の故郷とした言葉であり、「先祖」とは私たちの肉親の先祖ではなく、選民圏であり、お父様と出会いながらも裏切っていった人物たちであり、さらに、お父様の肉親の先祖の解放を私たちの手で成してさしあげることであったのです。お父様から受けた命の御恩を私たちの不足な命で解放してさし上げることであったのです。
先祖の代表的立場に立たれていたのが興進様であったのですから、当初の御言葉にあったように、清平役事の中心は、あくまでも、興進様であったのです。
私たちは、この御恩に対して、今もなお、お父様の氏族圏と先祖の解放の為の行動を怠り、何一つ報いることができているのです。それどころか、自分の肉親の氏族伝道と自分の肉親の先祖を解放することに多くの時間を割いてきたのです。
しかし、私たちが自分の肉親の氏族伝道と先祖解放に、30年間赴いた結果を見れば、サタンが許していないことが分かるのです。何故なら、お父様から愛された私たちがお父様のご心情を逆なですることはサタンもサタン視する行為だからです。
「コリント人への第一の手紙 9章」の真意
アダムとエバと天使長という立場にある内的な摂理的人物を外的国家で擬人化して語られた理由が、もう一つあったのではないかと思います。
非情なお父様の路程が反復された
お父様の路程は誰も理解できない、見れば誰もが躓くことを知りながら、それでも繰り返して反復しなければならなかったのがお父様の非情な路程でした。
お父様は最終段階になっても不信を受けたことにより、メシヤとして立つべき基台を全て失ったのです。しかし、お父様は、ひとりも救いから漏れることがないように、総蕩減を完了させる為に逝れたのが聖和であったのです。聖和は、お父様が自ら死を迎えられた苦難の絶頂だったと思います。
対応語の真意
予め、このような聖和の背景を念頭において、そのうえで、お父様がどうして対応語をもって語られ続けられたのか、その理由を真の親の愛の観点から知る必要があると思います。
真の愛による因縁を結ぶ為
お父様は真の親として対された対応語の真意は、お父様の真の愛を常に私たちに与え続けれていたという証明でもあったのです。
その為、不信ゆえにサタンに主管された私たちであっても、たとえ、無知ゆえに御言葉を間違って理解したとしても、それでも、不肖な息子娘たちがお父様の言葉を信じたという、私たちの誤った小さな信仰でもお父様が真の愛の因縁を結んでくださったということです。
そして、親なるお父様は、そのうえで、不肖な息子娘たちの全責任を自ら負われ、総蕩減を完了させる為に自ら死を成して聖和されたということです。
一世紀以内(70年あまり)に再び再臨
この聖和の真実を知るようになれば、自ずと、私たちが今後成すべき道は見えてくるはずです。
その道とは、三つに分裂してしまったことを一つにする為の行動であるはずです。分裂を煽ること、分裂を正当化することは、兄弟に石を投げることは、今後は、厳に慎まなければならないはずです。
一つとなる行動がやがて実を結べば、必ず、お父様が近未来に、一世紀以内(70年あまり)に、再び再臨されるようになります。このことは天聖経の御言葉からも理解できるのです。ですから、近未来においてではなく、今でも、必ず一つとならざるを得ない運命にあるのです。