文字どおり解釈した「ちゃぬ」と同じ立場に立った ☞☞ 家庭連合の女性達 〔 副題 打つ者には さらに 打たせる真の愛 〕
前回のつづき
メシヤ宣布以降、闘わなかった文先生が見えてくる
家庭連合のお母様と幹部たち、さらに日本の代表的女性達は、メシヤ宣布された文先生に対して絶対信仰の基準を立てることができませんでした。
その為、文先生はメシヤの位置に上がることができなくなってしまったのです。
にもかかわらず、お母様と幹部たち、日本の代表的女性達はお父様から一方的な許しと愛を受けた為、不信したことが自覚できなかったのです。
更には、彼らは文先生を死んだ立場に立たせ、やがて聖和に至らせたということまでも自覚できなくなってしまったのです。つまり、日本エバ国がサタンに飲み込まれたままのエバになってしまったのです。今後、これを誰が、どのように蕩減して天の側に転換していくことができるのか、大きなポイントになるはずです。
このような文先生は、洗礼ヨハネの立場に勝利されたにもかかわらず、メシヤの基台ができない為、サタンはどこからでも侵入することができるという、刃先に立つ不安定な状態に陥ってしまいました。
それでも文先生は身を削るように、真の愛で彼らを許し深く愛されました。しかし、この愛により、不信したことを自覚できなかった彼らは次の悲劇に発展しました。
その悲劇とは、彼らは自分の為に文先生を一方的に、「再臨主であり、真の父母である」と神格化したことです。
宣布以降、文先生は「真の父母がいない」、「再臨主がこれから来られる」と未来形で何度か語られているにもかかわらず(それが天聖経にも遺されている)、その言葉が全く耳に入らなくなってしまったのです。彼女たちは、あたかも信仰を立てているかのような錯覚に陥ってしまった悲劇です。
この悲劇がさらに悲劇を生みました。
それが何であったかと言いますと、日本女性たちがお母様を真の母として祭壇に供えるという、20年越しの内的な摂理に失敗してしまったことです。これにより、文先生とお母様の間にサタンが侵入し、お二人を引き裂く条件になってしまったのです。
この為、メシヤ宣布以降の文先生は、イエス様と同じように、御言葉を「あからさまに」語ることができなくなってしまいました。
この重大な問題を文先生が私たちに教える為に、2004年に御言葉で明らかにされました。それが下記です。
ファミリー 2004/10 P23
「いつでも、二重的な言葉の相対を見つけ出さなければなりません。対応語は何かということです。
対応語を見つけ出すのは、私がチャンピオンです。原理世界の正しいことを教えるために、私がすべてつくったのです。」
1992年以降の「対応語」については既に「アメリカ」と「韓国」の記事で明らかにしました。これは内的言葉を外的言葉(対応語)に転換して摂理を語られたことを意味しています。
例えば、「アメリカ」という外的言葉はアメリカ国家の場合もありますが、ほとんどは、内的な摂理を担っていた『第三イスラエル』のことであったのです。
また、「韓国」という外的言葉は韓国の国の場合もありますが、そのほとんどは、まだ実現していない内的な「天一国」のことであり、今後の摂理の方向を語られた御言葉であったのです。
この御言葉を文字どおり解釈した場合、文先生の品格が落日のようになります。事実、最高責任者としては、主客転倒、本末転倒の御言葉になりますから、絶対に語ってはならない御言葉となってしまったのです。
もし、これに気づかないで読んでいるとするなら、読み手の霊的基準が旧約次元以下である証左になりますので、ご自身でご確認ください。
事実、旧約次元以下に落ちてしまった統一教会は、これまでどおり、文字どおり解釈するしかありませんでした。その結果、家庭連合も幹部たちも、日本女性たちも文先生から、日増しに遠ざかる一方になってしまったのです。
メシヤ宣布以降、早々に文先生から遠ざかった者たちの中には、御言葉の読解力に優れ、御言葉を生命視してきた者たちが多くいました。
彼らは、天聖経を文字どおり解釈して真剣に訓読した為、意味不明に陥り、さらには、文先生の人間性に対しても必然的に不信を募らせるようになってしまったのです。
この必然性に、さらに拍車をかけたのが2010年から始まったブログ「ちゃぬ」の登場でした。サタンはこの好機を逃しませんでした。
「ちゃぬ」はメシヤ宣布以降の日本女性たちの不信を代表したサタン側の落とし子、サタンに飲み込まれた女性、韓日家庭の女性です。決して彼女一人でできた仕事ではないと思います。彼女は御言葉全集から文字どおり解釈すれば躓く御言葉だけを翻訳して記事にしました。
まさに、不信した洗礼ヨハネや三弟子たち、ユダに対して、さらに不信してしまうように対されたイエス様と同じように、文先生も立たれたのです。
無知に陥った日本女性たちは自覚なく文先生の「右の頬を打ち」、「ちゃぬ」は悪意をもって文先生の「左の頬を打った」のです。
弟子たちから見捨てられたイエス様は十字架で死ぬしかなかったように、文先生も私たちから見捨てられ自死して聖和されたのです。