平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

◆◆第14弾 (10-4)を何故、削除したのか? 5

本日のブログは前回の続きになります。


【 】は削除されたヶ所
原文は黒文字 解説は紺文字


↓ーーーーーー引用はじめ


(10-4)
【 ・・・ラマ教(=統一教会)では、夫(=お父様)が自分の妻(=お母様)をお客(=サタン側の天宙的カイン、金百文牧師、金補佐官・・、ここでは金補佐官)に譲り渡すのです。』 】


↑ーーーーーー引用おわり


上記の「妻を譲り渡す」という概念を、お父様が自分の為に第三者に対してこのような行動を起こした場合は、妻を売った、子女を売った、祝福家庭を売ったことになりますから、お父様はサタン以上のサタンになります。言語道断、絶対に許されるものではありません。


本日のテーマは、この「妻を譲り渡す」ということの原理的根拠を考察します。


↓ーーーーーーー本日のテーマはじめ


お父様が、(10-4)で
お客様に妻を譲り渡した」と語られたことは、前回のブログでその意義について説明しました。これはお父様が愛する者を怨讐に与えることを意味していますから、


この他に子女様を犠牲にする」こともあります。


更に、祝福家庭を犠牲にする」こともあります。


それでは、①②③の原理的観点を明らかにします。


そうすれば、お母様が、子女様が、祝福家庭がその時にどうすれば良いのかが見えてきます。


↑ーーーーーーー本日のテーマおわり



「お客様に妻を譲り渡した」ことの原理的根拠


これは原理講論《第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理 (一)信仰基台 (2) 信仰基台を復帰するための条件物  ① アブラハムの象徴献祭 》にあります。


アブラハム路程はイエス様と再臨主が歩まなければならない典型路程になっていますから、お父様もアブラハム家庭が通過した路程を実体として通過することになります。


この様な実体として通過することをお父様はラマ教に喩えて、「夫(=お父様)が自分の妻(=お母様)をお客(=サタンの相対者・表示体、金百文牧師、ここでは金補佐官)に譲り渡すのです。」と語られました。


統一教会は遠い昔のアブラハムのことは抵抗なく受け入れてきたのですが、お父様が語られたみ言「「わたしの代わりに、わたし以上に愛しなさい」」に対しては、これまでの統一教会は社会的風評を心配して語られることなく奥の院に隠してきました。


このアブラハム家庭の典型路程とも言える摂理を「隠す」という行為はサタンの行為であり、お父様との不一致を意味しています。
そしてその不一致が原因でサタンの侵入を招く結果になり、これによって、中心家庭と祝福家庭の更なる受難の始まりになります。


しかしお父様は、平和の主人で「妻を譲り渡す」という表現で再び明らかにされましたが、平和の主人からこの文言がピンポイントで削除されてしまいました。この様な削除こそ、サタンが統一教会の奥深くに侵入していることを明確に顕しています。


これはパロディーではありません。


これによって再びサタンの侵入を招くことになりますから、中心家庭と祝福家庭の受難が更に加重されることになります。この「隠す」ことが今日の統一教会、そのグループ全体から見えてくる大混乱時代を招いている要因となっています。


再臨主が歩まれるアブラハム家庭の典型路程からも分かりますように、「譲り渡されたお母様」は再びお父様の元に帰ってこなければなりませんでした。


しかし、お母様がお父様とご成婚されてからお父様が聖和されるまでの52年になりますが、お父様の晩年に語られた訓読会のみ言を読んでいきますと、「真のと精子がお母様に定着していない」「絶対「性」の基準がお母様に立っていない」と幾度も厳しく語り続けられました。そして、「原理本体論」の講義も同じ意味を持っていましたが、二度と語られることがないように奥の院に隠されてしまいました。この様なことは平和の主人にも語られています。また、最近亨進様が語れている説教や神山先生の講話とも一致しています。


堕落の最も中心とした根幹が隠すという行為こそ、サタンの侵入を招いているのですが、更に重傷なことはそのこと事態を全く自覚していないことにあります。清平の1995年あたりから始まったサタンによる幽閉時代に突入したと言えます。


平和の主人の前半は圧倒的にお母様の「血筋問題」のことを語られています。その中から二つほど簡単に紹介します。


↓ーーーーーーー平和の主人の紹介はじめ


(1-4)


「天地(真の父と母)が分離して堕落することにも気づきませんでした。・・・・・(母が)堕落して変わったということを知らなければなりません。



(3-5)


【 「私(=妻)もあのように(=お父様のように)回ってやる」と思ったのですが、そのように回ることができないので、これを占領して回ろうとするのです。愛を中心とした血統問題です。 


相対がいなくなる時(お父様の前に原理的な妻として立たなくなるとき)には、いくら王でもいなくなる(聖和する)のです。


↑ーーーーーーー平和の主人の紹介おわり



お母様が通過された試練はこればかりではありませんでした。
上記の「妻を譲り渡す」という試練は計り知れない十字架であるにもかかわらず、同時に反対の立場になる「六マリア摂理」が重なるような試練として中心家庭に展開されることになります。これは堕落したエバがサタン側から神側に帰ってくる摂理であります。重要な本妻と妾が一つとなる摂理でした。


「六マリア摂理」はキリスト教を失うことによって起こった、再度蕩減する為に出てきた二次的摂理でありました。即ち、キリスト教の失敗によってメシヤをこの地上に誕生させる条件にサタンが侵入することになりましたから、もう一度やり直しの摂理が必要になりました。それがレアとラケル、タマル、エリサベツとマリアの全てが入ることになる、本妻と妾が恨まず、妬まずに一つになる摂理、それが「六マリア摂理」になります。


即ち、「真の種」を持ったアダムを生むエバを復帰する蕩減条件をもう一度立てるのが「六マリア摂理」だったのです。
たとえ「六マリア摂理」故に、国家から社会から断罪されるような死の道であろうと、本妻も妾もお父様と一つになって堂々と超えていかなければならなかった道です。


「六マリア摂理」の前にも重要な摂理がありました。それは、3弟子の祝福式です。この祝福式も国家的な試練の暴風が吹いた祝福式でした。その基台と基準が立った上でお父様とお母様のご成婚式がなされ、その基台の上で、その後の合同祝福結婚式が世界の前で行われるようになったのです。


このように、お父様がお母様を妻として迎えられる背景には蕩減すべきことが数多くありました。
お父様は神様の心情も原理原則も知り尽くされたお方ですが、お母様は人類を代表して、堕落したエバの蕩減として、逆理(第二次)の摂理なので全くみ言をお聞きにならない立場で、お父様から妻としてまともな扱いを受けたことがない中であっても、お父様に絶対信仰、絶対服従、絶対愛を貫いて真の母の位置を勝利しなければなりませんでした。


この様に、「お客様に妻を譲り渡す」ということの背景には、堕落によって失ったエバを兄弟の立場から始まって、堕落した時のエバを通過して、それから神様の懐に戻って来るという蕩減の道を歩まなければならなかった理由がありました。


「子女を犠牲にした」ことの原理的根拠


これは原理講論《第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理 (一)信仰基台 (2) 信仰基台を復帰するための条件物  ② アブラハムのイサク献祭 》にあります。


アブラハムの象徴献際の失敗を蕩減復帰するために神様はアブハムにイサク献際を命じられました。これはお父様が子女様を犠牲にされることに摂理的につながりますから、子女様はお父様のイサク献際はご自身の献際であると捉える必要がありました。


即ち、お父様の命令に対して、たとえ、逆理のように見える命令にも絶対信仰、絶対服従、絶対愛を捧げなければなりませんでした。カインの子女である祝福家庭に対して絶対信仰、絶対服従、絶対愛を求められるお父様でしたから、当然アベルの子女様はそれ以上の基準が求められることになります。


逆理とは第一次摂理の失敗によって始まる第二次摂理のことを言っています。


カインアベルが一体化できない場合は、お父様の足場となる基台が喪失するばかりではなく、カインとアベル自身も受難の道を行かざるを得なくなります。カインアベルは数珠つなぎになっていますから、カインアベルの不一致がある限り、末端の信徒達にもその受難がやってくるようになります。


この様な観点からみます時、今日の混乱は単に金補佐官一人の問題ではありません。彼は私たちの心に内在している罪という問題に相対圏をつくり出して、不一致を導き出そうとする存在に過ぎません。
あくまでもサタンの相対者である金補佐官は、謀略を企てるだけで、初めから所有権を持っているわけではありません。


カインアベルが不一致して不平不満を持つことによってサタンの謀略にひっかかった為に、サタンは神様に所有権を主張するに過ぎないのです。そして、誰も彼もサタンの謀略にひっかかっているのです。ひっかからないのはお父様、たったお一人です。


自分の子女を悲しみもなく犠牲にする親が何処にいますでしょうか。カインアベルの不一致はお父様と言えども、どうしようもないのです。カインアベル自身が自ら統一の道を探るしかありません。


サタンが金補佐官と用いて、お母様を食べ、子女様を食べ、祝福家庭を食べて口を血で染めて満腹になっても、それでも満腹感はありません。ただ食い尽くしていくだけです。


しかしお父様はサタンを許し愛するが為に、サタンの全ての悪事を許すことに専念されて、サタンの相対者である金補佐官の申し出のままに、彼がお父様に何一つ警戒心を持つことがないように関係しました。
老練なサタン、金補佐官も成長して知恵深くなり、お父様の「闘わない戦法」を知り尽くしていますから、お父様は負けるが勝ちの戦略をとります。彼は百戦百勝のように見えます。しかし彼は勝つことが目的ではないのです。愛がほしいだけなのです。


(しかし、彼の食欲はお父様をも食い尽くしてしまいましたから、愛されるお父様はいなくなってしまいました。もう彼の力の源泉がおられなくなりましたから、これからは萎えるだけとなるでしょう。)


そして、子女様よりもお父様は自分を愛しているという実体の愛を欲しているサタンは、子女様に対してお父様が全く未練を持たないで犠牲にしていることを冷静にいつも確認しています。


この様にお父様に対してサタンが執拗なまでの疑う心で見ていたことが理解できますでしょうか。


事実は小説よりも奇なり!!蕩減の道は観念でもなく、パロディーでもありません。人間が持っている全ての理性と感情が総動員された、実体として存在する生々しい生き様です。
どんな哲学書であろうと、人生読本であろうと、この実体として展開される蕩減路程の前には色あせてしまいます。


例えば、顕進様の追放における爆破者宣言においても仕掛け人は金補佐官であることはお父様はご存知であったのですが、懺訴されるべき条件が子女様のカインアベルの不一致にあった為に、お父様はサタンの要求を受け入れざるを得なかったのです。
現在のブロガーの方達の中に、この様な原理的観点から考察しているブログは残念ながら見当たりません。


その為にお父様は「闘わない戦法」によって、顕進様の追放をサタン主導ではなく、お父様の主導とされる為に逆理のような方法ととらざるを得ませんでした。


理解できますでしょうか。


顕進様の人事をサタンの唾がついたものではなく、お父様によるものであるとしなければならなかったからです。それでは何故、お父様がアラスカで顕進様に対してUCIを持っていった「盗賊」と厳しく指摘されて、ビデオまで撮らせたのでしょうか。


これは後天時代から見えてくるギリギリの映像ですが、お父様がたったお一人で「闘わない戦法」でサタンに向き合っていたお父様だからできた、それが、アブラハムのイサク献際と同様のお父様による顕進様献際だったのです。


この時、顕進様が全てを捨てて信徒達の前には罪人のように見られることを恐れず、一端死んだ立場になって再び生きるという、お父様の懐に戻られれば新たな局面が展開された可能性があるのです。


それでは何故この様な逆理となる道をお父様も顕進様も行かなければならなかったのでしょうか。
それは「愛する者を犠牲にして怨讐を愛する」という、逆理の道を行かなければならないからです。


そして、顕進様が長子としての責任ある立場にあられるからです。理由の如何を問わず、カインアベルの不一致を長子の責任として判断されたからだと思います。顕進様が長子権を復帰したヤコブのように全てを捨ててお父様の懐に戻られたなら、亨進様、国進様との一体化の新たな局面が開かれたに違いありません。


顕進様、たったお一人だけでも、全てを失って死の前に立たれているお父様と一つになれば、亨進様、国進様との一体化の道が開いたに違いないのです。


お父様に命を捨てでもお父様のレガシーを相続して立ち上がった顕進様に対して、お父様がどれほどお喜びになられたことかはかり知れません。お父様が顕進様の手を取られて歩かれているお写真を見ると、お父様のご心情が伝わってきます。そのうえで、逆理の摂理を行かれるお父様と神様にとって、顕進様は聖別された供え物としてこれ以上尊い供え物はありませんでした。


そうすれば、束草事件と言われている偽霊界メッセージに端を発した、金補佐官(サタン)主導による亨進様の世界会長就任ではなく、お父様主導の亨進様世界会長就任式となったに違いありません。


これは(7-3)から理解できます。お父様主導における二代目の王権相続が成されれば、自動的に三代目の王権を顕進様が譲り受けることができたと、明確に過去形で語られてるのはその為です。


お父様はたったお一人で「闘わない戦法」をとられました。聖和される時にはお父様の基盤は全てサタンの所有するものになっていました。サタンから、奪われ、利用され、嘘をつかれ、騙され、唾を吐かれ、悪口を言われ、サタンのなすがままに、最も愚か者のように、闘いを放棄した弱者のように、弱点を握られた敗者のように、死刑宣告される被告人のように、最も惨めな姿でサタンの相対者・金補佐官の前に立たれていました。


この時の晩年のお父様の姿は、心の内を誰とも語ることができない、最も孤独な時をお過ごしになっておられました。この姿は、十字架に向かわれるイエス様と完全に重なるものがあります。神山先生の講話からも懐かしくお父様の姿が忍ばれ、不足な心情をお父様に馳せました。


せめて、顕進様が最も試練をお受けなられていた時、お父様のご心情を理解してお慰めできる立場にあられたと思います。
今、顕進様のご心情を思うと、切なくなります。お父様のご心情と完全に一体化できる環境を失ってしまったことを、顕進様は理解していると確信しています。だからこそ、今は何も語ることなく黙されているのだと思います。
これらの事情を知られて、顕進様が大きく心を痛めておられることを思うと切なくなります。



長くなりました。本日はここまでにします。



次回は
③「祝福家庭を犠牲にした」 ことの原理的根拠 です。

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