平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

文先生は・・サタン悪魔を父として侍るようになったお方

下の御言葉は黒・天聖経です。


天聖経は2003年に天地の新たな標準として位置付けられ、文先生亡き後を導く八大教本になりました。つまり、旧約聖書、新約聖書があるように、成約時代を開くための新しい契約書となる成約聖書ということです。


この御言葉をお読みください。


黒・天聖経 ⑨祝福家庭 第一章 一 3. ①



 (※1)堕落した結果、どうなったのでしょうか。


私たちは死亡圏内に落ちました。

神様が善悪の実を取って食べたなら必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、死亡圏内に落ちていきました。


堕落した結果どうなったのでしょうか。


ヨハネの福音書第八章四十四節を見れば、サタン悪魔が私たち人類の父になった、とイエス様は指摘しました。


神様を父として侍るべき(※2)アダムとエバが堕落することによって、サタン悪魔を父として侍るようになったというこの口惜しく恨めしい事実が堕落の報いであることを知らなければなりません。




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考察


(※2)「アダムとエバが堕落することによって、サタン悪魔を父として侍るようになった」を考察します。


この悪魔に侍った『アダムとエバ』とは、一体誰なのでしょうか。


六千年前のアダムとエバがサタンに侍ったということは聞いたことがなく、あり得ないことです。


ならば、イエス様でしょうか。イエス様はエバがいなかったのですから、イエス様ではありません。


じゃ、(※2)の「アダムとエバ」は、一体、誰でしょうか。


文先生は1950年代の御言葉でも、昨日の1967年の御言葉でも、2000年代に入っても、その多くは、ご自身のことを「アダム]「人間始祖」として語られていたのです。もちろん、天聖経でもそうです。


これは一貫しています。


そう理解することにより、御言葉そのものの誤謬がなくなって、統一原理と御言葉の錯誤もなくなり、文先生の蕩減法がスッキリ見えてきます。


(※2)の「アダムとエバ」とは、六千年前のアダムではなく、再臨時代のアダムである文先生とお母様です。


従って、(※1)の「堕落した結果」も、六千年前のアダムとエバの堕落のことではなく、再臨時代のアダムとエバである、文先生とお母様の堕落のことになるのです。


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文先生の堕落問題を扱うことは、文先生の人格を貶めるものでしょうか。

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絶対にそうではありません。まったく反対です。だからこそ、そこから真の愛に至る道があるのです。


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  文先生・・「虎穴に入らずんば虎子を得ず」・・親ならそうです。

  六千年前のアダムの堕落と、文先生の堕落の概念は全く違います。

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六千年前のアダムとエバが堕落した時、彼らはその罪を恥ずかしく思い、下部を隠しました。

 

しかし、文先生は、この種の写真をサタンが悪用することを知りながら、堂々と、ご自身の路程を全て写真に収めています。


堕落を「恥ずかしく思い、下部を隠した」という蕩減を、文先生は逃げることも隠れることもしなかったのです。堕落人間ならすべて隠します。

これを外から見た弟子たちはユダとなって共産主義者たちと一つになり、ありもしないでっち上げ話を作り上げ、何十年間も、世界にばらまき続けたのです。文先生は、絶対にそのようなお方ではありません。


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  これに対して、文先生は言い訳ひとつせず・・・

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文先生は、ユダとなった弟子たちを審判することもなく、国家からも、世界からも、統一教会の中の弟子たちからも、後ろ指をさされ、恥ずかしめを受ける道を言い訳ひとつせず、家庭を犠牲にされながら、生涯かけて世界基準で蕩減されたのです。


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御言葉の中の「アダム」「人間始祖」のほとんどが文先生であった

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天聖経は2003年に天地の新たな標準として位置付けられ、文先生亡き後を導く八大教本になりました。つまり、旧約聖書、新約聖書があるように、成約時代を開くための新しい契約書となる成約聖書ということです。


よって、御言葉の中の「アダム」「人間始祖」の多くが文先生であったことを知って、文先生の本質を御言葉から知るようになれば、文先生が残された命の道が、内的に、血で血を洗う道であったことが理解できるようになるはずです。そうすれば、「黒・天聖経」も「赤・天聖経」も、成約時代を出発する文先生の告白書であることが分かるはずです。


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