⑥「アメリカとは?」 統一教会が既成教会化した ☞☞ スッキリ『天聖経』が見えてくる 「既成教会・キリスト教」「青少年」「牧師」
これまでの記事で天聖経に載っている「アメリカ」という言葉は、世界基準になった第三イスラエルという内的国家をあらわしている場合と、実際のアメリカ合衆国をあらわしている場合があることを考察してきました。
このことが分かったことにより、天聖経に載っている「既成教会・キリスト教」「青少年」「牧師」という言葉も、その多くが、「既成教会・キリスト教」は第三イスラエルの『統一教会』をあらわし、「青少年」は第三イスラエルの『二世たち』をあらわし、「牧師」は第三イスラエルの「教会長」をあらわしていることになります。
統一教会が後退して既成教会のレベルになってしまった
中でも、「既成教会・キリスト教」という言葉が『統一教会』と肩を並べるように語られていますが、この場合も「既成教会・キリスト教」は『統一教会』を言っている言葉であると見るべきです。
もちろん、、既成教会・キリスト教そのものを言っている場合もありますが、それは蕩減基準がまだ立っていない時代圏であった1960年代、1970年代、1980年代の御言葉になりますから、原理基準をもって読めば、文脈的にも理解できるはずです。その証左として、そのような御言葉《A》《B》を丹念に文字どおり読めば、文脈が微妙な誤謬となって、曖昧化していることが分かるはずです。他にも沢山存在しています。
原理基準からして妥当な語り方 ☞☞ 『天聖経』
このような蕩減的な観点からすれば、1992年以降、不信したお母様と幹部たちにに対して「既成教会・キリスト教」を『統一教会』として語られたということは、原理基準からしても妥当であるということです。
まず、『統一教会』はキリスト教の失敗を蕩減する為に創設されたのですから、当然、既成教会であるキリスト教の失敗を蕩減する使命が40年サタン分立路程の中に組み込まれていました。
このサタン分立時代にあった『統一教会』を、不信した為、1992年以降、「既成教会・キリスト教」として語られていたということです。それが天聖経です。
真の愛の運動時代が到来
つまり、40年間、サタンを分立する為にサタンと闘って来た統一教会、勝共運動の時代が終わり、1992年、文先生が再びメシヤ位置を取り戻されました。そして、1992年以降は、文先生にとっては、闘わない真の愛の運動を展開する時代が到来したということです。
ところが、1992年、文先生は勝利されましたが、扇の要となる第三イスラエルが不信した為、文先生の勝利圏と同期する立場には立つことができませんでした。
つまり、蕩減問題として、キリスト教の失敗を再び繰り返してしまったのです。それがお母様と幹部たちの不信により、「真の父母宣布」にサタンが侵入したということです。
統一教会の不信が既成教会・キリスト教の失敗と同時性となった
この不信により、文先生に対して統一教会が内的に後退したことになりますから、文先生は1992年以降、内的な統一教会を語る時、1945年の当時の不信した「既成教会・キリスト教」に置き換えて、同時性の観点から語られたのです。
文字の奴隷となった幹部たち ☞☞ パリサイ人と同時性となった
ところが、第三イスラエルを「アメリカ」の名をもって語られたことを知らずに、文字どおり理解して不信が増幅したように、「既成教会・キリスト教」という言葉にも文字どおり理解し、指導的な幹部であればあるほど、不信がさらに増幅してしまったのです。
新しい天地の標準 = 「天聖経」 = 第二の聖書
アダム・人類始祖 = 文先生 エバ = お母様
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既成教会・キリスト教 = 第三イスラエル
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最初は、文字どおり読んでみてください。なんとなく、おかしいとは思いませんか?
《A》
天聖経
⑬真の神様の祖国光復 第一章 四
父の国、再臨主の国、愛の救世主の国、天国の生命を中心とした愛の中心存在、天国の生命をもった中心存在として、神様の血統を受け継いで、ここに真のオリーブとして登場し、ついにこの統一教会の群れを支える事のできる統一教会ができたので、これらを中心として、全ての既成教会思想(40年サタン分立路程という蕩減時代の統一教会)を切ってしまって、(1992年以降の真の愛に)接ぎ木をするという事をなしてきたのです。
(ところが、)(指導的な幹部たちは不信して)接ぎ木されまいと騒ぎ、切るといっては大騒ぎしていますね。切ってしまわなければ、それ(統一教会・家庭連合)は滅びるのです。
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(下記が別の御言葉になります。注釈なしです。どう理解しますか??)
《B》
天聖経
①真の神様 第一章 七 1.
堕落していなかったらどのようになるのでしょうか。
今日、既成教会では神様は全知全能で、聖なる方であり、我々人間は俗なる者だと言いますが、間違っています。
あの世に行ってみなさい。
今日、この世で自分たちも「天のお父様」と言っていますが、この父というのは何なのでしょうか。神々しく相対できない関係から父という言葉が出てきますか。それは既に初めから論理的矛盾だということです。矛盾だらけです。しかし文総裁が言うことは事理にかなっています。