平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

⑲「氏族的メシヤ」  「イヌが糞に砂をかけるように」 『私たちも、お父様の「真の愛」に砂をかけた』  無知から獣に陥った統一信徒

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真の愛に砂をかけて  「氏族的メシヤ」失敗
  理由 ☞ 自分の言語で御言葉を読んだ
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  黙示録ではこの人間たちのことを『獣』と呼んでいる



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宗族的メシヤとは・・・

   ☞ 真の愛の主人になること

   ☞ 文先生が統一教会のメシヤになる為の御言葉

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《A》


   天聖経 真の神様の祖国光復 第四章 三



宗族的メシヤとは何でしょうか。


真の愛の主人です。


・・・・そうすれば全てが終わるのです。


宗族的メシヤになりなさいというのは、氏族的先祖になりなさいという事です。




《 コメント 》・・・心眼を開いてお読みください


「宗族的メシヤ=氏族的先祖になりなさい」とは、どういうことでしょうか。


 先ず、無条件で私たちが「宗族的メシヤ=氏族的先祖」になることはできません。


 それでは、私たちが「宗族的メシヤ=氏族的先祖」になる為には、一体何が必要であったのでしょうか。


先ず第一に、文先生の前に第三イスラエルの中から120家庭、160家庭が一族となった絶対信仰の基準を立てなければなりませんでした。

 そうすれば、その基台の上に文先生が再びメシヤ位置に立つことができたのでした。

 この時が1992年の「真の父母宣布」の時でした。しかし、「真の父母宣布」にサタンが侵入してサタンが主管するようになってしまったのです。



もし、それができていたら、第二に、この段階になって初めて、文先生はご自身の肉親の親族に直接真の愛を与えることができるようになっていたのです。


そうなっていれば、第三に、その120家庭、160家庭の一族が文先生と同格の位置に重生、復活、永生するようになっていたのです。


 そして、この勝利圏が全祝福家庭と全人類に恵みの雨を降らせるようになっていたのです。


 この上に立って初めて、第四に、私たちも文先生に倣って自分の肉親の氏族圏に向かって「宗族的メシヤ=氏族的先祖」の使命を全うすることができるようになるということです。 




 私たちの氏族的メシヤの行動は、第一、第二、第三を省略(殺して)して、第四から始めてしまったのです。



イヌが糞に砂をかけるように、私たちも、お父様の「真の愛」に砂をかけたのです。




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イエス様は復活した時も 

   ☞ 自分の肉親に御言葉を伝えることができなかった

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《B》

   原理講論 後編 第二章 第三節 (三) (1) 


③ メシヤのための霊的な基台


ところが、イエスは復活されるとまた、彼らを再びひとところに集められ、霊的カナン復帰の新しい摂理を始められたのである。



《 コメント 》


 イエス様も十字架の死後であっても、『真の愛』をあらわす為に、ご自身の親族圏に御言葉を伝えることができませんでした。


 この『真の愛』とは、愛する親族圏を犠牲として捧げられ、そのうえで、怨讐圏を愛する愛です。それが文先生のご生涯でした。




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文先生にとっての一族とは・・・

   ☞ 統一教会であり、第三イスラエルです。

   ☞ まだ、肉親の親族に御言葉を伝えていません

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《C》


   真の御父母様の生涯路程9 第三節 五 

 

メシヤ宣布というのは何ですか。

自分の家庭を中心として一族がいてこそ宣布できるのです。  しかし、私、レバレンド・ムーンは、その道をすべて経てきました。



《 コメント 》


 文先生にとっての一族とは、蕩減が残っている段階では、統一教会であり、第三イスラエルです。

 文先生はこの段階では、まだ、肉親の親族に御言葉を伝えていません。


 しかし、統一教会、家庭連合の幹部たちは私たちに対して肉親の氏族伝道を推進しています。

 これは『真の愛』から脱線した「悪魔のささやき」を行動に移したことです。


 もし、文先生の前に第三イスラエルの中に、120家庭、160家庭が一族となった絶対信仰基準の家庭を立てることができたなら、イエス様と同じように、文先生は聖和する必要がなかったと言えるのです。


  ☞☞ このことを「氏族的メシヤ」の失敗と言っているのです。


 これが天の国語で御言葉を読むことによって見えてくる私たちの氏族的メシヤの使命であったのです。

 しかし、私たちはお父様の言語ではなく、自分の言語で御言葉を読んでしまったのです。


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