最後は誰も読まなくなる「777」ブログ 本日は「ひとり言」です。
「ひとり言」
777の師は文先生お一人です。もちろん、神様もですが・・・・。
この記事の考察は、誰かに相談する相手をもっていません。私一人です。そして、お父様のみです。祈り、黙想。777双ではありません。
一つのテーマでも御言葉から複数の裏どりしています。最低、三種以上の御言葉が必要としています。それが揃ったうえで記事にしています。
記事のネタは山ほどあります。その中から、摘まみだして記事にしています。
私は2000年頃から、統一教会と文先生から離れる口実を見つけ出す為、御言葉の矛盾を見つけ出そうとしていました。文先生の実態と矛盾する御言葉を見つければ、その矛盾の原因は文先生自体にあるのか、それとも、統一教会の何処にあるのか、或いは、読み手の私自身のものなのか。それを御言葉から解決できるなら、すべての問題は統一教会問題なのか、私自身の問題なのか、どちらかとして整理することにしたのです。ところが、統一教会から離れるはずだった私に、みごとに矛盾を解決する御言葉が出てきてしまったのです。それが、文先生とお母様の堕落です。もちろん、六千年前のアダムとエバの堕落とは全く堕落の動機も様相も違います。
言っていることが分かりますか??
たくさんある矛盾の中で解決した一つが、文先生とお母様の堕落問題でした。堕落論からみても、終末論からみても、再臨論からみても、創造原理の成長期間からみても、祝福問題にしても、また、それらを語られている御言葉からみても、文先生とお母様の堕落は否定できなくなってしまったのです。
さらに、文先生の堕落問題を決定的にしたのが、原理講論に記されていたアブラハム家庭の「アブラハムによるイエスの典型路程」と訪韓修で語られていた「妾摂理」に関する御言葉でした。
1970年に統一教会に入教して、私は、文先生に対して聖和するまでメシヤとして仰いできました。しかし、そのメシヤ像に対して、中心家庭が抱えていた孝進様問題や、日本統一教会の霊感商法問題、そして、偉ぶった幹部たちの驕りの言動や不正、原理からみた清平の先祖解放は絶対にあり得なかったことにより、私の信仰がグラグラとゆらぎ出したことを正当化しようとしていたのです。
還故郷で事業を起こして自立したとは言え、統一教会の霊感商法問題で叩かれた時、中心家庭の孝進様問題でも私の内面は大揺れしていました。本来だったら、故郷に錦の旗を掲げるどころでしょうが、反対に、顔を隠して生きなければならないほどの恥ずかしさを覚えての還故郷でした。何一つ誇るものがない。親にも、兄弟にも、親戚にも、昔の友人にも、自分の子供にも誇れない、まるで罪人か落人でした。
正しいことをしているなら迫害されても堂々としていたのかも知れませんが、やっていることは、原理違反した霊感商法、原理違反した清平の先祖解放、どれもこれも恥ずかしいことばかりでした。文先生は私たちに何に希望もって信仰しろというのか、分からなくなってしまったのです。
しかし、揺らぎながらも、このままでは引き下がれないと思いました。最後は、自分のするべきとだけはやり遂げてから結論を出して、文先生と統一教会から決別しようとしたのです。
文先生がメシヤなら、どのような御言葉が語られていたのか、すべて調べ上げ、すべて読もうと決心したのです。月刊誌を整理したり、ネットで調べ出したのです。そうしたら、ほとんど、重要なものはネットにありました。これを全てをワードの入れて、ナビゲーション機能と検索機能をフルに利用し、御言葉の考察を始めたのです。三万ページになります。考察用が一万ページ。疲れた時助けられたのは、自動読み上げ機能でした。自動読みで聞いているうちに、また、力が出て自分で読みだしたりしたのです。人間は曖昧で嘘をついてもパソコンは絶対に嘘をつきません。膨大な記憶力も永遠に完璧です。検索機能は花丸です。パソコンを利用しないで御言葉を読んでも限界と曖昧があります。
三万ページの御言葉から、ある一つの言葉を検索機能に入れれば、あっという間に、その御言葉が現れます。検索もいろいろ工夫しました。あらわれた御言葉の重要なものにはインデックスを付けて、いつでも、引き出せるようにしました。
お陰様で、これまでの信仰観は完全に卒業しました。昔に帰る気は全くありません。メシヤ観、原理観、統一教会観、子女様観、祝福観、文先生観、お母様観、すべてが一変しました。もう、十年近くなります。
文先生は私の中で、今までにない存在です。師以上の師、真の父です。