平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

全家庭連合が混沌状態に陥いることを、既に、原理講論は読み取っていた

原理講論は統一教会、家庭連合の姿をそのまま写し出す鏡のようです。


私たちは長い間、原理講論が新しい真理であると勘違いしてきたのかも知れません。原理講論はあくまでもイエス様までの原理であるとお父様は語られています。ということは、特に訪韓修で、更にそれ以降に語られた御言葉こそが成約時代の御言葉であり、原理講論にはない全く新しい御言葉ですから、これこそ原理講論の総序とか終末論で言っている「新しい真理」となるのではないでしょうか。


次の御言葉は原理講論の総序の「新しい真理」に対する抜粋です。
原理講論はキリスト教の失敗によってその代理蕩減として登場しましたが、この統一教会自体はキリスト教とは次元の違う統一原理と、その後お父様がは語られた「新しい真理」を持っていますが、残念ながら、統一教会は不信仰に陥ってしまったことによって、この新しい真理の本質を悟れずに、統一教会はキリスト教と同じ運命を辿ってしまったと言えるのではないでしょうか。


次の御言葉をその様な観点からお読み頂ければ、現在のような、全家庭連合が混沌状態に陥いってしまったことを、既に、原理講論は読み取っていたと言えるのではないでしょうか。

原理講論 

  総序


またこの新しい真理(特に訪韓修で、更にそれ以降に語られた御言葉=成約時代の御言葉)は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教(統一教会)の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。


知識人(=統一教会の教職者、幹部たち)たちは、ただ単純に、イエス(文鮮明師)が神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、(特に、メシヤ宣言以降、)今日まで、神学界(全家庭連合=三男、七男、家庭連合)において、多くの論争が展開されてきたのである。


それゆえ、この新しい真理(特に訪韓修で、更にそれ以降に語られた御言葉=成約時代の御言葉)は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない。


のみならず、今まで難解な問題と見なされてきた三位一体(特にこの問題は最重要テーマであり、神様と文鮮明師と聖霊について)の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない。


そうして、神が人類を救うに当たって、何故そのひとり子(=文鮮明師)を十字架につけ(=基元節を前にして、あえて聖和させて)、血を流さねばならなかったのかという問題も、当然解かれなければならないのである。


更に加えて、イエス(=文鮮明師)の十字架(=聖和)の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという(家庭連合が分裂している)事実は、彼らが重生した以後においても、(現在の家庭連合も)それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。


このような実証的な事実を見るとき、十字架(=聖和)の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかということが、大きな問題とならざるを得ない。

事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった。


しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、(家庭連合の中にも)一度たりとも存在したことはなかったのである。


のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリスト(=文鮮明師)の精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら、今まで我々が信じてきた十字架(=全体蕩減)の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、いったい何によって、またいかに合理的に説明することができようか等々、我々を窮地に追いこむ難問題が、数多く横たわっているのである。


それゆえに、我々が切に待ち焦がれている新しい真理(特に訪韓修で、更にそれ以降に語られた御言葉=成約時代の御言葉)は、これらの問題に対しても明確に解答を与え得るものでなければならないのである。



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