「赤・天聖経」 ➡ 「文先生が堕落圏にとどまった」・・この原因は何か??
昨日の記事のつづきです。
下記の赤・天聖経に載っている(※1)の「父(文先生)の命を奪い、・・・」という言葉をどう理解したらいいのでしょうか。
これは下記の御言葉全体を読まれれば理解できることですが、(※1)の「父(文先生)の命を奪い、・・・」は事実蕩減であった「アブラハムによるイエスの典型路程」に原因があることを言っているのです。
事実蕩減とは六千年前のアダム家庭で起こった堕落過程をそのまま再現して蕩減することです。この事実蕩減を神様の真の愛から考察すると、(※3)真の愛という性質には奪う概念が存在しません。ただただ、与えることのみであることを知っておかなければなりません。
ですから、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」というイエス様の教えは、ただただ、怨讐を愛することを言っているのです。
つまり、このイエス様の教えである頬を文先生とお母様に置き換えると、「六千年前にエバをサタンに奪われたなら、(神様とお父様は)再びお母様をサタンに捧げなさい」となるのです。これが「アブラハムによるイエスの典型路程」になるのです。
ですから、文先生が神様に代わってお母様をサタンに差し出したということは真の愛によるものなのです。この問題は、上記の(※3)のリンク先を理解しなければ理解できません。統一教会に多く存在している(例えば、師観ブログ)道徳的人道主義者、空想的理想主義者には「アブラハムによるイエスの典型路程」は理解困難です。
ですから、文先生とお母様の間にあった「アブラハムによるイエスの典型路程」や「妾摂理」の事実蕩減が、未だに癒されていない今の時代圏において、もし、道徳面を強調する指導者が家庭連合、サンクリチアリ教会、家庭平和教会の中にいるなら、その指導者がたとえ立派に見えたとしても、お父様の立場を理解していない、或いは、お父様とは別の道を行くことを(初めから知って)説いている指導者とならざるを得ないのです。
ですから、その良き例が金振春名誉教授です。彼が道徳的側面から「アボニムの尻尾を取る為に」というお母様の「恨」を代弁しているこの動画は、お母様が善を装いながら、お母様のお父様に対する事実蕩減の「恨」が表出している時代錯誤の典型なのです。
文先生が舵を取られたこの「アブラハムによるイエスの典型路程」は事実蕩減として価値があるのであって、本来の一夫一婦という純潔の観点からすれば本然の世界にはあり得ないのです。その為、文先生は自らを(※1)で「父(文先生)の命を奪い」と語られ、お父様が堕落圏にあることを言われたのです。
たとえ神様に帰る為、真の愛による事実蕩減であったとは言え、堕落圏に留まることから(※1)で「父(文先生)の命を奪い、・・・」と語られたのです。
御言葉
赤・天聖経
第7篇 地上生活と霊界 第二章 第三節 13
(注釈なし)
13 サタンは、神様の愛を蹂躙した怨讐です。父と母が眠っているところに入ってきて (※1)父の命を奪い、母を強奪したどろぼうです。
サタンとは何でしょうか。
神様が愛するエバ、神様の実体的相対であるエバを強奪した愛の怨讐です。
(※2)そのような姦夫に自分の愛する人を渡してあげ、祝福してあげられる心をもたなければなりません。怨讐を愛そうとすれば、赦してあげる程度では駄目です。
その程度でサタンが「ありがとう」と言いますか。かけがえのない愛する人を怨讐に渡し、祝福してあげられる心までもたなければなりません。これが最後の峠です。
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(注釈入り)
13 サタンは、神様の愛を蹂躙した怨讐です。(サタン・天使長的人物が)父と母(文先生とお母様)が眠っているところに入ってきて(サタンが文先生とお母様に対して「あなたたちが私(サタン)を愛さなければならない」と言って)父(文先生)の命を奪い、母(お母様)を強奪したどろぼうです。
サタンとは何でしょうか。
(六千年前、)神様が愛するエバ、神様の実体的相対であるエバを強奪した愛の怨讐です。
そのような姦夫に自分の愛する人(妻・お母様)を渡してあげ、祝福してあげられる心をもたなければなりません。怨讐を愛そうとすれば、赦してあげる程度では駄目です。
その程度でサタンが「ありがとう」と言いますか。(先生は)かけがえのない愛する人(妻・お母様)を怨讐(天使長的人物)に渡し、祝福してあげられる心までもたなければなりません。これ(アブラハムによるイエスの典型路程)が最後の峠です。
「アブラハムによるイエスの典型路程」に対する これまでの記事
お父様がお母様を「堕落させた」???・・・「アブラハムによるイエスの典型路程」