平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

ユダの真相・・・引用記事 ☞ 『龍明小説 紡ぎます』  献金を 集めて速し ヘリコプタ

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『この記事は777の本意とする記事ではありません。その本意については   《 777 ☞ 人に向かって「裏切者」と言う者  地獄の火に投げ込まれる 》をお読みください。』
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私は《 ユダの真相 》という下記の記事の赤文字に対して、下記のような「令和の鞍馬天狗」さんから質問(下記の※1)を頂戴しました。


本日の記事の重要な観点は(※2)です。


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お父様の晩年期が見えてきます
  ・・・「弱弱しいメシヤ 贅沢 ボケ 裸 お漏らし おむつ 老衰」の真実 
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記事

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 イエス様がユダに対して「生まれてこなかった方が良かった」と言ったのは、ユダを呪った言葉ではありません。 』

 

この「生まれて来中た方が良かった」という言葉は、イエス様が以下の①②③④の思いから、ユダに対して言った言葉であったと私は考えています。


① お前(ユダ)がいなければ、一日、一ヶ月、生きてみ旨を成す道を開くことができたかもしれないであろうに・・・


➁ お前(ユダ)が来なくても、私は殺される為なら何度でも自分で行くことができたのに・・・


③ どうして、別れの最後の晩餐のこの日に、私の願わない姿でお前(ユダ)があらわれたのか・・・


④ 私を裏切りたいなら、お前(ユダ)の好きなように成しなさい


という心情だったと御言葉から理解しています。


つまり、①②③④から分かるように、イエス様がユダを呪って言った言葉ではない。真の愛を顕されたイエス様が呪う心を持つはずもないのです。




(※1)
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上記の赤文字に対する・・・
   「令和の鞍馬天狗」さんからのコメント
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じゃー、お聞きしますが、ユダを呪ったのではないとするなら、どうして、ユダに裏切るように仕向けたのですか。

これを真の愛から、どのように説明できますか?

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コメントに対する答え


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イエス様の真の愛から・・・ユダの裏切りを考察します。
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ここでの質問のポイントは、下記の最後の晩餐を記した聖句にある。

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ここで質問の要約・・・

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問題は・・・


真の愛を顕そうとされていたイエス様が「どうしてユダが自分を裏切って罪を犯させるように仕向けたのか?」という質問です。


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マタイによる26章23-25

『イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。

しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。

 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。

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ここからが質問に対する答え・・・

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真の愛を顕すイエス様が、ユダに罪を犯すように仕向けた理由は何か??

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 皆さんはこの質問に対して、どのような答えをお持ちでしょうか?


この答えは真の愛の性質にあると言えるのです。それを示している良き見本の聖句が下記です。



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マタイによる福音書5章


38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

39   しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 ・・・ 42  求める者には与え、借りようとする者を断るな。


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   更に悪を行わせるのが・・・真の愛

人の頬を打つことは悪です。これは誰にでも分かります。しかし、ここでイエス様は「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と、打つ者に対して、更に「悪を行わせなさい」となります。


次の聖句・・「42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。」とありますように、たとえ悪であろうと、打ちたい者の心が満たされるように図らうのが真の愛という性質だからです。


つまり、真の愛というのは善悪の概念を超えた性質を持っているということです。



   愛の力の方が原理の力よりも大きい

 統一原理にあるように、愛の力の方が原理の力よりも大きい為、ユダが自分を売り渡すことが悪であったとしても、イエス様のユダに対する愛の力の方が大きい為に、悪を望んでいたユダに対して、真の愛の性質から、更に悪を行うように語ることになってしまったのです。



   真の愛は悪を助長させる・・・誤解を生んだ

 イエス様の真の愛は不信していたユダに対して不信を助長する役割を果たしたのです。これは、親不孝し続ける子供を校正させたいと願いながらも、親が愛を与え続ける為に、反対に、親不孝を助長させている姿に似ている。



真の愛から見えたメシヤの姿


  弱弱しいメシヤ 贅沢なメシヤ・・・彼らの中になじんだメシヤ


(※2)
   文先生の晩年期は まさに 世界基準でユダたちに対された


この典型が、《 龍明小説 紡ぎます 献金を 集めて速し ヘリコプタ/献金を ヘリやジェットに 持ってかれ 》です。



  モラル心のある良心家たちは 特に、2000年以降のお父様に躓いた


 お父様の晩年期は、お母様と欲深い幹部たち、周りにはユダたちがお父様から甘い汁を吸う為に、ヒルのように勢ぞろいしていたのです。


 イエス様が個人レベルで・・・サマリヤ人と生活されたように、取税人と親しくしたように、女たちと共にした生活したように・・・


 お父様もそのような贅沢極まりないお母様と、欲深い幹部たちに囲まれていた為、彼らの責任分た時代が終わったことから、裏切るユダと弟子たちを晩さん会でもてなしたイエス様と同じように、文先生も彼らに対されたのです。この時、イエス様と文先生に真の愛を見たお方は神様だけだったのです。


 日本の12双、777、1800双の中でモラル意識の高かった良心家たちの多くは、この時代圏のお父様の真の愛を知らず、お父様のレベルの低さと勘違いを犯して躓いたのです。


   ユダたちに命までも捧げられた文先生
 これによって、ユダたちは文先生を利用する価値があるとして、さらに、甘い汁を吸い続けるのです。そうすると、文先生は彼らの欲望を満たす為に全てを失っても、最後は、ご自身の生命を失っても、彼らの欲望を満たされるのが真の愛なのです。


  一体となったユダ



    イエス様と文先生  完全同期
 ユダに対するイエス様と、不信のユダたちに囲まれていた文先生の姿が重なることが理解できますか?????


 ですから、晩年期の文先生は彼らの不信が決定的であった時、彼らを叱ってもその時だけ、彼らを受け入れて愛され、躓くならお父様に責任があったように対され、不信するならその不信に彼らが気づかないように対されたのです。


   真の愛ならではの悲劇・・・先生が躓かせた立場に立った
 晩年期のお父様は、壇上で裸になったり・・、おむつをしてお漏らしをしたり・・・、そして、お母様と子女様たちと幹部たちから・・・ボケたと決定づけられ、その為、ボケをさらに演出して彼らの期待に応えたのです。真の愛ならではの悲劇です。


 真の愛は・・躓いていた彼らがさらに躓くように対され、・・・聖和されたのです。何故なら、聖和することでしか次の道が開かれなくなってしまったからです。



   彼らの罪の全てを負われた文先生
 そして、聖和せざるを得なくなったとしても、それは、老衰であり、ボケであり、肺炎であったと・・・、お母様の意向を受け入れて彼らに罪がないかのように清平の密室とし、全面的に配慮されたのです。何故なら、それが、真の愛であったからです。

イエス様は公開処刑・・・文先生は密室 真の愛の勝利



ですから・・・


 イエス様がユダに対して「生まれてこなかった方が良かった」と言ったのは、ユダを呪った言葉ではありません。


これを・・別の言い方をすると・・・・・


「① お前がいなければ、万に一、一日、一ヶ月、生きてみ旨を成す道を開くことができたかもしれないであろうに・・・


➁ お前が来なくても、私は自分で十字架で殺害される為なら何度でも行くことができたのに・・・


③ どうして、別れの晩餐の今、私が願わない姿でお前があらわれたのか・・・


④私を裏切りたいなら、お前の好きなように成しなさい



もう一つあります・・・


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イエス様の真の愛から・・・十字架の死を考察します。
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文先生は・・

 イエス様が十字架上で「神よ、何故に私を見捨てたもうのですか?」と言われたのは、失敗であったと語られたことがありました。


本来だったら、

①神様、私が生きてみ旨を成す道は少しの可能性も残されていないのでしょうか??


➁神様、あなたの解放の為なら、この息子は、何度でも何度でも、千回でも万回でも、死の道を行きますから、一日でも、一か月でも、あなたの為に生きてみ旨を成す道が開けないでしょうか・・・


③それができなければ、神様の御心に沿ってなしてください。


と祈らなければならなかったのですと・・・お父様は語られた。


 お父様はこのような道を生涯に渡って歩まれ、さらに聖和された霊界においても、そのような道を行かれる語られた御言葉があります。

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