平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

◆《 創立以前の内的教会史》(1)

平和の主人を読むにあたって、とても重要なみ言を紹介します。
お父様とお母さまの内的摂理について詳しくわかりやすく語られています。このみ言を理解していますと、平和の主人を読み解くにあたって一層深い洞察力が生まれるようになります。


長いみ言葉ですので、頑張ってください。赤い文字と青い文字だけでも目を通してください。三回続きます。


創立以前の内的教会史(統一教会の創立二十四周年) (1/3)1977.5.1 ベルべディア


◆復帰路程の三段階

 原理的観点から見て、神の摂理路程は三段階に分けられます。神自身を中心とした摂理、天使界を中心とした摂理、そして人間を中心とした摂理です。



 まず旧約時代は、神が直接働き給うた期間であり、未来の摂理基台を造成する準備をするために、神御自身自ら先頭に立って、自ら模範を示しながら導いてこられました。


次の新約時代は、天使を中心とした摂理時代であり、天使界の働きに相当する霊的摂理として、霊的救いのみを成就する時です。そして最後の成約再臨時代は、実体人間の摂理です。



そして人類歴史の終末期において、これらの神の摂理全体を代表する国、すなわち歴史の主要なる局面のすべてを縦的に取り戻す、一なる実体国家が現れなければなりません。



 ここでアブラハムの供え物について見てみますと、彼は、祭壇上に鳩と羊と雌牛の三種の供え物を捧げました。ところがその時、鳩と羊は一対でしたが、雌牛だけは単独で捧げられたのです。それは摂理歴史において、一対の鳩で象徴される蘇生期と、一対の羊で象徴される長成期は成就しましたが、一頭の雌牛で象徴される完成期だけは、まだ成就しないことを意味するというわけです。そしてそのいまだ成らざる人類史の最後の章を成就するために、韓国が神によって備えられました。ですからこの国において、アブラハムの供え物のすべてが、横的に、実体的に現れなければなりません。



 またこの国において、旧約時代を代表する神のみ業と、新約時代を代表するイエス様と聖霊の役事と、成約時代を代表する再臨の主のみ業が現されなければならないのです。それらのすべての摂理の基台が、この地上のどこかに実体的に立てられなければならないからです。 



◆女性の道



 神の最終目的は、一人の完成されたアダムの創造でありますが、そのためには、エバが見いだされずしては、アダムは生まれ出てきませんし、エバを通してのみ、アダムも完成することができるのです。言い換えればアダムは、神によって送られた中心人物ではありますが、アダム一人だけでは全責任分担を全うすることはできません。




エデンの園における人間堕落の動機については、全面的にエバに責任があるのですから、復帰においても、堕落の蕩減をするエバが現れて、その責任を果たさなければ、アダムの完成の道がないというわけです。




 しかしまた、そのエバもまた、アダムなしには完成する道がなく、エバが完成するためには、まずアダムを生み出し、そのアダムから創造されなければなりません。結局、まずアダムが、この地上に生まれ出てこなければならないことになりますが、そのことに対しては、直接責任があるのは神でもイエス様でもなくて、その責任はエバにあるのです。



エデンの園でも、エバがアダムを破滅させたのですから、アダムを育て、生み直す責任はエバにあるというわけです。




 二〇〇〇年前のイエス様の時には、洗礼ヨハネがそのイエス様の相対の使命をもっていて、彼の使命が完遂されることによってイエス様がメシヤとして来るようになっていました。



同様に再臨主の時には、エバ(女性の代表者)が洗礼ヨハネの役割を果たさなければなりません。



しかも二〇〇〇年前には国家基準においてでしたが、再臨時代においては天宙的基準においてその使命を果たさなければなりません。




 復帰摂理は、神の王座という最高の立場から出発するのではなく、人間としてのあらゆる面で、最低の立場から出発しなければなりません。



なぜなら、アダムにこそ全人類の復帰に対する全面的な責任があるのですから、アダムは、その路程を地獄の最低の所から出発して、あらゆる人間の立場をすべて体験しながら、




神の王座に至るまで上がっていかなければならないのです。そしてそこでエバに会い、初めはそのエバに仕えて、自らをアダムとして完成させていかなければなりません。



 女性のもち得る最も尊い名称は、「母」でありますが、アダムは、その尊い自分の母に仕えるごとく、エバに侍らなければならない期間があるのです。




また女性のもう一つの名称は妻あるいは花嫁であり、第三には、母、妻という家庭内にとどまる存在に対して、外的にはすべての女性の立場と栄光のうち最も高いものである女王です。そしてもちろん、これらのすべてを総合した神の国の女王が、女性だというわけです。女性は最終的には、このように三つの局面をもっているのです。



 女性なら誰でも、もし、「あなたは良き母になれると思いますか」と問われたら、女性なら当然のこととして普遍的に、「はい」と答えることでしょう。それは「良き妻になれると思いますか」と問われたときも同様で、普遍的に「はい」と答えるでしょう。事実、女性である限り誰でも普遍的に、母と妻の役割はうまく果たせますし、これらの名を得る資格があります。




 しかし、「あなたは女王になれると思いますか」と問われた場合、現実には社会においてすべての女性が一国の女王になれるわけではありません。誰が女性に女王の名を与え、その資格を認めるのでしょうか、神様でしょうか、それともイエス様でしょうか。




 原理的にも、エバは、アダムに会うまではその名を与えられないというのです。しかし歴史を通して、この地上に数知れない多くの男性がいましたが、そのすべてが堕落したアダムの立場でしたので、実際は神の側の女性にとって、一人も真の男性がいなかったというわけです。ですから女性は長い間その名を受けることができず、歴史を通して常に誤った扱いを受け、虐げられてきたのです。そして歴史を通して、悪なる人、悪なる家庭、悪なる社会、悪なる国家、そしてサタンから悪なる方向に利用されてきました。 



◆女性解放史の原理的背景




 それではいつ女性は解放の時を迎えるのでしょうか。キリスト教はこれを明らかに示しているのですが、すべての女性は一人の完成した男性を待ち望んでいて、その男性に会うまでは命によみがえることができないのです。ですから過去の全歴史を通じて、惨めな女性の歴史が続いてきました。



 このように常に縛られてきた惨めな女性の立場に対して、一九一八年から一九八八年までの約七十年間は、多くの女性上位運動が起こり、女性の位置が向上してくる時で、男性を支配しようとする女性たちすら出てきます。


最も典型的なウーマン・リブ運動の国はもちろんアメリカですが、今日のアメリカ社会でなら、ある意味ですべての女性が普遍的に、女王の役割を果たしているともいえます。この国では、女性たちが主人のごとく振る舞い、男性たちは小さくなってビクビクしていることが多いのです。


 しかし本来の女性の立場はこういうものではなく、歴史的にも、聖書に書かれたヘブライ史を見てみると、女性の権利などというものはほとんど与えられていなかったことが分かります。そして神の摂理の中心的役割を果たしてきたのもすべて男性であるというように、聖書的概念によると、現代のかかる主管性転倒的状況は、正に異常な事態であるといえます。また聖書には女性は「ベールを被るべし」とありますが、それは女性は謙遜であるべしという意味であって、謙遜な立場で夫に会おうとする、ヘブライの女性の立場を表しています。




 しかし、現代においてはどうかというと、ベールを被るどころか、自分の身に着けた衣服まで取ってしまう者まで現れてきました。先日先生は、ニューヨークの街で信じられないような光景を見ました。何人かの貧しそうなみすぼらしい男たちが、集まってピケを張り、デモンストレーションをしているのですが、そのプラカードには何と、「女性たちよ、我々を解放せよ」とあるのです。それは実にほかでもない、「男性解放運動」だったのです。




 それにしても先生は、彼らが、原理を知らないがゆえにこういうことで時間を無駄にしていることを、残念に思わずにはいられませんでした。このようにこの世界に起こっている一時的、時代的な現象ですら、ただ漠然と起こっているのではなく、すべて背後には原理的な背景があるのです。 



◆神様の女性観



 では、女性が権利を主張して、女性上位運動を続けていく期間は、どうして七十年間なのでしょうか。それにこの八八年までの期間はどういう時かというと、人類史上でも最も危機的な時代であり、神の全復帰歴史を終結せんとしている終末期に当たります。七十年は完成を意味しますが、今や女性は、女性本来の立場を回復しつつあります。それは真の男性に会う準備をする七十年間であるともいえます。ですからアメリカにおいて、女性が能動的、主導的になることにも理由があるわけです。しかし、時が来れば女性は、本来の相対的、受動的立場に戻るべきであり、その時が既に来たのです。それにそうしなければ女性はすべての男性を失ってしまうことでしょう。女性は、女性らしいしとやかな人と思われたいでしょうか、それとも、勇敢で男のような性質の人と思われたいでしょうか。




 また男性の方も、男らしい奥さんが欲しいものでしょうか。先生がアメリカで祝福をした時、ある驚くべき事実を発見しました。先生が西洋の男性たちに、どんな女性、どの国の女性と祝福されたいか、と尋ねたところ、何と九九パーセントの男性が、「東洋の女性がいい」と答えたのです。西洋の男性と東洋の女性の組み合わせはよいでしょうが、西洋の女性が東洋の男性を夫にもつ場合には、不利な条件があるかもしれません。第一に女性のほうが背が高いということです。一般的に女性の中には、背の高い男性を夫にもちたがる人が多いし、男性のほうは、自分より少し低めの背丈の人を妻にしたい人が多いといえるのです。




 女性のほうがより低く見えるほうが、より自然であり、正常であるといえるでしょう。神は、女性が常に男性を見上げ、尊敬するように、概して女性を男性より低くつくられたのです。それは女性のためにそうされたのであり、もし女性のほうがより高かったら、歴史を通して女性は、もっとトラブルの多い悲惨な道を歩んだに違いありません。神はまた、子供を生むために強い土台が必要であり、ほとんど家の中に座っている立場にある女性に、安定した下半身を与えられましたし、男性は、常に立っていて、女性のために働き、走り回っているので、やせてたくましくつくられています。




 神は、神御自身の概念、構想理想に従って創造されましたが、それによると、男性は主導的、能動的であり、常に働いて実績を得てくるべく造られているし、女性は常に消極的、受動的で、夫を待っているというように本来造られているというわけです。




 神が本来女性に与えた立場に帰る時が来ました。ことにアメリカの女性はそうしなければなりません。アメリカ社会では、女性があまりに強すぎるので、本来女性にあまり主管されたくないようにできている男性は、女性と一緒にいたいと思わないものですから、結婚してもなかなか一体化しにくいのです。男性は結婚しても、ホテルかアパートの個室に住みたいという人もいます。それに女性は結婚すると、金や楽しみやすべてのものを男性から奪い、いざ離婚するとなると、男性に何百万ドルもの莫大な慰謝料を請求します。ですからアメリカの社会通念によると、男性は一回以上、二回も離婚すると、惨めにも貧しくなり、女性からすべてを奪い去られてしまう。しかし女性のほうは逆に、二回も離婚すれば、ますます金持ちになるということです。そしてそのことにも意外な原理的理由があるのです。




 神は男性に、サタン世界のすべての富にあずかることを許されました。そして歴史上にサタンは、女性を利用してその男性のもつすべての富を奪い取ってきましたので、




今日終末時代に、神がすべてのものをサタンから奪い返そうとする時にも、女性を用いるというわけです。そういう摂理的理由があるのです。



 では、どこに真の母、妻、女王を見いだすことができるでしょうか。今のアメリカ社会のホームにおいては到底見いだせません。女性たちを真の妻、母たるべく再教育しなければここにはいないというわけです。 



◆摂理の中の女性(一)神の花嫁



 神は歴史を通して、一人の完全な理想の女性を探し求めてこられましたが、すべての女性の中で誰が、真の妻、真の母、真の天宙の女王に値するのでしょうか。ある意味ではすべての女性が、それらの範疇に属し得るそれらの候補者であるといえます。




 女性が権利を主張して上位運動を起こし力を得てきたのは、終末期に神が、実体聖霊を選ぶ徴候だと考えられます。神は終わりの日には、最も典型的な真の妻、母を動員しようとしますが、彼らは自らをサタン世界のすべてから完全に分別して、神を中心とした典型的な妻、母、女王として神に来なければなりません。




神は、そのように過去のすべての因縁を断ち切って、神に帰ることのできる勇気ある女性を探してこられたのです。そして神中心のある女性を選び出されました。



そして神はその女性に命じられました。「あなた自身の今いる環境にありながら、サタン世界を完全に断ち切って勝利的な女性として立つために、神に対する絶対的な忠誠をもって真の女性としての使命を果たしなさい」と。



 そしてその女性が、自らを完全に神の目的のために神の器として捧げ、神に服従せんと決意した時、



サタン側に立つ夫が現れて、子供と一緒になって、「私のもとに帰ってきて忠実な妻として仕えないのなら、お前を殺さなければならない」と言って責め寄ってきたのです。

(これは崔元福先生のことです)



子供も、帰ってこなくなったお母さんに、「どうしてお母さんは私たちを愛さなくなったのですか」と反抗するようになってくるし、周囲の人々、環境のすべてが、絶対的な信仰と忠誠を決意した彼女の道に激しく反対するという状況になってきました。




 神はその女性が想像を絶する苦難に耐え抜いて、夫と子供との情的な因縁をはるかに超越した、そこまで絶対的に神を中心とした、信仰の極致にまで行くのを見届けなければならなかったのです。その女性がそのような蕩減や試練を通過していようとは、神ならぬ誰も知らなかったのですが、真のエバを復帰するためには、そのような人知れぬ試練の道を通過しなければならなかったのです。




 この女性が真に神を中心として立つためには、神への忠誠のゆえに、夫と子供、全家族が、一度ならず二度、三度と、三回以上彼女を殺そうとする試練を通過しなければならないというのです。



その女性は夫と子供の憎悪の対象となる心情的十字架を耐え忍び、ナイフで体を切られたりして迫害されながらも、その最高の迫害に勝利しない限り、絶対的神中心の男性の花嫁の立場に立つことはできないのです




 カトリック教会には二〇〇〇年来、尼僧と呼ばれる人たちがいますが、この尼僧とはどういう存在でしょうか。尼僧たちは、「自分はイエス様と結婚しました。イエス様が私の花婿であり、私の父でもあり、王でもあります」とイエス様を自分の夫、父、王の立場においています。ですから尼僧の生活は摂理的にいえば、いつの日か真の男性、すなわち真の夫、父、王に会う一日のための準備だといっていいでしょう。




しかし神の最終的な目的は、女性をそういう立場にとどめておくことではなく、あくまでも女性が真の母、妻、女王になることでありますから、尼僧はそういう立場で、神中心の女性としての訓練をしている者であるといえます。




 しかしながら、神に仕える女性に二つの型があって、




一方は完全に絶対的に神に従い、想像を絶する迫害に耐えて、自分自身のいたその環境の中で勝利します。




そしてもう一方は、自分自身を壁で囲い込んで完全にサタン世界から隔離しますが、そう苦痛もなく気持ちよく生活しているとしますと、前者のほうがより困難な道でありますし、神の同情は当然そのほうにあるに違いありません。 



◆摂理の中の女性(二)霊的メシヤの花嫁



 韓国に、神の摂理歴史において中心となる代表的な女性が現れなければなりません。「私の夫は神であり、イエス様です。そして神とイエス様と常に交流しています」という、選ばれた女性が現れなければならないのです。



 そしてある女性が選ばれ、「あなたは真の妻であり、母であり、女王である」という啓示を絶えず神から受けていました。その女性は、普通の人が見ても美しくはなく、あまり苦労しましたので顔色も青ざめて栄養失調のように見えますし、常に山に祈りに出かけてむしろ惨めな者に見えました。しかし心の中ではいつも、自分はイエス様の母であり、妻であり、花嫁であるということを感じていました。そして彼女が、「メシヤの妻となるために準備しなさい」という啓示を受けるのです。ところが神が彼女に啓示を与える時に、そのメシヤなる人は、息子のようでもあり、夫のようでもあり、王のようでもあるというように、三つの立場をもつ者として啓示されました。




 実際、メシヤが来られる時、メシヤたる者は王として現れるのではなく、人間の基準として最低の所から、最も惨めな僕の僕の立場で現れ、そこから出発します。メシヤはまず、「僕の僕となれ」という啓示を受けて、その人生を人類の僕の僕として出発するのです。またメシヤは、二つの面における完成を全うする使命をもっています。一つは霊界に対してであり、霊的な地獄から天の王座という最高の立場にまで霊的に上がっていくことによって、全霊界の解放者となるべき使命です。




 ですから先生はまず霊的地獄からその路程を出発し、不敗不屈の霊的勝利者として天の王座にまで上がり、霊界において主管者であることを宣言し、それからまた実体として地上に下りてきて、実体的な地獄生活を出発し、同じ道をずーっとたどって頂点まで上がっていくのです。




 実体的な摂理路程においては、メシヤは神によってではなく、エバによって祝福され、生み直されなければなりません。その備えられた女性を見いだしたなら、まずそのエバによって祝福されなければならないということです。ですからその女性が初めて主に会う時は、彼女に仕える僕の立場にあります。




 人類の代表たるアダムでありながら、なぜ僕であるのかというと、エデンの園における堕落において、男性は女性を主管すべき立場であったにもかかわらず、女性に主管されてしまいました。ですからその主管性転倒を復帰するために、信じられないような仕え方でその女性に侍っていくのです。考え得る限りのことを、その女性の体を洗うことまでもして僕として侍らなければなりません。 その女性は自分の夫より、息子より先生を信頼しました。 



◆歴史を生きるメシヤ



 そうするうちにこの女性は、「あなた(男性・僕の僕は天使界を意味する)はもう既に僕の道を卒業しました」という啓示を受けました。メシヤは僕の立場から出発しますが、僕の段階は旧約時代に当たります。そこから養子の基準、実子の基準と上がり、それから夫の段階へと進みます。




 このようにある人がメシヤとして来た場合、その人自身の一生の間に、旧約から始まり新約、成約というように、全人類史を通過しなければならないのです。




そしてその路程を通じて、メシヤにおいてあらゆる段階が全うされなければなりません。すなわち、僕の立場も、養子の立場も、実子の立場もすべて全うし、さらに夫の立場、父の立場、そして最後に王の立場まで全うして、それらの各段階で完成しなければならないのです。




 一人の男性において、この全プロセスのすべてが通過されなければならないというわけです。



しかもその過程においては、神が主管するのではなく、女性が主管していきます。



そのために選ばれた女性は、メシヤを僕の段階から次第に最頂点にまで引き上げながら、自らも僕段階から、養子、実子段階と全歴史内容を横的に通過し、完成していかなければならないのです。




 しかし彼女を非常に混乱させたことには、絶えず神の啓示が下りて、各段階を卒業したという告知がたった四十日間に立て続けにあったのです。




どこにいても神の声が聞こえてきて、次々と前とは違ったことが啓示されました。




まず「彼はあなたの僕だから僕として彼を用いなさい」と言われたかと思うと、次の日には、「彼はあなたの息子だから息子として愛しなさい」と言われますし、その翌日には、「彼はあなたの夫だ」という具合なのです。




そしてついには突如として、「彼はあなたの王であるから彼を王として(彼に)仕えよ」という啓示が来たのです。



 メシヤが歴史路程の各段階を最高の立場で完成し、全歴史路程を横的に通過した時、初めてメシヤとして夫、王の位置に立つことになり、




今度は女性のほうが、男性の前に僕の立場から完全に服従していかなければなりません。




しかし彼女は、先生を王として侍ることを願わなかったのです。むしろまだ僕として使うことを願ったからです。



それが原理を知らなかった彼女には最高の立場に思えたからです。




 イエス様も初めは、洗礼ヨハネから祝福を受けて侍る立場でしたが、一度主管性転倒を復帰してその段階が終わると、完全に主体は逆転します。




再臨主においても、僕の段階を完成して主管性転倒を復帰すると、完全に女性を主管し、命令する立場に立ちます。




 これまでこの女性が与えた祝福は、すべて霊的なものでしたが、一度男性が王の立場に立つと、彼女は神の器として、僕の位置から出発し、養女、娘、妻、女王の立場と上がっていかなければなりません。そして女性のほうもすべての段階に勝利して、




今度は男性がメシヤの立場において実体的祝福を与えることになります。




この女性の場合も、一度主管性の転換がなされると、絶対的に服従する立場に立ち、そうしなければ彼女自身の責任分担を果たせないことになるわけですが、彼女にとって、それは容易なことだったでしょうか?



 先生は原理を知っていますから、通過すべき路程はつぶさに知っていますし、今どこを通過しているかも分かりますが、




この女性の方はただ啓示を受けただけで、盲目的にその啓示に従ってきただけであり、原理は全く知らなかったのです。




何しろついこの前まで、「その男性は僕である」という啓示を受けていたのが、しばらくするとすぐ、「この男性はあなたの王である、彼に服従しなさい」というのですから、原理を知らない彼女の心はますます乱れ、今や完全に混乱してきました。




 彼女はそれでも神への絶対的な忠誠を示して使命を果たすべきだったのですが、絶対服従ということは、その時の彼女にとって容易なことだったでしょうか。



彼女はまるで神様から裏切られたかのように感じてしまったのです。今や神様は私をお見捨てになったのだ、とその女性はその場で気が狂ったようになってしまいました。



「どうしたというのでしょうか、神様、あんなにも私を愛しておられたのに、今になってこんなにひどい扱いをなさるとは」と狂ったように




先生の周りを回っては、「あなたはサタンだ、サタンに違いない、あなたを殺さなければならない」とサタン扱いし始めたのです。




 しかし一度メシヤが主の立場に勝利している以上、その女性がどういう立場に立とうと、メシヤの勝利は不変であり、摂理は不変であります。




もし彼女が悟って悔い改めないならば他の女性が代わって摂理されるだけです。



つづく


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