平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

◆「創立以前の内的教会史」 (2)


◆お母様の立場がよく理解できる「創立以前の内的教会史」(統一教会の創立二十四周年) (2)


創立以前の内的摂理

 これらのことは、外的な教会が創立されるまでの内的な経過として、外的な教会史の始まる背後に隠されていた象徴的、内的な摂理であり、肉身世界に現れるまでに、霊界を通じてなされたものです。



 先生がひとたび、このような内的な勝利基準を立てると、今度は実体的に目に見える形で世界に現れることができます。

そして実体的に僕の立場、養子、実子、夫、父、そして王の立場まで勝利していきます。


主自身の肉的な一生の間に、六〇〇〇年の全縦的歴史が横的に蕩減されなければならないわけです。


一九四七年に先生の公的伝道期間が始まる以前にこれまで述べた内的摂理の経過があったのです。


 今はすべて実体的に現れてきましたから、あなた方も主が来られたことを知っています。それは、既成の常識的な思考法からは何と異なった、革命的な事実でありましょうか。



 一九四七年から統一教会の公的な復帰が始まる一九五四年までの七年間は、統一教会が実に信じ難い苦難を通過した期間であり、


この七年間に実体的な組織を発足するための実体的な条件を立てるために北韓共産陣営での苦役等、言語を絶するようなあらゆる苦難を通過したのです。

それによってこの七年間にすべての基台が立てられて、一九五四年には正式に世界基督教統一神霊協会の創立に至りました。



 今まで語った路程は、先生がたった一人で歩んだ寂しい孤独な道でした。共に行く友も、支える者も、理解する者もいない孤独な闘いを、先生は闘い抜いたのです。



今まで共に歩んでも、本当に先生を理解できる者は誰もいませんでした。三十年前に韓国の古い食口たちに語ったことも、誰も本当には理解できませんでした。彼らは、知的には分かったけれども、心情的には分かっていなかったのです。


そして三十年後の今になって、先生のところに来てこう言うのです。「先生が三十年前に言われたことが今分かりました」と。あなた方も同じことで、先生が今語っていることが、三十年後に実現されてその時理解される、ということも多いことでしょう。



 今なお孤独な先生です。人間なら行きたいとは誰も思わない孤独の極限の道です。しかし神御自身がたった一人で孤独な方であることをよく知っているがゆえに、先生は子として責任をもってその使命を引き受けたのです。


真の復帰の道は決して安易な道ではありません。それは実に困難な道であります。先生についてくることも困難なことです。



◆秘められた真の統一教会史


 きょう、統一教会の創立二十四周年を迎えましたが、この二十四年間は教会の外的な歴史であり、協会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です。そしてそれはわずかな人々のみが知っています。そして先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけです。


 きょう語った「エバの道」も、外的歴史の背後に秘められた歴史であり、かつて語られたことのないことです。

先生は僕、養子、実子、夫、父、王というすべての段階において、歴史上でその範疇に属したどの人より、すなわちどの僕、養子、夫、父より苦労して、それらの範疇に属するすべての者たちを復帰しなければなりません。そういう苦難の道を行くべく運命付けられている先生です。


しかしこれらの蕩減時代、苦難の時代ももうすぐ過ぎ去るでしょう。長くて一九八一年までです。そしてついに神のみ旨は成就するに違いありません。



◆原理の力と復帰


 原理が明かされるまでは、数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのような世界でした。そして、その闇の中に昇った明るい太陽のごとくに現れた先生は、陽光が万物にくまなくさし通ってすべてを照らし出すごとく、すべての宇宙の原理を詳細に明かしました。今や万人が、真理の光に照らし出された神の真の像と、歴史の真像を知ることができます。



 先生は、真理を理論的に解明し発表しただけでなく、真理に生きた人です。実人生における体験を通して宇宙の真理を知ることができました。そしていち早く、その原理を知ってここにいるあなた方は、いわば霊的エリートといえるかもしれませんが、事実は特別な啓示を受けたわけでもなく、人並み優れた高い良心基準をもっていたわけでもなく、別段エリートらしき何ものもない、たまたまそこに居合わせた見物人のような立場でありながら、どうして幸運にもここに来ることができたのでしょうか。それは原理自体の力によるのです。原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです。


 しかしながら原理自体の力によって引き上げられて、知的に原理を理解してきた者が多いために、啓示を受けた人々が無条件に神に従っていくのに比べて、あなた方には何事につけ、あまりにも理屈で考えすぎる傾向があるようです。



先生の指示に対しても無条件に反応するというより、「従うべきかどうか」と考えてしまうというのです。とにかく何のゆえにかたまたま、幸運にも先生と巡り会ったことによって、あなた方の上に大きな変化が起こり、あなた方は急に献身的な信仰生活を送るようになったわけですが、それも原理の力によって、あなた方の心の中に何か奇跡的な内的変化がもたらされたからこそ喜んで献身生活のできる人間に変えられたのだといえます。



 復帰の業は困難です。それに比べると自分たちで自家用の飛行機を造ることでさえ簡単だといえるくらいです。他のどんなことも復帰の業の難しさに比べたら簡単なものです。復帰という仕事だけは文先生にさえ難題です。よくぞ神は、全人類の復帰の直接の責任をあなた方に与えられなかったと思います。神からそういう使命を与えられなかっただけでも、あなた方は本当に幸せです。そのあまりにも重い責任に耐えて、それを消化し得る人が、文先生以外にいるとは思えないからです。




 あなた方が先生、マスター等どんな尊称で先生を呼ぼうと、生きている間には決して先生の真価は分からないでしょう。そして死後霊界に行って初めて、突如として自分がいかに先生にふさわしくない者であったかを悟らされるはずです。



◆歴史的失敗と清算  


 アダム、エバそしてカイン、アベルから始まった聖書史は、初めから失敗の記録であるといえます。そのあとに続くアブラハム、ノア、モーセ等の歴史上の預言者たちもすべて、歴史の上に失敗を残し、洗礼ヨハネも取り返しのつかない失敗をしました。そしてイエス様の使命でさえ、第一次摂理としては失敗だったというのですから聖書全巻を通じて失敗の記録だというわけです。  


 そしてレバレンド・ムーンの時が来た今、先生において過去の失敗のすべてが償われるべき時が来ました。今や過去に失敗した失敗のすべてを寄せ集めて蕩減し、清算し尽くすことによって、歴史の糸のもつれのすべてを解いて、再びより合わせて勝利へと結ぶ時なのです。  




 今、驚くべき奇跡の上に立って、一人の驚嘆すべき人物を見ているあなた方です。この一人の人において歴史上の失敗のすべてが清算され、正しく復帰されて、一つの統一されたみ業として帰結せんとしているのですから。



こうして家庭基準から世界基準へと拡大する勝利の基台を築き上げ、先生自身としては、なすべき責任のすべてを果たし尽くして、いわばもう休んでもいい立場にあります。


罪なき神の息子としての誇りをもって、誰に恥ずることなく霊界の王座に座しながら、「愛する父よ、私はついになしました」と言うこともできます。  


 先生は、盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、その歴史の秘密のすべてを解明して歴史の法則と原理を見いだしたのです。  




◆出会いは興亡の接点  



 先生と出会うということは実に難しいことです。その出会いにおいて誤れば大変なことになるからです。



先生が直接伝道していた人々の中にも、正しく出会わなかったがゆえに、自らを滅ぼしていった人々がたくさんいました。  


 過去の歴史においても、主に正しく出会わなかった個人、家庭、氏族、国家は、最後には十字架に追われ滅亡していった事実を多く見ることができます。



先生は最も重要な人物でありますが、それと同時にもし正しく出会わなければ最も難しい人物です。アメリカにとっても、もしあなた方アメリカ人が先生に正しく出会わないとすれば、先生があなた方の十字架になるかもしれません。

世界もまた例外ではなく、正しく出会わなければ滅びていくほかありません。


谷底へと転げゆく汽車のごとくに、下り坂をまっしぐらに駆け下りてきて、今にも谷底に転落せんとしていた人類史でしたが、先生はその滅びゆく個人、家庭、国家、世界と出会って、その滅亡を止めるために来たのです。  



 神のみ業は、常に最も衝撃的革命的な逆転の業ですが、統一教会のなせることも正にそれでした。そしてあなた方は今、そういう運動に参加しているわけですが、歴史の重荷を自分のものとして担い、下向する歴史の方向を逆転せしめる原動力となるのは自分たちだと考え、それだけではなく実際に自分の肩にその重みを「重い」と感じている者でない限り、参加しているつもりでも、見物人にすぎません。  

 また、ある一つの宗教運動が起こるためには、その道を直くするための多くの教団が立てられますが、この運動のためにも、旧約から新約、成約に至るまで、あらゆる段階の教団が立てられ、一なる最終的目的を求めて立てられたこれらの教団は、ある段階における、ある目的を達成しては、歴史の中に消えていきました。  


 そういう歴史的に積まれた基台の上に、韓国から現れた統一教会と文先生は、世界中に論議を巻き起こしましたが、その革命的性格からして、私たちの前には二つの運命が考えられます。私たちが滅びるか、世界が生きるかであり、二つに一つです。  



◆七年路程と七千年歴史  


 「復帰」とは、正にすべての鍵となる言葉であり、それは実に、実に困難なる業です。そこにおいては、条件なしに段階を飛び越えたジャンプというものは許されず、厳密な公式に従って一歩一歩踏みしめながら、しかもその一歩一歩に全生命を込めて上がっていく以外にありません。


その途上に、もし自分という意識のある者は、そこに立ち止まることも、前に進むこともできず、そこで消えていかざるを得ないのです。  

 聖書的史観によると、創造から再創造の完成までは、七〇〇〇年であると言われていますが、この全七〇〇〇年が、一人の人によって七年間の路程の中に実体化されました。


そしてそのためには一人の人、文先生の四十年間の人生は、七〇〇〇年の負債を全部返し尽くさんがために歩み抜かれなければなりませんでした。

もし原理というものを、先生がただ口で語って発表しただけだったとすれば、神も、サタンもそういう原理を原理として認めたはずがありません。  



公式に従って具体的に負債を払いきらなければならないのですから、そのためには、先生が自分から戦いを挑み、その戦いに一つ一つ着実に勝利していく以外に道がなかったのです。サタンもそうして実証された原理に対しては、何も言う条件がありません。  



 こうして語る前にすべて具体的に生活され、既に実体化された原理ですから、この一人の人によって既に実体的に探しだ出れた復帰の道を、あなた方はただ一歩一歩歩んでいけばいいのです。いわば勝利の基盤の上に既にガソリンも入れられて走っている、経験ある運転手(先生)の車に、たまたま拾い上げられたヒッチハイカーのようなあなた方です。


 先生自身の目標は既に果たされたともいえる今、そういうあなた方はむしろ重荷になっているかもしれません。本当は先生を親のように呼ぶ資格もないのですから、親と呼ぶ前に息子、娘としてふさわしい成長をしてから来てほしいものです。  


先生が、七〇〇〇年人類失敗史を七年間の路程で償えるように、七年間で七〇〇〇年分を歩み尽くせる道を示したのですから、つまりあなた方は、わずか七年間を歩むことによって全七〇〇〇年歴史を歩んだ立場に立てるというのですから、いわば誰でもが走ることのできる超高速道路が敷かれたようなものです。なすべきことは、ただこの七年路程を走り抜くのみです。


しかしながら実際問題として、七年路程を全うするためには、カルバリの丘を十字架を担いでいかれたその瞬間のイエス様のごとくに、それくらい真剣に歩むことを決意すべきです。何しろ七年間に、僕の僕から出発して、僕、養子期を経て、実子期、夫婦期、父母期を通過して天宙の王に至るまで、あらゆる障害を乗り越えてその一つ一つに勝利を勝ち得なければならないのですから。



またそのためにはこの地上で肉体をもって歩み得る期間というものが、いかに貴重であるかが分かります。  



 先生は実体基準で既に四十年間歩んで、その上で今、七年路程を歩むことを教えているのですから、あなた方にはわずか七年間でいいにもかかわらずこの上もっと易しい道を与えてほしいなどという者がいるとすれば、それこそ盗人根性にも等しいものです。  




◆出発の原則  


 一九五四年五月一日、先生が教会を創立した時、小さな古ぼけたむさくるしい家、つまり初代の統一教会の前に、ささやかな看板を出しました。それは歴史上で最も小さな看板でありましたが、しかしその小さな町の、一番小さな看板に示された言葉というものは、他のどんなに大きな看板よりも、もっと大きな内容を意味していました。「世界基督教統一神霊協会」とあるのですから。  



 私たちの教会の出発はそういう所からでした。部屋はといえば、頭を壁に付けて横になると、足が向かいの壁につかえるくらい狭かったのです。しかも当時は、その粗末なみすぼらしい家屋でさえ、教会のものではなく借家でした。


ここアメリカでは、全五十州に一つの実体的な基盤としてのセンターが既に設置されていますが、今あなた方がなさんとしている内容自体は、先生が二十四年前に歩んだ路程のそっくりそのままです。



 五十州から来ている地区長たちを見てみると、教会員たちから、まるで僕から侍られるように侍られているようですが、もし初めから指導者が、「私は地区長であり、教会員に仕事を命令する立場である」と教会員に侍られることを願うようでは、そういう州や教会は決して成功しません。


先生はそういう指導者の道を教えたことはありません。僕の立場から出発して、養子、息子、夫、妻と段階を踏んでいく原則の道をいかない限り、決して成功することはできないはずであり、



そういう道を行くことなしには、今日の統一教会もあり得なかったことでしょう。



 例えば、統一教会の女性ならばどういう所から出発すべきかというと、「私には男性を見る資格すらありません。どんな男性も私にはあまりにも立派過ぎてふさわしくありませんし、こんなに幼い自分ですからかえってその人の重荷になるだけです。また、路傍をさまよう乞食が自分の夫になるかもしれないと想像してもみましたが、外的な乞食はかえって内的には神の人かもしれないと思うと、なおもその乞食にすらふさわしくないことが分かりました。ですから自分の祝福のことなど考えないで、ひたすら神の目的のために献身させていただきたいのです」と先生もそうしたごとく、あなた方もこのように、僕の僕の立場、完全に自己を否定した立場から出発すべきです。  



◆僕から王まで  


僕から出発して養子、実子と上がっていくということは、主人がある僕に対して、「お前は本当にいい僕だから私の養子にしよう」というようなものであり、またその養子の中から、「お前は本当にいい養子だから私の実の息子にしよう」ということになったり、実子の中から、「お前は私の真の息子だから私が祝福してやろう」と、夫、妻の立場に立てたりするようなものですから、そういうことが簡単にたやすく起こり得ることでしょうか。具体的に「上がる」ということは簡単なことではありません。



 そして、神があなた方を祝福するということは、そういうことであって、僕であった者が両親の立場にまで上がるというのですから、容易なことではないのです。そしてついに祝福されて子供を生むと、その子供は、原罪と関係のない神の血統圏に生まれて、直接神の国に入ることができるというのですが、

しかしその子供の両親に、「私は完全に原罪から解放された」という確信なくして、どうして自分の子供を罪なき子女として生み出すことができるでしょうか。そして実際にそういう確信を心からの実感としてもつようになることは生易しいことではありません。



 こうしてあなた方自身が、父母を経て天宙の王の位置にまで上がって霊界に行くと、全霊界の貴族、知者、聖人等すべての高貴なる人々が頭を下げてくるし、


自分の先祖たちもまた、「我々の一族を天国に引き上げてくれる者がいる」と言って、集まってくるようになるのです。原理を知って主に出会ったあなた方は、真の先祖として、何と家系図の頂点に位置しているのです!  




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