平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

お母様の矛盾  赤・真の父母経 ☞☞ (劉協会長を失った) = 真の父母の基台を失っていた

 お母様が肝いりで2015年に出版された「赤・真の父母経」を取り上げました。この書籍からしても、お母様が言われている「私が真の母であり真の父母である」という位置づけは完全に矛盾していることが明白です。
 もちろん、「赤・真の父母経」がおかしいのではなく、お母様が狂気の沙汰なのです。


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下記の御言葉【A】
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【A】 ☞ 「アダムが失ってしまった三人の信仰の子女を復帰しなければ、真の父母の立場に立つことができ ません。」


 下記の御言葉【B】【C】から分かるように、文先生は三弟子のひとりであった劉協会長を失ったまま、劉協会長に代わる人物を立てることができず、生涯に渡ってこの基台を補うことができませんでした。
 或いは、劉協会長の補充が後の郭錠煥特別補佐官であったのかも知れませんが、郭氏もまた大きな問題を残しました。(もう一つの記事


 つまり、【A】のように、先生は「三人の信仰の子女を復帰」できなかった為、実体としての真の父母の立場に立つことができなかったということです。


 その結果、文先生は基元節において真の母となる新婦を迎えることができず、実体としての真の父母の立場にも立つことができなくなってしまったのです。そして、基元節の四ヶ月前に、サタンから総攻撃を受けて自死されました。それが聖和です。


 二千年前、イエス様も三位基台であった三弟子を失った為、新婦を迎えることもできず、惨い姿で十字架で殺害されました。再臨主であった文先生もイエス様と同じ立場に立たれました。文先生の場合は21日間の闘病をもって自死されたのです。イエス様も文先生も死の道をつくった全ての怨讐の罪を隠したまま、死に代えて彼らを許し愛されたのです。


 これは何を意味しているのでしょうか。真の父母が顕現できるように、七度の死をもっても怨讐を愛されたのです。そして、この地上に初めて神様の真の愛が定着したのです。


 この聖和によって、統一教会で文先生が語られていた「真の父母」の定義が、初めて、確定できるようになったのです。


 その記事が三つありますので、お読みください。


お母様に捧げる!! ☞ 決定的 『真の父母』の定義が確定  「黒・天聖経」「赤・天聖経」 - 平和の主人 血統の主人


「天聖経」にコペルニクス的転換が起こった・・・決定的 ☞ 『人類始祖』の定義が確定!! - 平和の主人 血統の主人


小山田先生、周藤先生、今のお母様は「実体の真の父母」ですか?? 「赤・天聖経」に『真の父母は未来に出会う』とありますが・・・どうなっているのですか?? - 平和の主人 血統の主人



【A】

赤・真の父母経

 第一篇 真の父母様の顕現時代と真の父母時代 

     第二章 第一節 23


アダム家庭を基準にして蕩減しなければならないのです。アダムが失ってしまった三人の信仰の子女を復帰しなければ、真の父母の立場に立つことができ ません。





【B】

真の御父母様の生涯路程4 

  第七節 五 


 新しい世界的な法を中心として、メシヤと完全に一つになってこそ蕩減になるのです。ですから良い養子を通して愛するようになっています。


統一教会では、劉孝元協会長がこれまでそのような洗礼ヨハネの業をしてきました。



【C】

真の御父母様の生涯路程5 

  第三節  八 劉孝元協会長昇華(一九七〇・七・二四〔陰暦六・二一〕)


 劉孝元協会長が一九七〇年七月二十四日、肝臓がんで昇華し、協会葬による昇華式を挙行した。満五十六歳を一期に昇華した劉協会長は、一九一四年九月二十五日平安北道定州で出生し、一九三九年京城帝国大学医学部在学中病気により中退、一九五三年原理原本筆写本を通読後、その年十二月二十四日釜山で真のお父様に出会い入教、一九五四年協会長に選任され、原理講義、『原理解説』、『原理講論』の整理等で大きな活躍を遂げ、一九六〇年四月十六日真の御父母様により史吉子女史と三家庭の祝福を受け、一九六八年には七年路程大を受賞した。



三次の手術と闘病(一九六九・一〇・二六~一九七〇・七・二四、ソウル大学病院)
超重要(T+A)
 劉協会長の体が不自由であるということが、彼の生涯に骨髄に染みわたる恨だということを先生は知っていました。ところで、彼が受けた手術のせいでなく、彼に現れなかったそれ以外の症状が現れて死ぬようになったのです。


 皆さんも知っているように、がんという病気は一年半ないし二年以上の潜在期間があります。そのがんが彼も知らないうちに定着していき、手術期間に現れてこのような結果を迎えるようになったのです。またそれだけでなく、肺も相当悪くなっていました。このようなことを考えてみると、劉協会長は肉体的な困難を顧みることなく無理をしながらも、精神的にすべてのことを克服してきたということが感じられるのです。


 先生は、劉協会長が一次、二次、三次まで手術を受けるようになる時、霊的にそのような感じを受けました。皆さんに、彼のために祈祷しなさいという命令はしましたが、先生は既に最後の祈祷をしていたのです。それで、皆さんが彼のために精誠を捧げている期間、先生はこの国とこの民族のために精誠を捧げていたのです。そうする中の数日後、彼が逝くようになったのです。


 監獄にいる時、私は忘れることのできない衝撃的な印象を受けたことがありました。それで、一生涯私があの息子(劉協会長)の身代わりとなり、いかなる犠牲の代価を払う恨があったとしても、不自由なその身を免れるようにしてあげたかったのです。

 彼が一日でも健全な体をもち、神様の息子らしい姿で神様に仕え、一日だけでも喜んだ顔で笑う姿を見ることができるならば恨はない、というふうに思ったのです。それで彼に「手術を受けなさい」と言いました。また、み旨が訪ねてきたすべての苦難の道を推し量ってみる時、彼が血を流さなければならない時であることを感じたのです。


 そのような受難の行路に責任を負い、先生の命令により入院し、先生のみ旨を中心として逝ったという事実を見る時、今日私たちの協会が行かなければならない受難の路程において、全体にはならなくても、一部分の悲しみを身代わりし責任を負っていく息子になってくれればというのが先生の願いです。彼が治ることを切実に祈祷できない私自身であることを感じながら、神様のみ前にゆだねてきたのです。それはなぜでしょうか。広大なこの世界を担うため、世界の悲しみを残してはならない時代が私たちの前に追ってくるためです。


み旨から見た次子の犠牲


 み旨から見れば、いつも二番目が問題になりました。息子も、いつも二番目の息子が問題になりました。アダム家庭でも二番目の息子であるアベルが問題になり、ノア家庭でも二番目の息子であるハムが問題になりましたし、アブラハム家庭でも二番目の息子であるイサクが問題になりました。また六千年の歴史を置いて見る時も、二番目のアダムとして来られたイエス様が問題になったのです。このようにいつも、二番目の人、あるいは二番目の家庭、二番目の責任を負った国が問題になったのです。


 いつの年でも四月から十月までは、私たちの協会においては問題の期間でした。それで先生は劉協会長について心配していたのです。彼は喜進に責任を負っていた人です。そのため彼には、神様が願う基準の前にどのように生き、どのように責任を果たさなければならないかという問題がありました。このような観点から見る時、劉協会長の家庭は、神様が願うその基準で喜進を中心として侍る生活の伝統を立てなくてはならない責任があったのですが、そうすることができなくて喜進が死んだのです。


 劉協会長は、陰暦で計算すると、喜進が逝った日(一九六九年陰暦六月十九日)から三日後(一九七〇年陰暦六月二十一日)に逝きました。このように見る時、二番目がいつも問題になるということを皆さんは知らなければなりません。先生の家庭の二番目である喜進も逝きました。このように、蕩減歴史というものは避けることができないということを皆さんは知らなければなりません。これを見ても、統一教会の原理は漠然としたものではないというのです。蕩減の歴史路程では、そのような過程を経ていくのだということを皆さんは知らなければなりません。劉協会長の家庭も、み旨から見れば二番目の家庭です。そのような立場であるため、先生は彼に全体の責任を負わせたのです。



劉協会長の真心とみ旨への貢献


 過ぎ去りし日、劉協会長はどれほどたくさん苦労をしましたか。西大門刑務所事件をはじめとする様々な困難なことにおいて、不自由な体で先生を助けてくれたことが先生の骨髄に染みわたっています。そのような事件がどんなに多かったか知れません。そのたびに、彼は直接間接に先生を助け、すべてのことを処理したのです。このようにいろいろなことに思いを巡らせば、統一教会の歴史において協会長と先生とは、切っても切れない間柄になっているのです。


 彼は先生に従ってくる中において、私のために多くの苦労をしました。その中でも、先生が監獄にいた時、先生のことをとても思ってくれました。それゆえに先生が劉協会長のことを振り返ると、「彼はこれこれこのような人だった」と思い出すようになるのです。監房に伏していても明け方になれば会いたいと思うその情に駆られたし、劉協会長から送られてきた紙切れ一つまでも生命の価値として受け入れることができるほど、内的因縁の後ろ盾が彼にはありました。そのような協会長だったことが思い起こされます。


 今回、劉協会長がこの世を去るようになる時、「先生に出会い、これまでこのように歩んできたが、終わりをどのように結ぶつもりか」と私が聞きました。すると、劉協会長は「永遠に変わらない」という言葉を残して逝きました。そうでなくてはならないのです。




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