「道義の道は、失望の道を正当化させて行く道」・・・訓教経 ☞ 文先生の『道義』 堕落人間の道義とは全く違っていた
下記の御言葉に(※)「道義の道は、・・・失望の道を正当化させて行く道」という言葉があります。
文先生たったお一人
この言葉は、歴史上の求道者であったとしても、誰一人として該当しない。この言葉に該当するお方は神様と文先生しかおられないはずです。
もし、皆さんが、過去にいた偉大な求道者であったとしても、「道義の道は、失望の道を正当化させて行く道」だとう言葉の意味は理解できないはずです。たとえ理解したとしても、ほんの一部に過ぎないはずです。
それは文先生の道
「失望の道を正当化させて行く」という道は、先ず、神様が行かれた道であったということです。そして、文先生が神様と共に涙をぽろぽろ流されながら、心が張り裂けるような道を「正当化する道」として行かれたということです。
「正当化する道」とは、どのような道であったのでしょうか。
つづき・・・
文鮮明先生のみ言集 訓教経(上)
「神様の祝福の最大の願いとは何か」
一九六〇年四月二十四日 韓国前本部教会
『文鮮明先生み言選集第九巻』
では、私たちの出発の起源はどこでしょうか。私たちはどこから出発したのでしょうか。私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。そのような人間なので、苦痛を受けてやるせない立場に立ち、殺しに遭い、号泣して絶望する立場に立つようになったのです。
(※)道義の道は、苦痛を当然として行く道であり、失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。なぜですか。人間は反逆者であるために、反逆の種を蒔いたすべてを蕩減しなければならないのです。報いを受けなければならない人間であるので、蕩減を受けなければならないのです。