文先生とお母様 ☞ 嘆きの起源となった
昨日の記事で下記の御言葉を取りあげました。
この御言葉は1960年4月のものです。
(※1)私たち(文先生を中心とした統一教会の)の出発の起源はどこでしょうか。
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私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。
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(※2)道義の道は・・・失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。
(文鮮明先生のみ言集 訓教経(上) 「神様の祝福の最大の願いとは何か」 一九六〇年四月二十四日 韓国前本部教会 )
まず初めに、上記の(※1)の「私たちの出発の起源はどこでしょうか。」とある、この「起源」とはどこを言っているのかという問題からです。
この(※1)が分かれば、(※2)の「道義の道は・・・失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。」が理解できるはずです。
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それでは、(※1)の「私たちの出発の起源はどこでしょうか。」についてです。
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これが分かる御言葉が下記です。
秘められた謎を解く作業は容易なことではありません。一番下の原文を何度も読み直しながら注釈の正当性を確認しなければなりません。
文脈の前後をよくよくたどって、言葉一つ一つ、前後の言葉の繋がりを確認しながらお読みくだされば、赤文字の注釈が正当であることが理解できるはずです。
文先生の存命中には、秘められた蕩減(「アブラハムによるイエスの典型路程」)がありました。下記の御言葉はこれを隠すように語られています。
この御言葉は、1968年のものです。赤文字の注釈から分かるように、隠された言葉が解かれるような語り方をされています。
この赤文字の注釈は、お父様が聖和される前後して起こった大事件(顕進様と亨進様の追放、お母様の独生女宣言)により、祝福家庭たちの摂理観が変化しました。これがきっかけで解くことができるようになったのです。摂理的な必然性であったと言えるのです。
文鮮明先生のみ言集 訓教経(上)
26.私たちの誇り (1968年)
一九六八年七月七日 韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』
元来すべての万物は、人間を標準として造りました。すべての万物を人間に帰結させるために創造したというのです。
このように創造した人間(最初のアダム)を最初の出発とともに、最後の誇りとして立てようとしていたのが神様の望みでした。
ところが、そのような立場に人類始祖(最初のアダムが)が立つことができず、人類歴史は悲しみで出発してしまったので、その(人類歴史の)過程で神様の前に恥ずかしく、悲しい事実(アブラハムによるイエスの典型路程)が現れるようになったのです。
これ(アブラハムによるイエスの典型路程)が人類歴史(文先生とお母様の蕩減路程)の悲惨さであり、(文先生とお母様の)嘆きの起源になったという事実を皆さんは知らなければなりません。
では、人間(文先生と祝福家庭)がもったこのような出発の起源(アブラハムによるイエスの典型路程)を、どのようにして除去させるのでしょうか。
これは神様だけではできないのです。
こういう出発が人間(文先生と草創期の祝福家庭)によって始まったがゆえに、このことを成就させ、この(嘆きの)過程から抜け出すためには、神様が中心になるのでなく、人(文先生)が中心にならなければならないのです。
このように、文先生の第一次40年サタン分立路程の出発の起源は、この「アブラハムによるイエスの典型路程」にあったことが分かります。
この事実を知らなければ、いくら、御言葉を繰り返し読んでも、私たちの出発の起源が分りませんから、御言葉の未来、摂理の未来も見えなくなります。その為、現在のように、三つに分裂し、御言葉から遠ざかり、摂理が見えなくなっているのです。ただただ、混乱した時代を迎えていると言えるのです。
原文
文鮮明先生のみ言集 訓教経(上)
26.私たちの誇り (1968年)
一九六八年七月七日 韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』
元来すべての万物は、人間を標準として造りました。すべての万物を人間に帰結させるために創造したというのです。
このように創造した人間を最初の出発とともに、最後の誇りとして立てようとしていたのが神様の望みでした。
ところが、そのような立場に人類始祖が立つことができず、人類歴史は悲しみで出発してしまったので、その過程で神様の前に恥ずかしく、悲しい事実が現れるようになったのです。
これが人類歴史の悲惨さであり、嘆きの起源になったという事実を皆さんは知らなければなりません。
では、人間がもったこのような出発の起源を、どのようにして除去させるのでしょうか。
これは神様だけではできないのです。
こういう出発が人間によって始まったがゆえに、このことを成就させ、この過程から抜け出すためには、神様が中心になるのでなく、人が中心にならなければならないのです。