驚天動地 ☞ 『統一原理(復帰摂理歴史)』は文先生がそのまま歩まなければならなかった預言の書であった
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統一原理は文先生生涯の記録
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1992年以降の御言葉を理解しようとするなら、昨日取り上げた下記の《③ 赤・天聖経 第五篇 第一章 第四節 》と《⑤ 赤・真の父母経 第七篇 第三章 第四節》を理解しなければなりません。
1992年以降の御言葉は文先生が六千年を同時性的に蕩減する立場から、その時代圏の人物名で御言葉を語られていることを取り上げました。
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「アダム」「イエス様」とは・・・文先生だった
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ですから、「アダム」とか、「イエス様」という名は、直接的であろと、間接的であろうと、全て、文先生の摂理的使命とその位置をあらわしていることを知らなければなりません。そうすれば、自ずと、お母様と子女様たち、さらに、幹部たちの状況も克明に語られていることが分かるようになっていたのです。
摂理的中心人物たちの名をそのまま理解した
しかし、1992年以降の時代圏にあった私たちは、御言葉に語られた摂理的中心人物たちの名をそのまま理解した為、御言葉が『統一原理』と微妙に食い違い、矛盾していると判断したのです。そして、日本では12双、777双、1800双、6000双・・・など、多くの古い信徒たちが文先生から離れていったのです。
これを証左したのが何であったかと言えば、お母様の独生女宣言でした。この宣言が原理違反していることを知りながら、小山田さんとか・・、元幹部たちが簡単に受け入れたのは、このような背景があった為です。
「統一原理」は文先生の路程を預言していた
しかし、文先生が六千年を同時性的に蕩減する立場から、その時代圏の人物名で御言葉を語られていたことを知るようになれば、反対に、この時代圏の御言葉が「統一原理」と完全に整合性が取れるようになっていたのです。
言葉を換えて言えば、文先生の監修のもと執筆された『統一原理(後編の復帰摂理歴史)』は文先生がそのまま歩まなければならなかった預言の書であったということです。
再び、再臨摂理が展開される時代を迎える
このような観点に立って、1992年以降の御言葉を詳細に考察し、これ等が文先生の路程に合致しているとするなら、まさに、文先生はメシヤでありながら、しかし、洗礼ヨハネの立場を総蕩減された立場で生涯を終えられ、今後、再び、再臨摂理が展開されることが分かるのです。
③ 赤・真の父母経 第五篇 第一章 第四節 「統一原理」と『原理講論』
10 「統一原理」は、私の生涯の記録でもあります。
それは、私自身の生活経験です。この「統一原理」は私の中にあり、私は「統一原理」の中にいます。
多くの 人々は、私がただ真理の発表者であり、その伝達者にすぎないと言いますが、私は真理のとおりに生きており、それを具現しました。
したがって、人々が私と私の行動を理解する唯一の方法は、「統一原理」に通じることのみです。
「統一原理」を知って研究することによってのみ、私を理解することができます。原理を研究すればするほど、私をさらによく理解できるというのです。
⑤ 赤・真の父母経 第七篇 第三章 第四節
17 イエス様の十字架路程の世界的な蕩減的同時性の時代を迎えたお父様は、仕方なく追われてダンベリーの監獄に入りました。
それは(文先生のダンベリーの監獄は)、エリヤが祈った立場と同じです。
アメリカのキリスト教が反対し、政府が反対しました。
(お父様を)何とかしようと謀議し、自分たちのためにお父様が終わりになることを願ったのです。彼らは私(お父様)の命を奪うことができなかったから奪わなかったのであって、奪える方法があったならば、ありとあらゆることをしてでも奪ったでしょう。
しかし、自分たちの思いどおりにできなかったのです。