平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

これはどういうことか??? ☞ 「堕落論はいらない」と記されている『天聖経』  何故、堕落論がいらないのか?? 堕落論は統一原理の核心であるはずですが??

 下記の「天聖経」に記された堕落は六千年前の神様を裏切ったサタンとエバ、さらに、エバとアダムの堕落のことを言っているのではありません。


 「天聖経」の言葉一つ一つが原理講論の堕落論と微妙に食い違っています。その理由は、文先生とお母様が「アブラハムによるイエスの典型路程」と「妾摂理」という、事実蕩減によってのみ神様に帰るという、やむにやまれぬ蕩減法によって生まれた堕落に関して語られたからです。


 もちろん、文先生は40年サタン分立路程をもって再びメシヤ位置に戻られました。
 しかし、肝心のお母様が所有権転換と心情転換と血統転換をすることができなかった為、真の父母宣布にも神様王権即位式にもサタンが侵入したままになり、これをもって文先生もメシヤの位置に上がることができず、お母様と共に堕落圏にとどまられ「再臨してこれを再び復帰しなければなりません。」という言葉を80歳を超えられた文先生が残されたのです。


 お母様の責任分担時代が終わりましたから、今の私たちには、これまでのパラダイムにしがみつく理由は何一つないのです。
 あくまでも、天聖経に記された堕落は事実蕩減によって文先生とお母様が直接主管圏に上がることができず、堕落圏にとどまられていることをを言っているのです。



天聖経


 ① 真の神様 第四章 四 2.  



(注釈なし)


堕落とは何でしょうか。


サタンを中心とした愛の因縁を父母の立場で結んだことです。


堕落論だの、善悪の実の話は必要もないのです。否定することはできません。


ですからサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ血族が今まで残ってつながってきたのです。


サタンは愛の怨讐です。


神様が創造理想として万年夢見てきた事実を破綻させたのです。


官吏の家門の一人娘を僕が蹂躙したとすれば、その家の主人の娘だと言うことができるでしょうか。追い出されるしかありません。


天地の大道の軌道を離れたということは、愛において過ちを犯したということです。これは否定することができません。

悪魔の子を自分の愛する息子、娘以上に愛さなければ、神様の本然の創造理想を実現することができないのです。


悪魔は「私は堕落してこうなったのであり、私の血族が神様を裏切ったとしても、神様だけは、天理の道理を守ってこそ神様といえるのではないか」と提唱するのです。ここで引っ掛かっているのです。


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(注釈入り)


(この御言葉は架空の作り話をしているのではありません。


(再臨時代の文先生とお母様の)堕落とは何でしょうか。


サタンを中心とした愛の因縁を(文先生とお母様が)父母の立場で結んだことです。


(文先生とお母様の堕落に関しては、原理講論の)堕落論だの、善悪の実の話は必要もないのです。(アブラハムによるイエスの典型路程と妾摂理によって堕落した立場に立ったのですから、)否定することはできません。


(堕落論が不必要であるという真意は何か??

六千年前のアダムとエバが堕落した時、彼らは自分の罪を隠し、責任転嫁しました。この罪を初めて明らかにしたのが堕落論でした。堕落論なくして統一教会の存在はないと言えるのです。

しかし、文先生とお母様の堕落は天聖経によって明らかにしている為、統一原理のような堕落論は必要ないと言っているのです。)



ですからサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ血族が(1945年の第一夫人にあった「アブラハムによるイエスの典型路程」と、1960年の約婚時代にあったお母様の「アブラハムによるイエスの典型路程」以降から)、(2004年の天聖経を出版する)今まで残ってつながってきたのです。


サタンは(神様にとっても、文先生にとっても)愛の怨讐です。


神様が創造理想として万年夢見てきた事実(真の家庭)(目前で)破綻させたのです。


(もし、)官吏(メシヤ家庭)の家門の一人娘(韓お母様)を僕(洗礼ヨハネの使命を持った天使長的人物)が蹂躙したとすれば、その家の主人の娘だと言うことができるでしょうか。(お母様はエデンの園)追い出されるしかありません。


(お母様は三次目のエバである為、替えることができなかったのです。その為、文先生がそのお母様と家庭を持たれたことが堕落となったのです。)


天地の大道の軌道を(文先生とお母様が)離れたということは、愛において過ちを犯したということです。これは否定することができません。

悪魔の子(洗礼ヨハネの使命を持った天使長的人物の種による子女)を自分の愛する息子、娘以上に愛さなければ、神様の本然の創造理想を実現することができないのです。「平和の主人 血統の主人」のラマ教のたとえ話)


 悪魔(洗礼ヨハネの使命を持った天使長的人物)は「私は堕落してこうなったのであり、私の血族が神様を裏切ったとしても、神様だけは、天理の道理を守ってこそ神様といえるのではないか」と提唱するのです。ここで(神様も文先生も「その通り」と言って)引っ掛かっているのです。



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