文先生は祭司長だった・・・洗礼ヨハネの立場
下記の御言葉は、文先生がキリスト教の不信と第一夫人との離婚、さらに、第三母となられたお母様の堕落により、1992年のメシヤ宣布されるまでの期間、祭司長の使命を果たさなければなりませんでした。
しかし、その後も、お母様と幹部たちが洗礼ヨハネの使命を果たすことができない為、文先生は継続的にメシヤの位置に上がることができず、祭司長という洗礼ヨハネの立場のままになりました。
書籍 祝福家庭と理想天国(1) 第七章 第三節 5.
先生は統一教会の祭司長と同じです。祭司長が自ら祭物となる羊を養って祭事を捧げる道理がどこにありますか。行事のときには、全部私のポケットを通して行事をしているのですが、これは大きな間違いです。祭司長が自分のお金で祭事を捧げるのは、身のほどもわきまえない祭事です。そのように誠意もなく精誠も尽くさずに貴い日を迎えては、皆さんの後孫が罰を受けるようになるでしょう。そのような場からは、神様も去ってしまわれるでしょう。神様が去った真の神の日がどこにあり、真のご父母様が去った真の父母の日がどこにあり、真の子女の日がどこにあるでしょうか。