平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

★★★「双合十勝日」宣布  2004年5月5日


★★★「双合十勝日」宣布  2004年5月5日


《 「双合十勝日」宣布 第一回「安侍日」 》 2004年5月5日 麗水・清海ガーデン
(なお、このリンク先の御言葉はファミリー2004/10号のものと若干違って訳され、抜け落ちている所があるので、詳しくは、ファミリーをご覧ください。)



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第一回「安侍日」 2004年5月5日 麗水・清海ガーデン


 「安侍日」です。安息日はなくなるのです。きょうが「先天時代」と「後天時代」に分かれる日です。「十勝日」とは何かというと、新しい時代を迎えて、四月を左手に、五月を右手にして一つにするのです。天地のすべてのものが十勝で一つになるのです。


「双合十勝日」宣布以降は「後天時代」


 上・中・下で三数になります。左・中・右、前・中・後まで合わせれば、三掛ける三で九です。そこに天宙・天地・天地人父母で十二数になります。十数を経て十二数に合わせ、すべてのものが双を成して一つになるので「十勝日」です。そして初めて「安侍日」を迎えたのです。


 すべてがその上に立つことにより、神の祖国と王国が生じ、神様が造られた一切の存在が神の国に帰一されるので、「先天時代」から「後天時代」に変わります。変わったということを、はっきりと知らなければなりません。


 「安侍日」宣布(四月十九日)後、八日間が三遍過ぎる五月十三日は、「神様王権即位式」を行ってから四十ヵ月になります。一から四時間、四日、四十日、四十ヵ月、それから四十年、四百年、四千年、すべてが連結されるのです。ですから、サタンが関与した一番目の数は最も悪いものであり、神様は二番目に対されたのです。逆さまになりました。


 一、二ではなく、二から一、三になったのです。これをすべて立て直すことにより、完全に解放時代になります。解放時代は飛んでいくのです。飛んでいって神様のみ座に行きます。今、四十数となって飛んでいくことにより、初めて神様のみ座と直結されるのです。


 堕落することによって逆さまになったすべての万物が一つになり、時間と日と年と世紀と千世、万世が、蕩減された勝利の数である十勝数としてすべて勝利したので、今からは、神様の王権のみ座と直結されるのです。


 それで、「先天時代」から「後天時代」が始まり、すべてのものが解放時代、完成時代に越えていきます。神様の所有圏内に入っていくのです。貴重な日です。安息日を送り出し、私たちは「安侍日」を迎えることができるのです。


 「安侍日」は八数です。四位基台の上で八数になるのです。八数の二倍が十六数ですが、「安侍日」を制定した日から、きょうが十六日目になる日です。八数を二回経たので、すべてのものがここに入ります。それで、一から十まで、すべて天の数として帰一できる立場になったので、双合十勝数なのです。その意味を知らなければなりません。そのような日を立てたのです。ですから、日の光を望むすべての万物は、神様の所有圏に回復されます。


天を称賛する話からしなさい


 さあ、そのような意味での最初の「安侍日」なので、歴史的な日です。また、きょうここでフィッシング大会をするのですが、それにより海と陸地が連結されます。先生の四十四周年の結婚記念日に、町内の人がみな参加して餅を用意しました。私は、ただ通り過ぎていくのですが、町内の人が大騒ぎしました。そしてまた、天の祝賀する出発において、麗水と順天が四十四周年を中心として因縁を結んだのです。


 町内の何人かの人が精誠を尽くして捧げたという事実は、全羅南北道において、教会を中心として市民たちを動員し、全羅南北道、慶尚南北道、忠清道、黄海道、平安南北道へ、このようにジグザグに上がっていって、また下りてくるのです。咸鏡道を中心として、一千万の離散家族がいます。その一千万は十数に該当するのです。この民族全体を中心としても八千万です。天地のすべての数理の一致圏を一つにした十勝数、勝利した十勝数を延長したものなのです。


 手の指は十でしょう? 十勝数、天地をぎゅっと握って、ひっくり返すのです。そのような勝利の日として記念するのが、きょうの「双合十勝日」なのです。「安侍日」を策定した日から、すべてのものが転換されるようになるのです。そのような意味で、すべてを知らなければなりません。説明をしなければならないのです。ですから、貴い揮毫です。歴史的な記念を表示する揮毫なので、皆さんの心に刻み、「十勝日」の上に立つ皆さんにならなければなりません。


 皆さんの良心と体が一つにならざるを得ません。うそをつくことはできないのです。私たちが会ってあいさつをするときも、冗談から始めてはいけません。天を中心として、天を称賛する意味で冗談のようなことを言うのはかまいませんが、サタンが喜ぶ冗談を言うことはできません。今まで下品な話をしました。今から私たちは、天が喜ぶ愛の言葉を語り、善の話をしなければなりません。生活も、すべてのことも、今から変わらなければなりません。


サタンの版図が崩れていく


 『天聖経』を四月十八日に天の聖書として捧げました。ついに天地の聖書として、指標と標準を定め、方向を設定したのです。出発と目的が一致する道を行くことができるようにし、復帰の理想圏の目的地と、生活圏まで教えたものが『天聖経』の内容です。ここからずれてはいけません。


 既成教会の人たちは、聖書をもって誇っていますが、私たちは、『天聖経』をもっています。その勝利の覇権が、どれほど恐ろしいか知らないというのです。自主的な主人の位置、中心の位置です。これがねじれれば、三六〇度、どこでもゆがむのです。垂直のまま行かなければなりません。そのような日を策定して、天侍日が始まったのです。「天勝日」と天侍日が始まり、安勝日と「安侍日」が始まったのです。そのようなことを理解して、今後の生活を、天が見て恥ずかしくないようにしなければなりません。


 地上の皆さんが、霊界の霊人よりも兄です。父母様に相談する生活をしなければなりません。先生が歩んだ生活を兄が守らなければならず、父母様の行った道と兄の行った道を、天上世界が手本にしなければなりません。先生の息子、娘も、先生の行った道を行こうとするので、霊界が弟の立場で従うのです。
 地上世界が天の国の手本になるのです。子女として手本となり、また父母の位置で神様に代わって手本となることができ、両世界を合わせた手本の基準を、私からすべて解いていかなければなりません。そのような責任が付与されたことを知らなければならないのです。深刻です。いい加減に生きることはできません。


 そのような覚悟をして参席しなければならないのです。きょう、この南側からずっと上がっていかなければなりません。ここは共産党の基地でした。麗水と順天では「南労党」と言ったでしょう。南側の国の労働党です。「南労党」とは何ですか。共産党は「北労党」と言わなければならないのに、「北労党」に「南労党」が滅ぼされたのです。それは金日成に捕まって滅びたのではなく、派閥闘争をする群れを通して、自分たち同士で処分したのです。それと同じように、全羅道と慶尚道を闘わせ、南側と北側を闘わせ、すべての版図をサタンが引っ張っていきました。今、それがすべて崩れていきます。


 一方通行です。祝福を平準化すれば、強制的にでもせざるを得ません。なぜですか。自分の家庭がめちゃくちゃなので、統一教会が嫌いでも、それを手本にすれば立ち直るのですから、やらざるを得ません。ですから、何が何でも接ぎ木してあげるのです。昼も夜も休まず、野生のオリーブの木を切り、真のオリーブの木の芽を接ぎ木して、自分の一族から野生のオリーブの木の芽がなくなり、そこには接ぎ木した真のオリーブの木の芽だけがあるようにしなければなりません。そのようにできるのが統班撃破です。


 血筋の根を抜き、逆さまになった木をまっすぐに立てるのです。そうでなければなりません。これがすべて地獄に入っていきました。これを逆さまに立てることにより、天上世界に転換されるのです。双合十勝圏の理想世界になるのです。十勝には、個人十勝、家庭十勝、すべてのものが入っていくのです。そのようなことを理解して、この日がどれほど重要なのかを覚えてくれるようにお願いします。


「双合十勝日」の縦的、横的な意義


 天勝の家庭盟誓がどれほど重要か分かりません。家庭盟誓で最後を締めくくったのです。今から皆さんは、家庭盟誓を中心として、皆さんの生活圏が宇宙を包括してしまわなければなりません。


 「双合十勝日」は、縦的な面においては、五月五日が、五数と五数が一つになって「十勝日」です。その次に、横的な面では、四月までの「先天時代」と五月からの「後天時代」の二つが合わさって転換されるのです。それで、「双合十勝日」なのです。


 蕩減復帰歴史をつづってきた歴史全体を見ても、文化の発展と文明の始まりは、どこだったでしょうか。熱帯時代です。それから秋の涼帯時代から寒帯時代へと逆さまに回ってきたというのです。神様としては、春を迎えることができませんでした。春と、天の国の夏を失ってしまったのです。温帯を失ってしまいました。


 寒帯圏の共産主義を消化して天が中心となることにより、今、初めて春を迎えることができるようになりました。これが神様の摂理史の初春です。初春を迎えて、越えていくのです。


 このような立場で見てみれば、天が、初めて春から出発し、夏から秋に越えていくのです。温帯文明・熱帯文明・諒帯文明・寒帯文明、このように回っていかなければならないのに、逆さまになりました。熱帯圏から涼帯、寒帯の共産主義へと逆さまに行ったのです。それが春の季節を迎え、温帯から熱帯、涼帯、寒帯へと回っていくことができるようになりました。


 歴史もそのようになっていたのですが、二つを一つにして勝利したのです。この手と同じです。(手のひらを合わせられる)


 このような日が制定されたことを知らなければなりません。蕩減時代の終焉、摂理時代の終結です。上下、周辺のすべてのものの秩序が定まり、神様を中心として、神の祖国と愛の平和王国時代が到来するのです。すべてのものがそこに接続することにより、地上・天上天国、開放された解放の天国、愛の天国が始まるのです! アーメン!


 「十勝日」は、五月五日です。そして、四月と五月を左手と右手でつかんで神様を中心として一つにし、「先天時代」を終わらせてしまうことによって、「後天時代」勝利の覇権的愛の主権世界を迎えるのです。ですから、万国平和の解放的神様が主人となる世界に帰るというのです! アーメン!


 それで「十勝日」が重要なのです。「十勝日」は、縦的には五月五日であり、横的には、四月と五月を神様が左手と右手で握り、上下に、前後に逆さまに回っていたものを、下を上にして反対に回すことにより、本然の世界に戻ってきて安着侍義ができる時代になるのです。ですから、「安侍日」を定めて記念するのです! アーメン!


関係がなければ関心をもってはならない


 自分に直接責任のない所では、話もせず、関心ももってはいけないのです。そうではないですか。近所に結婚する美人の女性がいても、自分と何の関係がありますか。自分と関係がないことに関心をもてば、破綻が生じるのです。自分が主人の役割を完全に果たしてから、ほかのものを願わなければなりません。主人の役割も果たせない人がそのようにすれば、どろぽうであり、詐欺師です。


 女性たちは、もっとそうです。周囲に少しでも目につく色があれば、「ああ、私もあれが欲しい。色とりどりで……」と言うのですが、色とりどりになっていれば良いのですか。どうして自分のものですか。中心がなければなりません。


 女性たちは、服を見れば、まだらで色とりどりのものを好むでしょう。ここ(祭壇の飾り)も三種類です。一つは白色、桃色、これは紫色ですか。これが天地の代表的な色です。木の実も三種類あります。野菜もありますが、野菜は、地の下に実るものではなく、地の上に実るものを供えなければなりません。


 餅も色を合わせなければなりません。このように見れば、九種類になるのではありません。これが何種類ですか。一、二、三、四です。三掛ける四で十二です。十二数です。ここに天地人父母がセンターになれば、このすべてのものが一つになるのです。それと同じ象徴です。


摂理史は経綸史により結ばれる


 それで、子丑寅卯の十二支の十二数と、甲乙丙丁の十干の十数だというのです。十二進法と十進法が一つになり、天地を引き継いでいくのです。このように、東洋哲学は明確です。東洋哲学には太陽暦と太陰暦があります。ですから、千歳暦(注:一日月星辰、節気を推算してつくった暦)があるのです。千年の歴史をつくっておいたというのです。閏月を定めて、二つがぴたっと当てはまるのです。相対が合うのです。すべてがそうです。偶然の一致ではありません。摂理史は、経綸史により、合徳一体圏の上で、すべてのものが連帯関係で結ばれます。


 合徳は、二つが一つになることですが、「徳」の字は何ですか。その中の「十」は宇宙を意味し、「四」は四位基台を意味するので、宇宙と四位基台に一心となった二人が「徳」ということです。「徳」とはどういう意味かと尋ねられれば、そのように説明するのです。二人が宇宙の四位基台の中で一心となった家庭を成し、その家庭の主人、家庭のおばさん、家庭の息子、娘を意味するのです。そのようになってこそ徳のある家の子孫どなり、主人になるのです。


 それで、「善」の字も「羊」です。善なるもの、正しいことを意味しています。「義」の字も「羊」の下に「我」と書きます。慈悲の「慈」という字も、「玄」が二つです。新しい天地を中心として、二つの相対が地にある心で一つになることを「慈悲」と言うのです。また、「仁」の字も二人です。「天」の字も二人でしょう?


 このような漢字を作った人は、東夷民族(注:中国で、東方に住む異民族を指していった言葉。黄河の中・下流地域に住む漢民族を「中華」と呼ぶのに対して、満州・朝鮮・日本などの民族を指した)です。甲骨文字を見れば、昔の韓国語、古語を使ったのです。ですから、中国の人たちが中国語を作ったのではなく、東夷民族が作ったというのです。啓示的な民族です。歴史が流れても、意味内容を、文字でそのまま表示した表意文字なので、そこに意味がすべて含まれています。


 犠牲の「犠(犧)」という字は、「牛」が左にあり、「羊」を中心として「秀」という字があり、羊を選んで捧げる、それが天の国の祭物になるということです。必ず「羊」が入っているというのです。そうではないですか。「羊」の下に「我」で、「義」という字です。義理堅いことを意味します。犠牲になることを知らない人は、義理堅い人ではないのです。それは詐欺師であり、どろぼうです。


 では、文総裁も詐欺師なのか、違うのか、私は分かりません。皆さんに対して詐欺を働き、どろぼうしたりはしません。「ため」に生きてあげ、すべてこのようにプラスしてあげるので、「先生!」と言って従ってくるのです。


 千里のすべてのものに、幻想的な存在世界に通じ得る内容を備えてこそ、名人になり、名物になるのです。芸術品や名物は、誰もが好むでしょう。これ(祭壇の食物)はどれほど素晴らしい芸術品ですか。これを私が一つでも作って食べれば、どれほど誇れるでしょうか。自分が作って食べたという事実! 作ることもできずに食べるのを好むのは、影の喜びです。実体の喜びではありません。神様が自分で作って食べる喜びを感じなければならないというのです。作ってもらったものを食べながら喜ぶのは、いけないというのです。実体を知らなければなりません。神様もそのような心があるというのです。


愛のために生まれ、愛のために生きる


 相対の価値を否定する自由圏はありません。これをすべて理論的に整理しておかなければなりません。そのような話も、すべて聞けば、「ああ、そうだなあ!」と理解できるのです。


 愛とは何でしょうか。愛の柱は生命です! 柱が必要だというのです。愛だけではいけません。柱になれる男性と女性の生命がなければなりません。生命の柱は何かというときは、血統だというのです。愛の柱は生命であり、生命の柱は血統であり、血統の柱は神様だ、このようになるのです。


 その話は簡単ですが、話を聞いただけでも気分が良いでしょう。その話が正しいか正しくないか、解いてみてください。愛の柱とは何ですか。男性と女性の生命でしょう、ほかにありますか。男性がいないのに、女性一人だけで愛が生まれますか。愛の柱は生命であり、生命の柱は何かというと血筋です。


 男性と女性が愛するのは息子、娘を生むためです。歴史を創造するためです。神様も創造されたので、私も神様のように、相対を中心として生命の柱である血統を連結するのです。血統の柱が何ですか神様の愛です。戻っていくというのです。このようにしておけば、天地のすべてのものが、さっと整理されます。愛の柱は生命なので、夫は妻を愛と同じように貴いと考えなければなりません。そのようにしなければ、柱がなくなります。妻も、愛と同じように夫を貴いと考えなければ、存在しなくなるのです。


 いくら生命をもっていると誇っても、血統がなければなりません。息子、娘が生まれて、赤ん坊から善男善女に成長できるようにするのです。その次には神様です。神様に似て、神様の赤ん坊時代、神様の子供時代、神様の青年時代、約婚時代、結婚時代、母の時代、祖母の時代、女王の時代、王の時代まで行くというのです。そのような論理が、すべて収拾されるのです。


 きょう、一つ覚えてください。愛の柱は何ですか。(生命です)。生命の柱は何ですか。(血統です)。血統の柱は何ですか。(神様の愛です)。柱というものは中心です。三六〇度の中で、柱はいくつですか。二つですか、一つですか。どのような柱ですか。愛のための柱です。父母のための愛の柱、子女のための愛の柱です。愛の柱を立てようとされる方なので、個人的中心、家庭的中心、氏族・民族・国家・世界的中心として、愛を中心として、生命を中心として、氏族を中心として愛さなければなりません。神様は愛の主人なので、万民が愛さなければ、いなくなるのです。ですから、愛のために生まれ、愛のために生きるという結論が明確になるのです。これを、きょう、贈り物として覚えておいてください。


 心と体が一つになった神様です。心と体が闘いません。心と体が闘えば、愛はなくなるのです。心と体が闘うでしょう? 闘う者たちには愛がありません。どろぼうであり、詐欺師として地獄に行くのです。私は、皆さんを利用しようとは思いません。「あの人はお金があり、立派な人が来た」と思って、よくしてあげたりはしません。すべて同じように扱います。


愛のために生命が生じ、生命のために愛が安着する


 愛の柱が下に下りてくるときには生命になるのであり、それから、生命の柱が下に下りてくるときには血統になるのです。下りてきたので、その次の血統の柱は、上がっていって神様に戻っていくのです。愛は、生命がなければなくなるのではないですか。愛はどのように生じますか。男性や女性がいなければ、愛も生じません。柱とは何ですか。中心になって全体を支えるものです。愛は男性と女性がいるから生じるのであって、男性一人がいなくても、その愛は逃げていくではないですか。


 愛の柱というものは、母胎となることができるものなのです。生命の柱は何ですか。息子、娘のほかにありますか。ですから、息子、娘のために父母が犠牲になるのではないですか。愛は、生命のために犠牲になるではないですか。神様も、息子、娘のために犠牲になられるでしょう。同じことです。


 父が貴いか、息子が貴いか。見て、どちらが立派かというとき、顔の良し悪しで決まるのではありません。愛の心のことを言うのです。「年を取った人よりも、幼い子供が天国に行く」と言いました。率直です。いくら母親がもじゃもじゃ頭で、こぶがついていても、母親の顔が好きで触るのは、赤ん坊しかいないのです。美人の母親だからといって好むのですか。おっぱいを飲みながら、触らない所がありますか。頭も触り、髪の毛も触り、すべて触るではないですか。つねったりもします。一番好きなものではないですか。


 ですから、愛は低い所に向かって流れていくのです。下りていけば、回らなければなりません。高い所に行って回ることができなければ、上がってはいかず、大きくなりません。「ため」に生きる愛はどんどん大きくなるという論理は、理論的にぴたっと当てはまるので、「ため」に生きる愛だけが宇宙を統一するという論理が成立するのです。


 愛のために生命が生じ、生命のために血統が生じ、血統のために愛が安着するのです。安着するとき、つかんで休むことができるようにするために、柱になるのです。そして、愛は下りていって回って上がっていくので、あとから神様の所に戻っていくのです。血統の基準(柱)は神様になるのです。そのように回っていかなければなりません。


「安侍日」を守る意義


 先ほども話しましたが、統一教会の摂理史観から文化の発源地を語るとき、熱帯地方で文化が出発し、その次に涼帯に行きました。「涼」の秋の季節の文明です。二十世紀の文明は、秋の季節の文明です。春の季節のように花が咲いてはいないのです。花が咲いて夏にならなければならないのですが、花もなく、春を切ってしまい、夏から始まり、秋の季節の時代に入っていったのです。西欧文明は、すべて北緯二三から六七度圏内にあります。ロンドンやドイツは、この中にあるのです。


 ですから、寒帯文明に来て、ヨーロッパを中心とする涼帯、秋の季節の文明は、冷風で完全に落ちていきます。枝まで腐り、すべて落ちていくのです。骨と皮ばかりが残ります。生命の種など、根本をすべて備えることができる因縁をもつ枝は、生き残るのです。


 春になれば、そこから新しい葉が出て、新しい花が咲き始めるのが四月であり、夏の月を迎えるのが今年の天一国四年です。それは四数です。その四月にすべてのことを清算し、五月の五数を中心として「双合十勝日」です。縦的な面では五月五日であり、横的な面では、左手で四月を握り、右手で五月を握ってすべてをひっくり返すので、「双合十勝日」から「安侍日」が始まるのです。心を安らかにして、お互いに愛で「ため」に生きる世界になるのです。


 私たちは、安息日の代わりに「安侍日」を守るのですが、その日は祝宴をして、そこに訪れる食口たちは、自分に良いものがあれば、一つでも持ってきて食口たちに分けてあげなければならず、またそうでなければ、お金を集めて貧しい人たちに分けてあげるのがよいのです。何か残せることをしてこそ、あの国、天上世界に行くときに、礼物の倉庫をもって神様にお捧げできる立場に立つので、「よくやった。よく来た」と神様が歓迎されるのです。


 天の国の祝宴を開ける大解放、釈放、天地が相続されて自分のものになるので、神様が私のお父様であり、私の主人であり、私のものになるのです。


霊界の霊人、『天聖経』に魅了


 先生は、文学的素質がたくさんあるでしょう? 十六歳で詠んだ一篇の詩に対して、世界詩人協会から一等賞を送ってきたのです。話を聞いてみれば、すべて筋が通っています。自分でじっと聞いてみると、自分でもおもしろいのです。「いやあ、学ぶことが多い。今から私が書いた説教集を覚えよう」と思うのです。


 村の真ん中に行って、らっぱを吹き、太鼓をたたき、笛を吹いて、三人だけでもついてくれば、いつでも宴会をすることができ、いつでも大会をして、いくらでも友達を集めることができると思うのです。昔、ギリシャのソフィスト(sophist)たちのように、どこに行っても弁論し、理論を語って勝てば、国や村が歓迎するようになるのです。そのようにできる内容が十分にあります。聞いてみなさい。霊界の霊人たちも、先生のみ言を聞いて、すっかり魅了されてしまったではないですか。


 皆さんが統一教会の先生が悪口を言われるようにしましたか、悪口を言われるようにしていませんか。全員、悪口を言われるようにした群れではないですか。アメリカでも、何千万里も離れたアメリカの地なのに、そこで統一教会を信じていた息子が車にひかれて死んだときには、「文総裁が捕まえて車にひかれるようにした」と新聞でたたいたのです。「おお、きれいに滅びるな、この国は」と思いました。このままでは間違いなく滅びます。事実ではないことを、うそをつき、事実のように言えば、滅びるのです。


 今からは、足の底で踏みつぶせば、粉になって飛んでいくようになるのです。無人境のような状態になるのです。状況が、何が何だか分からなくなるのです。アメリカ自体では、それを収拾することができません。今から私が離れれば、困ることになるでしょう。


今から真の父母が有名になるだろう


 最近も、だんだん食欲をなくしています。手術をしてから、まだ整備ができていません。お母様は、昔、私が好きで食べていたものを用意してくれるのですが、今はすべて食べたくありません。体質が改善されたのか、時代が変わったのか、この餅もよく食べ、食べられないものはなかったのですが、口に入れば、嫌ですべて吐き出したくなります。


 それで、それを無理やり食べれば、それが昼食なら、夕食は食べたいと思いません。それを、どうすべきかと考えます。「祝宴をやっている家に行き、歌を歌い、踊りを踊って汗を流せば、食べることができるだろう。そのように歓迎する家も、統一教会には何軒もないだろうが、統一教会の祝宴の日は、私が中心にならなければ行われず、皆さんにそのような気持ちもなく、そのようにすることができる時間もないので、おいしく食べる時間もないだろう」と考えるのです。それで、「ええい、運勢が良くなれ」と考えるのです。このような時代になるので、船に乗って行くよりも、だんだんとこのように飛行機、ヘリコプターに乗って行こうとするのです。それで、私はヘリコプターの専門家になろうと思うのです。
(これはお父様がヘリコプターが欲しくて言っているのではありません。比喩的に語ったのです。今の状態が、不信仰の状態が続けば、お父様は霊界に行かざるを得ないことを語られているのです。ヘリコプターは垂直に上がりますから、霊界に垂直に上がっていくことを象徴して語られた内容です。2008年7月 19日のヘリコプター事故は、聖和前に起こった一つです。)


 昔の海の王の名前は何ですか。(張保皐です)。黒山島に行けば、張保皐の城があるそうです。張保皐というのか、何保皐というのか分かりませんが。


 私がそのように有名になるかもしれません。海で魚を捕まえることにかけては誰にも負けず、記録をもっています。ツナ・コンテストに行って、私が一等になりました。そして、「その賞金でアフリカの人たちを助けてあげなさい」と言ったのです。


一日一食を抜き、ほかの人に


 では、一日に三食食べれば、一食は誰かを接待してあげたいと思いますか、思いませんか。私たち統一教会でいえば、四位基台を考えるということです。そうではないですか。ですから、四位基台は、「ため」に生きる代表なので、「自分が三食食べるとすれば、一食を抜いてでも、ほかの人を食べさせてあげなければならない」という伝統がなければなりません。


 ですから、皆さんが食堂に行ったときに、隣におばあさんやおばさんが来て、自分は良いものを注文しているのに、安い物を注文しているとします。そのような人が二人、三人来れば、その安い物を注文している貧しいおばさんに、自分が注文した良いものを「食べなさい」と言ってあげるのです。そうすれば、その人が負債に思います。自分が食べる代わりにその人たちを助けてあげることにより、そのあとで、自分が良いものを食べても、喉が詰まらず、下痢もせず、胃が病気にならず、健康になるのです。


 そのようにして出てくれば、気分は悪くありません。財布をすべてはたいても、「今からひと月は、誰よりも良いものを自由に食べても、心に引っ掛からないなあ」と思うのです。そのように生きるのです。それは、立派な人ですか、愚かな人ですか。


 この全羅道と私と何の関係がありますか。麗水と順天は共産党の基地だったのですが、朴正煕のお兄さんまで私が解放してあげました。このような話は、聞いても分かりませんね。


 私が、韓国の三十の大財閥を中心として、一度招待しました。招待すると、その招待を受けて「私がお迎えに行きます」と答えた人が現代の鄭周永氏です。本社に訪ねていって幹部たちに会って話をしたのですが、「大統領に出馬するので助けてほしい」と言っていました。人は助けてあげても、お金を助けてあげてはいけません。


 そのとき安企部(注:安全企画部)で、「文総裁! 三億のお金をもらおうともしない。そのような人がいる! その人はどのような人なのか」と研究対象になりました。ですから、今でもびくともしないのです。すべて政治に引っ掛かっていくのですが、文総裁が引っ掛かっていきましたか。私一人だけ引っ掛からなかったでしよう。どろぼうしては駄目なのです。ところが、どろぼうして詐欺を働くやつだと烙印を押され、「ぷうっ、ぷうっ!」とされましたが、今では、「ぷうっ、ぷうっ!」とするのではなく、息を吸い込まなければならなくなっているのです。


(教会内は誰も彼も献金中抜き、公金横領、人権蹂躙、血統問題の時代でした。そのことを知って語られています。この問題が洗礼ヨハネ以下、幹部たちの大問題点だったからです。そして、ここの「息を吐く、吸う」ということは、「平和の主人」にも力説している内容です。)


 「千年岩」を一回歌ってみてください。それは、死ぬ臨終時に自分のことを考えながら、私はこのように生きたのか、ということを象徴する歌なのです。千年岩、万年岩というものは、統班撃破してきた歳月の四つ角で、それを見守るのです。統班撃破をして逝くのか、できずに逝くのかという問題です。峠を越えていくときは、それができなければ大変なことになるのです。そのような意味があるのです。よく聞いてください。聞いてみて、二回目は、「私は、この歌のようになる」と思い、思いきり歌いましょう。

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