平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

③我慢の限界点に達している・・・七男派が三男派を非難し、三男派が七男派を批判する・・・これでは、最も愚かなリーダーの采配になる!!

 下記の御言葉は、家庭連合は砂をかけたいと思うほどの、忘れてはならない、いわゆる、草束事件の翌日に語られたものです。


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 この御言葉は非常に重要な御言葉であります。
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 何故なら、これはお父様の権限で顕進様を保護されていることが分かる御言葉であるからです。にもかかわらず、自分の感情に任せて、顕進様に矢を放つとするなら、それは、摂理に対する無知であり、更には、お父様を愛すると言いながら、お父様の心情を蔑ろにする偽善者の行為になります。


 顕進様を愛して亨進様に石を投げるブログ者も、亨進様を愛して顕進様に石を投げるブログ者も、自分の個人的感情を捨てて、お父様の立場に立ち帰り、神様の摂理を探し求める心でお読みください。おおよそ、神の名を語りながらも己の感情をコントロールできない場合、特に、批判して石を投げる者の感情はミスと禍根を生むものです。


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 批判合戦のブログは見飽きました。何も変わりません。
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 この御言葉の(※)にあるように、「そのように純理的な環境を通して作って置いたので、逆理的な環境基準が二つ(家庭連合と顕進様)にあれば二つとも処断してしまわなければなりません。」の御言葉に反することになると思います。後に家庭連合から分かれたサンクリチアリ教会もこの二つの中に入るはずです。


 簡単に言えば、「お互いに批判し合うのは処断の対象です」ということです。
 この批判合戦を止めなければ天運が来ないことになります。イエス様の教えに照らしても、当然のことです。


 偉大なる人物とは、問題が他人によって生まれたとする者ではなく、他人の問題までも自ら負って解決する者です。


 もし、このような判断だできるリーダーと集団がいるなら、現在の家庭連合の信徒の中かろ、信仰の良心がうずいてくる者が出てくるようになるのです。人の揚げ足取りは、たとえ、正しいとしても、誰が見ても見苦しいのです。


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 昨年で、七年の大患難期間が過ぎた・・
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 特に、お父様が聖和されて、昨年で《 七年の大患難期間 》を過ぎましたので、この期間における《 顕進様と亨進様の苦しみと悲しみによる嘆きの訴えを天は許されていました 》。


 しかし、七年の大患難期間が過ぎ、今年はその恩恵を世界的に受ける最初の年であると思われます。それで起こったのが《 新型コロナ禍    》です。


 天は確実に運行しています。


 この時代を迎えたにもかかわらず、家庭連合、三男派、七男派が相変わらず批判の石を投げ合うことは、見ている天からすれば、我慢の限界点に達したと言えるのです。


 全ては、お父様から始まったことですから、全ての問題をお父様が負われて聖和された以上、そこから生まれたどんな問題も、思い込みからくる自分の感情を捨てて、お父様によって解決する以外に出口はあり得ません。


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 二枚舌の偽善者になってはいけない・・・
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 お父様を愛すると言いながら、お父様の戒めと願いを無視するはサタンの行為です。


 御言葉の一つ一つの言葉のひだに流れているお父様の心情、言外の心情を捉えるようお願いします。


(文鮮明先生御言葉選集 609-152 2009.3.9)


昨日、私が束草で会わなければならないことを約束して解決しておいたのです。顯進がどこへ行ったの? 来た? 「来ませんでした。(お母様)」 顯進が出ていったのを呼び入れましたが、父の言葉を立ててくれたことをありがたく思います。


その場で自分がこのような団体に会わない(意訳すると「団体で働かない」)と言って出て行きましたが、呼び入れて自分が言ったことが間違いであったと、現場で解けと言いました。それでも父の言葉に従おうとしました。体面に関わらず、全ての人たち、公的な会合で父母様と約束して会った人々の前で間違ったと言って拍手で歓迎して座らせました。(609-151 2009.3.9)


見てください(意訳:考えてみなさい) 相反することをここにいる人々が会って評価するなというのです。評価する人々が責任持たなければいけません。先生を通して行く道を皆解決したのにそれを否定すればどうなるのですか?それを否定するという人が悪いですが、そこに答えて応じてあげる人も先生が決定したことを否定する立場に立つので二つとも除去されなければならないのです。


(※)そのように純理的な環境を通して作って置いたので、逆理的な環境基準が二つ(家庭連合と顕進様)にあれば二つとも処断してしまわなければなりません。


永遠に統一教会の門の前に足も踏み入れられないようにしなければいけませんが、その場まで行かずに皆善意の拍手をしたのです。

顯進が踵を返す時拍手で歓迎する立場に立って、私が出て行く時呼び止めて手をつないで挨拶させて出て来たのです。


ですから(顕進は)皆さんに会う必要がないために(皆さんだけ)ここに集まれと言いました。皆さんのなかで残念な思いがあれば(意訳:残念な思いを持っている人がいれば)、私にきて話せというのです。顯進とアボジの問題は問題になりません。そのような問題は我々にあり得ないので、根本がそうなる道を行かないことができるように全てしたというのです。(609-152 2009.3.9)


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