平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第五章  (46)真の愛は真の家庭から  P.230  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)

世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第五章 真の家庭が真の人間を完成する ――― 結婚と愛

真の愛は真の家庭から  P.230  


 男女がいくら愛し合っても、幸福な家庭を完成させるには、必ず家庭の囲いとなる父母がいて、大切にする子供がいなければなりません。家族という囲いがしっかりしているとき、その家庭は初めて幸福になります。いくら大きな社会的成功を収めたとしても、家庭の囲いが崩れてしまえば不幸になってしまいます。


 愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。「おまえには、何月何にゴム靴を買ってやり、服も買ってやった。おまえのためにこれまでさんざん苦労したが、その代価はいくらだ」と帳簿に書いておく父母は一人もいません。かえって、自分が持っているものをすべて与えても、「これ以上与えることができなくて本当に済まない」と言うのが父母です。


 幼い頃、養蜂(ようほう)をしていた父に付いて回り、ミツバチが遊ぶ様子をたくさん見ました。花畑を飛び回っていたミツバチが蜜の匂いを嗅ぐと、花びらにしっかりと足をつけ、尻尾(しっぽ)を後ろにしたまま口を雄しべと雌しべに差して蜜をすいます。その時、ミツバチに近づいて、尻尾をつまんで引き抜いても蜜から離れません。命がけで蜜を守るのです。


 家庭を持って暮らす父母の愛はまさにこのミツバチと同じです。自分の命が尽きても、子供に対する愛の紐を放しません。子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえも忘れるのが父母の愛です。いくら道が遠く険しくても、父母は喜んでその道を行きます。父母の愛は、世の中で最も偉大な愛です。


 いくら良い家で山海の珍味を食べて暮らしても、父母がいなければ心ががらんと空いてしまいます。父母の愛を受けられずに育った人の心の中には、他のどんなものでも満たすことのできない孤独と寂しさが隠れています。家庭は父母の真の愛を受けて愛を学ぶところです。幼少期に愛されなかった子供たちは、生涯愛に飢え、情緒的に苦痛を受けるだけでなく、家庭や社会のために当然すべきことがあるという高い道徳的な義務を学ぶ機会を失ってしまいます。その意味で、真の愛は、家庭以外の他の場所では決して学ぶことができない価値だといえます。


 真の家庭は、夫と妻、父母と子供、兄弟姉妹がお互いに為(ため)に生きて愛する所です。さらには、夫は妻を神様のように愛し、妻は夫を神様のように尊敬する所です。夫は父の代身であり兄の代身なので、血のつながった父を捨てることができず、また兄を捨てることができないように、夫を捨てることができないのです。妻もやはり同じです。ですから、「離婚」という言葉はあり得ません。このようにお互いを絶対的な存在として暮らす所が、真実の愛があふれた真の家庭です。


 お互いに異なる人種と文化的背景を持つ夫婦だとしても、神様の愛を受けて家庭を持ったのなら、彼らの間に生まれた子供たちの間で文化的葛藤(かっとう)というものはあり得ません。その子供たちは、父母を愛する心で母の国と父の国の文化と伝統をすべて愛して大切にするのです。したがって、多文化家庭の葛藤の解決は、どのような知識を教えるかではなく、その父母が真の愛で子供を愛するかどうかにかかっています。父母の愛は、子供の肉と骨の中に露のように入り込んで、母の国と父の国を一つのものとして受け入れさせ、子供が立派な世界人として育つようにするっ肥料になります。


 家庭というのは、人類愛を学び教える学校です。保母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出て行けば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。また、兄弟姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きていくでしょう。愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うのです。自分の家族のように思って人に仕え、人に自分のものを分けてあげる愛の心は真の家庭から始まります。


 家庭が大切なのには、もう一つ理由があります。家庭は世界に拡大するから大切なのです。真の家庭は、真の社会、真の国、真の世界の始まりであり、平和世界、神の国の出発点です。父母は、息子・娘のために骨が溶けてなくなるほど働きます。しかし、単純に自分の子供にばかり食べさせようと働くのではありません。あふれるほど愛を受けた人は、人のために、神様のために働くことができます。


 家庭は、あふれるほど愛を与え、また与える所です。家庭は、家族を包む囲いであって、愛を閉じ込める所ではありません。かえって家庭の愛は、外にあふれ出て、絶えず流れていかなければなりません。いくら愛があふれ出ても、家庭の愛は乾くことがありません。神様から受けたものだからです。神様から与えられた愛は、いくら掘り出しても底が見えない愛、いや掘れば掘るほどもっと澄んだ泉があふれ出てくる、そのような愛です。その愛を受けて育った人は、誰でも真の人生を生きることができるのです。





 愛の墓を残して旅立つ人生  P.234


 真の人生は、個人の私的な欲心を捨てて、公益のために生きる人生です。これは孔子やイエス、釈迦(しゃか)やムハンマドなど、世界的な宗教指導者であれば誰もが語る古今東西の真理です。この真理は誰もが知っていて、あまりにもありふれているので、かえってその価値を見失いがちです。しかし、いくら歳月が過ぎ、世の中が変わっても、この真理だけは変わりません。世界がいくら急速に変わったとしても、人が生きていく本質は変わることがないからです。


 自分の最も親しい先生は自分の良心です。最も親しい友人よりも貴く、父母よりも貴いものが自分の良心です。ですから、一生を生きながら、最も親しい先生であるこの「良心」に、「私は今、正しく生きているか?」といつも尋ねなければなりません。良心が自分の主人だという意実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐ止めなければなりません。良心を苦しめることは、自らを滅ぼすことだからです。良心を悲しませることは、結局、自らを悲しみに陥れることです。


 心を明るくし、清めようとすれば、世の中の喧騒(けんそう)を離れて、私と私の心、この二つだけが対面する時間が必ず必要です。とても孤独な時間ではありますが、心と親しくなる瞬間こそ、私自身が心の主人になる祈りの場であり、瞑想(めいそう)の時間です。周囲の騒々しさを退けて、心を静めていけば、心の中の最も深い所が見えてきます。心が落ち着くその深い場所まで降りていくためには、多くの時間と労力を注がなければなりません。一日でできることではありません。


 愛が自分のためのものではないように、幸福と平和も自分のためのものではありません。相手のいない愛がないように、相手のいない理想と幸福、平和もありません。これらすべては、人との関係から始まるのです。一人で愛してできることは何もなく、一人で立派な理想を夢見て成し遂げられるものは何もありません。一人では幸福になることも、平和を語ることもできません。必ず相手がいなければならないということは、私よりもその相手がより大切だという意味です。


 幼い子供を背負った母親が、人々が行き交う地下鉄の入り口にしゃがみこんで海苔巻(のりま)きを売る姿を見たことがあるでしょう。朝の出勤時間に合わせて海苔巻きを売ろうと、その母親は夜中までかかって海苔巻きを作り、だだをこねる赤ん坊まで背負って出てきました。通り過ぎる人人は何気なく「ああ、あの赤ん坊さえいなければ楽に暮らせるのに・・」と言いますが、実際には、その母親は赤ん坊のために生きているのです。母親の背中でだだをこねる赤ん坊が、その母親にとって生命線なのです。



 「人生八十年」と言います。喜怒哀楽が入り乱れる八十年という歳月は、本当に長く見えますが、その中で、眠る時間、生活の資を得る時間、遊ぶ時間、諸々の雑事に負われる時間などを除外すれば、わずか七年しか残らないといいます。私たちがこの世に生まれて八十年を生きても、本当に自分自身のために使える時間はわずか七年だけです。


 人生はゴム紐(ひも)と同じです。誰にも等しく与えられた七年が、ある人には七日だけ使われ、ある人には七十年分にも使われることがあります。時間はもともと空いていて、私たちがその中を満たしていくのです。人生も同じです。生きていれば、誰でも安らかな寝床と裕福な食卓を願わない人はいないと思いますが、食べることや眠ることは、それだけでは時間を浪費しているにすぎません。自分の命が尽きて体が地の中に埋められる瞬間、生涯の富と栄華は一度に泡となって消えてしまいます。その人が自分の自由に使った七年の時間だけが残り、後代の人たちに記憶されます。その七年の歳月だけが、八十年の生涯を生きて自分がこの世に残す痕跡(こんせき)なのです。


 人が生まれて死ぬことは、自分の意思によるものではありません。人は、自分の運命に対して何も選択することができません。生まれても自分が生まれようとして生まれたのではなく、生きていても自分の思いどおりに生きることができるわけでもなく、死ぬとしても自分が死のうと思って死ぬのではありません。このように人生において何の権限もないのに、自分は優れていると誇れるものがあるでしょうか。自分自身が生まれたいと思っても生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死の道を避けることもできない人生ですから、誇ってみても侘(わび)しいだけです。


 人よりも高い位置に上がったとしても、一瞬の栄華にすぎず、人よりもたくさんの財物を集めたとしても、死の門の前では一切合切捨てていかなければなりません。お金や名誉や学識、その全てが時と共に流れていってしまい、歳月が過ぎればすべてなくなってしまいます。いくら立派な偉大な人だとしても、命がつき居た瞬間に終わってしまう哀れな命にすぎません。自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないのかを、いくら考えても分からないのが人間です。したがって、自分が生まれた動機と目的が自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、やはり自分のためではないことを悟らなければなりません。


 ですから、人生いかに生きるべきか、ということに対する答えは簡単です。愛によって生まれたのですから、愛の道を求めて生きなければなりません。父母の果てしなく深い愛を受けて生まれた命なので、生涯その愛を返して生きなければならないのです。それこそが、私たちが人生において自らの意思で選択できる唯一の価値です。私たちに与えられた七年という時間の中に、どれほど多くの愛を満たしたか、ここに人生の勝敗がかかっています。


 誰でも一度は肉身という服を脱いで死にます。韓国語では、死ぬことは「トラガダ」と言います。「トラガダ」という言葉は、もともと出発した所、すなわち根本に再び戻るという意味です。私たちが生きているこの宇宙の全ての活動は循環しています。山に積もった白い雪が解け、警告を流れ下って川の流れになり、海へと流れ出ていきます。海に流れ込んでいった白い雪は、暖かい太陽の光を浴びて水蒸気となり、再び空に昇って雪や雨の滴(しずく)になる準備をします。そのように、本来いたところに帰るのが死です。人が死んで帰る所はどこでしょうか。心と体からなる人の命から体を脱ぎ捨てるのが死なので、本来、心がいた所に帰るのです。


 死を語らないまま生を語ることはできません。生の意味を知るためにも、私たちは死とは何かを正確に知らなければなりません。そのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐ死ぬかもしれないという窮地に追い込まれ、一日でも長く生きようと天にすがりついて泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。それほど貴い一日一日を、私たちはどのように生きればよいのでしょうか。誰もが渡っていかなければならない死の境界を超える前に、必ず成し遂げておくべきことは何でしょうか。


 最も大切なことは、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇(ちゅうちょ)することをしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです。


 その次に大切なことは、人よりもっと多くの仕事をすることです。人に与えられた人生が六十年であれ七十年であれ、時間が限られていることに変わりはありません。その時間をどのように使うかによって、普通の人の二倍にも三倍にもなる豊かな人生を生きることができます。時間を必要度に応じて細かく刻み、一瞬でも無駄に使わずに一生懸命働けば、その人生は本当に貴いものになります。人が一本の木を植えるとき、自分は二本、三本の木を植えるのだ、という勤勉で誠実な姿勢をもって生きるべきです。自分のためにそのように生きよというのではありません。自分よりも人のために、自分の家庭よりも隣人のために、自分の国よりも世界のために生きなければなりません。世の中の大概の罪は、「個人」を優先するときに生じます。個人の欲心、個人の欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。


 世の中のあらゆるものは通り過ぎていってしまいます。愛する父母、愛する夫と妻、愛する子供も通り過ぎていってしまい、人生の最後に残るのは死だけです。人が死ねば墓だけが残ります。その墓の中に何を入れれば価値のある人生を生きたと言えるのでしょうか。生涯かけて集めた財産や社会的な地位は、既に通り過ぎてしまった後です。死の川を渡っていけば、そのようなものは何の意味もありません。愛の中に生まれ、愛の人生を生きたのですから、生を終える墓の中に残るものは愛だけです。愛によって生まれた命が、愛を分かち合っていき、愛の中に帰っていくのが私たちの人生なので、私たちは皆、愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければなりません。


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