平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

「故郷」「本郷」「還故郷」の本質は何であったのか??

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「故郷」「本郷」「還故郷」の本質は何であったのか??
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 下記の御言葉は1966年のものです。


 この御言葉の(※)に「それではこの悪の故郷はどこなのか?それは正に人間なのです。」と語られているように、「悪の故郷」=「堕落した人間」であることが分かります。


 ということは、文先生が言われる「(善の)故郷」「本郷」とは、「創造目的を完成した人間」であることが分かります。「八定式」の勝利によって創造目的を完成した基準に立たれたお方が文先生ですから、「還故郷」とは、文先生に帰ろうという摂理的な運動になります。
 それでは、どうしてこの様な遠回しの言い方になっているのでしょうか。その理由は、「摂理的還故郷」を公的に発動するにおいて「私(文先生)に帰ろう、私と一体となろう」という言葉は完全に為に生きるという真の愛の基準からすると自己中心的な言葉になってしまう為、文先生はこの「摂理的還故郷」に対して直接的に語ることができなかったと思われます。


 このように、一九八八年六月一日に始まった「摂理的還故郷」とは、完成基準に立たれた文先生と一体となって接ぎ木されるようになれば、私たちも創造目的を完成した人間になることを意味していたのです。しかしながら、私たちは「故郷」の意味を取り違いして堕落している自分の肉身が生まれた「悪の故郷」に帰ることを言っているとしてきたのです。これが今の私たちの偽らざる姿なのです。
 (なお、後日記事にしますが、これと同じ過ちを犯しているのが「氏族的メシヤ」と「先祖解放」です。)


 したがって、文先生が発動された「摂理的還故郷」は未だになされていない為、文先生ご自身は完成基準に立たれていたとしても、不信しているお母様のままである為、当然、実体の真の父母が存在していませんから、再臨摂理が延長されているということです。その為、文先生は、晩年期になっても盛んに「再臨主を迎えなければならない」と語られていたのです。
 補足しておきますが、この御言葉は1966年のものですので、まだ八定式の勝利基準が立っていませんでしたから、御言葉の最後にご自身を堕落した私たちと一緒の堕落圏にあることから、(※)で「我々だというのです。まさに我々。」と語られいたのです。 


文鮮明先生み言葉選集(講演文)

 「審判の目的」 一九六六年一月二日(日)前本部教会


 「ですから問題は悪を除去することです。それでは悪の故郷、悪が生まれたところはどこか? 悪の根拠地がどこで、悪の本郷の地がどこか? 悪の故郷は大韓民国ではありません。どこの国の地でもありません。ある看板を付けている団体でもありません。

 大韓民国を構成しているものは個人と家庭です。世界は数多くの宗族と民族と国が合わさって構成されたものです。

しかし悪の故郷はこのような家庭、宗族、国家、世界ではないのです。


 それではこの悪の故郷はどこなのか?それは正に人間なのです。悪の本郷、悪の根拠地はまさに人間なのです。分かるでしょうか? (※)我々だというのです。まさに我々。

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