平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第五章  (40)この上なく善良で貴いあなた P.207  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)


世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第五章 真の家庭が真の人間を完成する ――― 結婚と愛



(40)この上なく善良で貴いあなた P.207


結婚してから私は妻と約束をしました。

「いくら憤懣(ふんまん)やるかたないことがあっても、信徒たちに『先生夫婦が喧嘩(けんか)をした』と思わせないようにしよう。これから子供を何人生んでも、父母が喧嘩したところを見せないようにしよう。子供たちは神様だからね。子供たちはとても小さな愛の神様だ。だから、子供たちが『お母さん!』と呼ぶときは、無条件に笑って『どうしたの?』と答えなければいけない」


 七年間、そのように容赦のない訓練を受けた後、妻は初めて母らしくなりました。教会の中で、妻をめぐってなんだかんだと言っていた陰口は姿を消し、家庭にも安らかな幸福が訪れてきました。妻は十四人の子供を生みましたが、世界中を講演して回る私と一緒に家を離れているときは、毎日、子供たちに手紙やはがきを書いて送るのを欠かさないほど、子供たちを愛で包んで育てました。


 二十一年間に十四人の子供を生んで育てたのですから、いう二言えない苦労があったはずですが、その素振りさえ見せませんでした。出産を控えた妻を置いて、私が海外に行ってしまったことも一度や二度ではありません。信徒たちが送ってくる手紙で、妻の生活が大変で栄養状態が心配だという内容を読んでも、どうすることもできない日もありました。それでも妻は、一度もつらいと不平を言ったことがありません。今も済まないと思うのは、一日に二、三時間しか眠らない夫に合わせるために、妻もこれまで毎日二、三時間しか眠ることができなかったことです。


 妻は自分の結婚記念の指輪まで人にあげてしまうほど情け深い女性です。ぼろを着た人を見れば服を買ってあげ、おなかを空(す)かせた人に会えばご飯を振る舞いました。家にプレゼントが届いても、開けずにそのまま人にあげてしまうこともしばしばでした。ある時、オランダを巡回している途中、ダイヤモンドの加工工場に寄る機会があり、それまで苦労をかけてきたお詫(わ)びの印に、妻にダイヤモンドの指輪を買ったことがあります。お金が少なくて大きなものは買えませんでしたが、私が見て良いと思うものを一大決心して買いました。しかし、その指輪さえ人にあげてしまいました。私が妻の指に何もないのを見て、「指輪はどこに行ったのか?」と聞くと、「どこに行くも何も、流れていきましたよ」と言うのです。


 いつだったか、黙って大きな風呂敷を出して、服を包んでいる妻を見つけて、理由を尋ねました。

「それをどうするのか?」

「使うところがあります」

詳しい話はせずに風呂敷をいくつか包んでいました。後で知ったところによると、妻は国外に出ている宣教師たちに送ろうとしていたのです。「これはモンゴル行き、これはアフリカ行き、これはパラグアイ行き・・・」と、ふふふと笑う妻の心が本当に美しく感じられました。今でも、海外に出ている宣教師たちをあれこれと世話するのは妻の役目です。


 妻は一九七九年に「国際救護親善財団(IRFF)」を作り、今もアフリカのコンゴ(旧ザイール)、セネガル、コートジボワールなどの国々を回って奉仕活動をしています。貧しい子供たちに食べ物を分け与え、からの具合が悪い人には医薬品を、ぼろを着た人には衣服を届けます。韓国でも一九九四年に「愛苑銀行」を作りました。孤児救済と無料食堂の運営、北朝鮮同胞救済などの活動を行っています。また妻は、以前から女性団体の仕事もしています。妻が責任を持つ「世界平和女性連合」は世界八十カ国に支部を置く団台であり、国連にも登録されたNGO(非政府組織)です。


 人類の歴史において、女性はいつも抑圧された立場にいました。しかし、これから訪れる世界は、女性の母性と愛、親和力が土台となった和解と平和の世界です。女性が世界を救う時代が到来するのです。


 しかし、今日の女性団体は、不思議にも男性に反対することが女性のパワーを示すことだと言わんがかりに、男性を目の敵にして敵対しようとばかりします。妻が責任を持って運営する女性団体では、宗教に基盤を置いて、愛で平和世界を開いていく運動を展開しています。家庭を壊して飛び出してくる女性解放ではなく、真の家庭を守り、愛を実践する女性運動です。


「女性はまず考の心を持つ真の娘として育ち、結婚して貞節と献身で夫を支える妻となり、子供を正しく育てて社会のために奉仕する指導者になるように導く」―――そうした女性を社会に送り出すことが妻の夢なのです。妻が率いる女性運動は、真の家庭をつくるためのものです。


 私が公的な仕事で忙しい時期に、私の子供たちは一年の半分近くを父も母もいない中で生活しなければなりませんでした。子供たちは両親のいない家で信徒たちと共同体を作って暮らします。家の中はいつも信徒たちでいっぱいでした。また、我が家の食卓はいつもお客さんが優先で、子供たちは後回しでした。このような環境のために、子供たちは普通の家庭の子供であれば感じないような孤独を嫌というほど感じて育ちました。しかし、それよりもっと厳しい困難は、父親のことで受けなければならない苦痛でした。どこに行っても「異端の教祖、文鮮明(ムンソンミョン)」の息子・娘として指をさされたのです。それぞれあてどなく彷徨(さまよ)う時期を経験しましたが、子供たちはいつも元の位置に戻ってきてくれました。親として注意深く面倒を見てやることもできなかったのですが、今ではハーバード大学の卒業生が五人もいるのですから、これ以上ありがたいことはありません。今、子供たちは、私の仕事を助けてくれるほど皆成長しました。しかし、私は依然として厳格な父です。今も変わらず、父である私以上にもっとよく天に仕え、人類の為に生きる人とならなければならないと教えています。


 大抵のことには動じない妻でしたが、二番目の息子、興進(フンジン)の死に直面した時は、大変な悲しみを乗り越えなければなりませんでした。一九八三年十二月のことです。私は妻と共に全羅(チョルラ)南道光州(ナムドクァンジュ)で開かれた勝共決起大会に臨んでいました。興進が交通事故に遭って病院に運ばれたという国際電話を受けましたが、二日間の公式日程が残っているため、すぐに渡米することはできませんでした。公式行事の全日程を終えた後、ニューヨークに急行しましたが、病室に横たわった興進はすでに意識がありませんでした。


 坂道を加速しながら下ってきたトラックが急ブレーキを踏んで、横滑りをして起きた事故でした。興進(フンジン)の車には親友二人が一緒に乗っていました。自分の命が危ない緊迫した状況の中でも、興進は急いでハンドルを右側に切り、自分の座る運転席がトラックとぶつかるようにして、助手席と後部座席に座った友人の命を救いました。事故現場の坂道に行ってみると、道路には、右側に急ハンドルを切ったタイヤの黒い跡がそのまま残っていました。


 結局、興進は、都市を超えた一九八四年一月二日の早朝、天の国へ旅立ちました。ちょうど一(ひと)月前に十七歳の誕生日を迎えたばかりでした。育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは筆舌に尽くしがたいものでしたが、声を出して泣くどころか涙さえ流すことができませんでした。私たちは霊魂の世界を知っています。人の霊魂は命を失ったからといって埃(ほこり)のように消えてしまうものではなく、霊魂の世界に行きます。しかし、愛する子供ともはやこの世であうことも触れることもできないということは、親として耐えがたい苦痛です。思い通りに泣くこともできなかった妻は、興進を乗せた霊柩車を何度も撫(な)でていました。


このように大きな苦労を経験するたびに心に衝撃を受けたはずですが、妻はよく乗り越えてくれました。いくら困難で大変な状況の中でも、妻は穏やかな笑顔を忘れずに人生の峠を越えてきました。信徒たちが子供の問題で妻に相談に来ると、妻は笑顔で答えます。「待ってあげましょう。子供たちが道に迷うのは一時のことで、いつかは過ぎ去ります。子供たちが何をしても、絶えず抱きしめるような気持ちで愛してあげながら、あとは待ちましょう。子供たちは必ず両親の愛の懐の中に戻ってきます」


 私は生涯、妻に大声を出したことがありません。私の性格がもともとそうだからではなく、妻が大声を出させるようなことをしたことがないからです。私の理髪もこれまでずっと妻がやってくれました。妻の理髪の腕は世界最高です。最近は、私も随分と年を取ったせいで、妻に頼ることが多くなりました。「足の爪を切ってほしい」と言えば、妻はさっと切ってくれます。足の爪は間違いなく私の爪ですが、私の目にはよく見えず、妻の目のほうがよく見えるのですから、不思議なものです。年を取るほど、そのような妻がますます貴くなります。

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