平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

 (29)(30)(31)《 第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)



これまで掲載した《 「第四章」 》を(文字数の制限のため)三回に分けて掲載します。



 本日は(29)(30)(31)


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(29)決死の覚悟で行くべき道を行く  P.156


 ソウルの西大門(ソデムン)刑務所から釈放された一九五五年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今はまだ大勢が共に集まって礼拝を捧げる大きな教会もありませんでしたが、遠い未来のことを準備しなければならないと思ったのです。


 世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春(チェポンチュン)(日本名は西川勝(にしかわまさる))です。


 一九五八年、甲寺(カッサ)(忠清南道の鶏龍山(ケリョンサン)にある)の裏山に崔奉春(チェポンチュン)を呼んで、私は言いました。

「おまえは、今すぐ玄界灘を渡っていかなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」

 彼は少しもためらわずに「はい!」と答え、「召されて出で立つこの身はゆくぞ・・・」という統一教会の聖歌を歌いながら、意気揚々と山を下りていきました。日本に行って生活はどうしたらいいのか、宣教はどうやって始めたらいいかと尋ねることもしませんでした。崔奉春はそのように豪胆な男でした。


 当時は日本とまだ国交がなかったので、密航するしかありませんでした。密航は国法を破ることでしたが、日本宣教は必ずやらなければならないことでした。したがって、何があろうと困難は全て耐え忍ぶしかなかったのです。


 崔奉春は決死の覚悟で密航船に乗り込みました。私は、彼が無事に海を渡ったと知らせてくるまで、他のことは一切せず、小さな部屋に籠(こも)って座り、ひたすら祈り続けました。何も食べず、寝ることもしませんでした。彼を送り出すのに必要な資金百五十万圜(ファン)は、借金をして充てました。満足にご飯を食べられない信徒が大勢いる中で、大金を借りてでも彼を送ったのは、それだけ日本宣教が急を要することだったからです。


 しかし、崔奉春は、日本に到着するとすぐに逮捕されてしまいました。広島と山口の刑務所に収監され、韓国に強制送還される日を待つ身となったのです。約九ヵ月間の刑務所生活の後、思いつめた彼は、韓国に帰るくらいならむしろ死を選ぼうと腹を決めて、断食を始めました。食を断つと熱が出ました。警察は治療が必要と判断して本国送還を延期し、入院させたところ、彼はその気に乗じて病院から逃げ出しました。


 こうして生きるか死ぬかの苦労を一年半ほど続けた末に、崔奉春(チェポンチュン)が日本に教会を創立したのは一九五九年十月のことでした。その時代、韓国と日本は正式に国交を結んでいないばかりか、圧制政治のつらい記憶ゆえに、誰もが日本との修好に激しく反対していました。そのような怨讐(おんしゅう)

(深い怨(うら)みのあるかたき、敵)の国日本に、密航させてまで宣教師を送ったのは、日本を救う為であると同時に、大韓民国の未来を開くためでもありました。日本を拒否して関係を断絶するよりも、日本人を教化した後、私たちが主体となって彼らを味方につけなければならないと考えました。何も持たない韓国としては、日本の為政者と通じる道を開いて日本を背景にしなければならず、また何としてもアメリカと連結されてこそ、未来の韓国の生存の道が開かれると見通したのです。崔奉春の犠牲によって宣教師の派遣に成功した後、日本教会は久保木修己(くぼきおさみ)という優れた青年指導者を得て、彼と彼に従う若者たちによって、しっかりと根を下ろしました。


日本に宣教師を派遣した翌年(一九五九年)、今度はアメリカに宣教師を送りました。この時は密航ではなく、堂々とパスポートとビザの発給を受けて送りました。西大門(ソデムン)刑務所を出てから、私の収監に加担した自由党の長官らと接触し、パスポートを得ることができました。私に反対した自由党を逆に利用したのです。当時、アメリカはあまりにも遠い国でした。私がその遠いアメリカに宣教師を送ると言うと、まず韓国でもって教会を大きくして、それから送っても遅くはないと誰もが反対しました。しかし、「大国アメリカの危機を早く収拾しなければ韓国は滅びる」と言って、私は信徒たちを説得しました。一九五九年一月、梨花(イファ)女子大を追われた金永雲(キムヨンウン)宣教師が最初に派遣され、その年の九月、金相哲(キムサンチョル)宣教師がアメリカに到着して、全世界に向けた宣教史の第一歩を踏み出しました。





(30)大事に稼いで大事に使う  P.159


 商売をして集めたお金は神聖なお金です。しかし、商売で得たお金を神聖なものにするには、それに携わる者が嘘をつかず、暴利をむさぼらないという条件が必要です。商売をする時は、常に正直でなければならず、三割以上の利益を取ってはなりません。そうやって大事に稼いだお金は、当然貴い目的のために使うべきです。目標が明確で、志のあることのために使わなければならないのです。私は生涯、そのような心がけで事業を展開してきました。事業の動機は、単純にお金を稼ぐことではなく、神様の仕事である宣教活動を支えるところにありました。


 事業を通して宣教資金を得ようとした理由の一つは、信徒たちに負担を強いて宣教活動費を充当したくなかったからです。いくら神のみ旨のためだからといって、海外に宣教を派遣することは、思いだけで何とかなるようなことではありません。宣教費用が必要でした。そして、その費用は、当然自分たちの手で稼いだお金でなければなりませんでした。堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。


 何かお金になることはないかと悩んでいたとき、切手が目に入ってきました。当時、私は信徒にひと月に少なくとも三回は互いに手紙を出すように勧めていました。手紙を出すには四十圜(ファン)の切手を貼る必要がありますが、一枚の切手を貼らずに、一圜(ファン)切手を四十枚集めて貼るようにしました。そうやってひと月に三回送った手紙に付いている切手を剥がして売ると、最初の年だけで百万圜(ファン)くらい儲けることができました。何でもない古切手が大きなお金になることを経験した信徒たちは、それを七年間も続けました。また、名勝地や俳優の白黒写真に色を塗ったプロマイド写真の販売も、少なからず教会運営の助けとなりました。


 しかし、教会が大きくなってくると、切手収集や写真販売だけでは十分な宣教費用を捻出することが難しくなりました。世界各地に宣教師を送ろうとすれば、もっと大きな規模の事業が必要です。私は、日本人が使い捨てていった旋盤機械を、一九六二年の貨幣改革前に七十二万圜(ファン)を投じて購入しました。貨幣改革後の価値では七万二千ウォンになります。それを教会として使っていた家屋の奥まった練炭倉庫に入れて、会社を起こし、「統一産業」と命名しました。


「皆さんの目には、この旋盤機械が価値のないものと見えるかもしれません。やっとのことで一台の古びた機械を入れて、一体何の事業を起こすのかと思うでしょう。しかし、皆さんの前に置かれたこの機械が、遠からず七千台、いや七万台の旋盤機械になって、大韓民国の軍事産業から自動車産業まで相次いで発展するのです。きょう入ったこの機械は、間違いなく我が国の自動車産業を引っ張っていく礎石になるでしょう。ですから、信じてください。必ずそうなるという確信を持ってください。」


私は練炭倉庫の前に信徒を集めて堂々と語りました。たとえみすぼらしい出発だとしても、目標は高く、遠大でした。彼らは私の意思に従い、献身的に仕事に取り組んでくれました。そのおかげで、一九六三年には、もう少し大きな規模の事業を始めることができました。その年は、「天勝号」という船を建造して、仁川(インチョン)市万石(マンソクトン)の埠頭(ふとう)のほとりで進水式を行っています。信徒ら二百人以上が列席した場で漁船を海に送り出しました。


水は私たちに命を与えてくれる特別なものです。私たちは皆、母親のおなかの中から誕生します。母親のお腹の中とはまさに水であり、私たち全員、水から出てきたのです。人間が水から命を得たように、水の中の試練を経てこそ陸地で完全に生き残ることができる、という願いを込めて、私たちは海に船を送り出しました。


私たちが建造した「天勝号」は、とても良い船でした。西海(ファンヘ)(黄海)を素早く縫うように進み、たくさんの魚を捕まえてくれました。しかし、そんな時でも、信徒たちの反応はぱっとしませんでした。陸の上でもやることが多いのに、あえて海にまで出て魚を捕る事業をするのはどうしてかというのです。私はすぐに海洋時代がやって来ると直感していました。海に浮かべた「天勝号」は小さな一歩だとしても、海洋時代を開くことになる貴重な一歩でした。私は、その時すでに、もっと広い海やもっと大型で高速の船を頭の中に思い描いていました。





(31)世界を感動させた素晴らしい踊りの力  P161


 私たちの教会は裕福な教会ではありません。満足に食べることもできない者たちが集まって始めた貧しい教会です。ですから、他の教会のようにまっすぐに聳(そび)え立つ教会堂もありませんでした。よその人が米のご飯を食べているとき、麦のご飯を食べながら一銭、二銭と節約して集めたお金を、私たちよりもっと貧しい人たちに施しました。伝道師は、セメント剥(む)き出しの冷たい部屋で、火も焚(た)かないまま毛布を敷いて暮らします。食事どきになると、ジャガイモをいくつか焼いて食べ、飢えをしのぐのが普通でした。どんなときでも、自分たちのためには一銭も使わないように努力しました。


 一九六三年のことです。そうやって集めたお金で、十七人の子供たちを選んで、「仙和(ソンファ)児童舞踊団」(後に「リトルエンジェルス」と呼ばれる)を創設しました。当時、韓国の文化的土壌は悲惨なものでした。私たちが見て楽しむものはもちろんのこと、人に見せられるうなものもありません。人々は韓国の踊りとはどんなものか、五千年続い韓国の文化とはどういうものかを全部忘れて、ただただその日一日を生きることにあくせくしていました。


 私の計画は、十七人の子供たちに韓国の踊りを教え、世界に送り出すことでした。韓国と言えば、戦争と貧困ばかりを思い浮かべる外国人に、大韓民国の美しい踊りを見せて、韓民族が優れた文化を持つ民族だと知らせようと考えたのです。私たちはいくら五千年の歴史を持つ文化民族だと主張したところで、彼らの前に見せるものがなければ、信じてくれるはずがありません。


 美しい韓服を着て軽やかに回っていく韓国の踊りは、足を出して飛び跳ねる踊りに慣れた西洋人の目に新鮮な衝撃として映るに違いない優れた文化遺産です。私たちの踊りには、韓民族の悲哀の歴史が余すことなく込められています。押さえつけられた頭を俯(うつむ)かせ、目につかないようにひっそりと動く踊りは、恨(ハン)の多い五千年の歳月を生きてきた私たちの民族だけが作り上げることができる仕種です。


 白い朝鮮足袋(たび)の足を一歩踏み出し、顔をさっと回して白い手を上げる姿を見ると、心がすっかり奪われます。力強い声でたくさん話して相手を感動させるのではありません。その見え隠れするような一つの踊りが人の心を動かします。それこそが芸術の力です。言葉を語らずとも言葉が通じ、彼らが生きてきた歴史を知らなくても、自然とその心が分かるようにする力が芸術にはあるのです。


 しかも、子供たちの汚れのない表情と明るい笑顔は、戦争を経た国の暗いイメージを一度に洗い流してしまいます。私は、二十世紀最高の文明国アメリカに行き、五千年の歴史を持つ韓国の踊りを初公開するつもりで舞踊団を創設しました。ところが、世の中は再び私たちに向かって非難の声を浴びせました。リトルエンジェルスの踊りがどのようなものなのか、見る前に非難したのです。


 「統一教会の女たちは昼夜なく踊り踊って、しまいには踊る娘らを生んだ」という呆(あき)れてものも言えないような悪口を浴びせました。しかし、私はどのような噂(うわさ)にも動じませんでした。リトルエンジェルスを通して、韓国の踊りはこういうものだと世人の目を開かせる自信がありました。私たちに向かって「裸踊りをしている」と悪罵(あくば)を投げつける人たちに、朝鮮足袋でひらりひらりと走り出す美しい踊りを見せてやりたいと思いました。体をねじるでたらめな踊りではなく、全身を韓服で包み、つつましく踊る本当の踊りのことです。



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