平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(26)~(28) 《 第三章  世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難 》 (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)

(26)~(28)
《 第三章  世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難 》      
    (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)


これまで掲載した《 「第三章」 》を(文字数の制限のため)二回に分けて掲載します。



 昨日は(22)~(25)
 本日は(26)~(28)を掲載します。



 この記事を皆さんのパソコンにコピー貼り付けしてご利用ください。



焦げた木の枝にも新芽は生える  P.140


 一九五五年七月四日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈(たけ)をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地(いくじ)なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨(みむね)に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫(くじ)けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。


 そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破(やぶ)いてしまいました。


 私はソウル地方検察庁に送致され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥ずかしいとか寂しいとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮(さえぎ)る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒(ふんぬ)の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折(ざせつ)させる罠(わな)とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。


 悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱(いんらん)の似非(えせ)教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯(おび)えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵(ののし)っても、私は決して動揺しませんでした。


 しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉(のど)が締めつけられ、骨身に沁(し)みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」と言って、歯を食いしばりました。「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ」と心に誓いました。

世間は、私が捕まって刑務所に行けば、教会は潰(つぶ)れて、信徒たちはすぐにばらばらになって去っていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている問、毎日、信徒たちの誰も彼もが私に面会に来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに、彼らは明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も、次第に多くなりました。


 私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱(しか)ることも多かったのです。それでも、彼らは涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判を受けに行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。

「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」

 刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。

「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんなふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明(ムンソンミョン)は独裁者で搾取(さくしゅ)する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。結局、収監されて三カ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三カ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めたので、噂(うわさ)とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。


 捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごとデタラメだったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」と言って、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。


 デマによって後ろ指をさされ、弄(もてあそ)ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。風雨に曝(さら)され、火に焼かれても、絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。




苦難よ、私たちを鍛えてほしい  P.144


 人々は私が伝える新しい真理に異端と言っては石を投げましたが、ユダヤ教の地で生まれたイエス様もまた、異端の罪を被(かぶ)せられて十字架に付けられました。それに比べれば、私の受けた迫害は痛いことでも悔しいことでもありませんでした。体に加えられる苦痛はいくらでも我慢できます。ただ、私たちの教会に対する異端審問、こればかりは悔しくてなりませんでした。草創期から私たちの教会を研究した神学者の中には、独創的で体系的な新しい神学であるとして、高く評価する人が多かったのです。にもかかわらず、私たちをめぐる異端論争がかくも騒がしく広がったのは、神学的な問題というよりは現実的な状況がそうさせたのでした。


 私たちの信徒の大部分は、それまで通っていた既成キリスト教会を去って私たちの教会に来た人たちです。まさにこの点が、既成キリスト教会から敵視された原因でした。梨花(イファ)女子大の梁允永(ヤンユニョン)講師が警察の取り調べを受けた際、警察は、金活蘭(キムファルラン)総長や多くのキリスト教牧師から統一教会を非難する投書が届いたと明かしています。要するに、私たちが何か誤ったわけではなかったのです。既得権層の漠然とした恐れと危機感、そして度を越した教派主義が引き起こした明らかな弾圧でした。


 新しい教えを伝える私たちの教会には、さまざまな宗派の人が集まっていました。私がいくら「またどうして来たのか?すぐにあなたの教会に戻りなさい!」と言って、半ば脅迫するように追い出しても、彼らはすぐにまた戻ってきました。


 私を求めて集まってくる彼らは、誰の言葉も聞きませんでした。学校の先生の言葉も聞かず、両親の言葉も聞きませんでした。ところが、私の言葉はよく聞きました。お金をあげるとかご飯を与えるわけでもないのに、私の言葉だけを信じて、私を捜し求めてきました。その理由は、私が彼らの行き詰まった心に道を開いてあげたからです。真理を知る前には、私もまた天を見てももどかしく、横の人を見てももどかしかったので、彼らの心は十分に理解できました。答えを得られずに苦しんでいた人生のすべての疑問が、神のみ言(ことば)を悟ることによってきれいさっぱりとなくなりました。私を求めてくる青年たちは、私が伝える話の中に、ふだん心に抱いていた問題への解答を初めて見いだしたので、私と共に行く道が険しくつらいと分かっていても、私たちの教会に来たのです。


 私は道を切り開く人です。崩壊した家庭を訪ね求め、氏族を訪ね、国を訪ね、世界を訪ねて、究極的にはそれらが神に立ち返っていく道を道案内する人です。私の元に来たのは、その事実を知って、私と一緒に神を求めていこうと決意した人ばかりです。それのどこがいけないというのか、およそ納得のいかない話です。神を求めただけなのに、世の中のありとあらゆる迫害と非難を受けなければなりませんでした。


 異端騒動に巻き込まれる困難を味わっていた頃、私をさらに困らせたのが当時の妻でした。彼女は釜山(プサン)で再会した後、実家の家族と一緒になって私を追いかけ回し、離婚をせがみました。教会を直ちにやめて家族三人で暮らすか、さもなければ離婚したいということでした。彼らは私が収監されていた西大門(ソデムン)刑務所までやって来て、離婚書類を押し込んで判を押せと脅迫しました。しかしながら、神の願う平和世界を築く上で結婚がいかに重要かをよく知る私は、彼らからどんな侮辱を受けてもじっと耐えました。


 彼女は私たちの教会と信徒にも言葉で言えないような乱行(らんぎょう)に及びました。むやみやたらと私の悪口を言うのはいくらでも我慢できましたが、教会と信徒にまで乱暴狼籍(ろうぜき)を働くのは耐えがたいことでした。彼女が来るたびに、教会を訪れる信徒たちに悪口を浴びせかけ、教会の器物を壊し、教会にある物を勝手に持ち去ったばかりか、人糞(じんぷん)を振りかけることまでしました。彼女が現れると礼拝をすることができないほどでした。最終的に、西大門(ソデムン)刑務所を出た後、彼らが準備した離婚状に判を押さざるを得ませんでした。私の信念を守る間もなく、私の背中を押して離婚させたのです。


 先妻のことを思うと、今も気の毒な気がします。彼女がそこまでするようになった背景には、キリスト教一家であった実家と既成教会の煽動(せんどう)がありました。結婚する前はしっかりした女性だったのに、がらりと変わってしまったことを考えると、世の中の偏見と固定観念の恐ろしさというものを再認識せざるを得ません。


 離婚の痛みと異端として後ろ指をさされる悲しみを味わいましたが、私は少しも屈しませんでした。茨(いばら)の道を踏み越えていくこと、それはアダムとエバが犯した罪を贖罪(しょくざい)し、神の国に向かって行く私が、きちんとやり遂げなければならないことでした。もともと日が昇る直前が最も暗いといいます。私は神様にすがりついてお祈りすることで暗闇(くらやみ)に打ち勝ちました。しばらくは目を閉じる時間を除いて、一日のすべての時間を祈禱に捧げました。




大切なのは真実の心  P.147


 三カ月ぶりに釈放されて出てきた私は、神から愛され、生命を与えられている喜びをいま一度噛(か)みしめました。私は神の愛と生命に負債を負った者だということです。その負債を返すために、一からやり直すことを決め、新しい教会の場所を探すことにしました。しかし、「神様、私たちの教会を建ててください」とは、私は祈りませんでした。小さくて何の値打ちもない建物だとしても、それまで不便だとか恥ずかしいとか思ったことはありません。祈る場所があればそれだけで感謝であり、広くて静かな場所までは望みませんでした。


 信徒たちが集まって礼拝を捧げる家はどうしても必要です。そこで、二百万圜(ファン) (圜は一九五三年から一九六二年にかけて使われた韓国の貨幣単位) の借金をして、青坡洞(チョンパドン) (現在のソウル特別市龍山区内)の丘にあった、すっかり荒れ果てた日本式の家屋を買いました。非常に小さな家で、真っ暗な洞穴のような一本道をかなり歩かないと辿り着かない路地裏にありました。その上、それまでに何があったのか、柱といわず壁といわず真っ黒に汚れていました。建物をきれいにしようと、教会の青年たちと一緒に、洗濯用の苛性(かせい)ソーダを溶いて三日かかって拭いたので、黒い汚れはほとんど落ちました。


 青坡洞(チョンパドン)の教会に移っていった後、私はほとんど眠りませんでした。奥の間に身をかがめて座り、明け方の三時か四時になるまでお祈りをして、服を着たまましばらく背中を丸めて寝ると、五時にはもう起きる生活を七年間続けました。毎日一、二時間しか寝なくても、うとうとすることもなく、明けの明星(みょうじょう)のように目を輝かせて、疲れを知りませんでした。


 やろうと思うことが心の中にいっぱいあって、食事の時間も削りました。いちいちお膳(ぜん)を準備しないで、部屋の床にご飯を置いて、しゃがんだままで食べました。「誠を投入せよ!眠けの中でも投入せよ!へとへとになるまで投入せよ!おなかが空いても投入せよ!」と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔(ま)く心情で祈りました。そして、その種は大きく育って必ず穫り入れられるだろうし、韓国で穫り入れが難しければ、間違いなく世界で穫り入れられるだろうと考えました。


 一年も経(た)つと信徒数は四百人を超えました。四百人の信徒の名前を一人一人呼び上げて祈っていると、名前を呼ぶ前から、彼らの顔が頭の中をしきりに行き交いました。彼らの顔が泣いたり笑ったりします。その人が今どんな状態にあるのか、病気なのか元気なのかを祈りの中で知るようになりました。


 一人一人の名前をずっと呼んでいるうちに、「きょうはこの人が教会に来る」と思えば、その人は連絡もなしに教会に来ました。苦しむ姿が浮かんだ人を訪ねて、「どこどこが痛くないか」と聞いてみると、「そうだ」と答えます。「先生は、私が苦しんでいるとどうしてお分かりになったのですか。本当に不思議です」と言って彼らが驚くたびに、私はにっこり笑いました。


 祝福式(結婚式)の時のことです。祝福式を前にした新郎新婦に、私は必ず純潔であるかと尋ねます。その日も新郎の候補者に尋ねました。「本当か?」と聞いてみると、彼が大きな声で「はい!」と答えました。そこで再び尋ねました。「本当か?」。彼はまた「はい!」と言いました。私が三回目に尋ねた時も同じ返事でした。私は彼を真っすぐに睨みつけて、恐ろしい声で問い詰めました。


「おまえ、江原道(カンウォンド)の華川(フ)チョン)で軍隊生活をしただろう?」

 新郎の候補者がすっかり怯えた声で「はい」と言いました。

「その時、休暇をもらってソウルに来る途中、旅館に入っただろう?その日、赤いチマを着た若い女と一線を越えたじゃないか。はっきりと分かっているのに、なぜ嘘(うそ)をつくのか」

 私は怒って彼を追い出しました。心の眼を開けていれば、何を隠していても全部分かるようになっています。


 神のみ言(ことば)よりも神通力に惹(ひ)かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません。人間の罪は、必ず贖罪(しょくざい)を通して復帰 (罪のない元の状態に戻ること) しなければならないのです。霊的な能力に期待しては絶対に駄目です。教会が定着してくると、私はそれ以上、心の眼で見たことを信徒に話さないようにしました。


 信徒の数は次第に増えましたが、数十人だろうと数百人だろうと、私は一人だと思って向き合いました。どんなお婆(ばあ)さんでも、どんな青年でも、その人一人だけを相手とするように、精いっぱいの真心を込めて話を聞きました。「韓国で私の話を一番よく聞いてくれる人は文(ムン)先生だ」という言葉を、信徒全員から聞きました。お婆さんたちは、自分がどんなふうに嫁に行くようになったかという話から、年上の夫のどこが悪いかということまで、何から何まで打ち明けてくれました。


 私は本当に人の話を聞くのが好きです。誰であろうと自分の話をし始めると、時の経つのも忘れて聞くようになります。十時間、二十時間と拒まずに聞きます。話そうとする人の心は緊迫していて、自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。そうであるならば、私たちは真心を込めて聞かなければなりません。それがその人の生命を愛する道であるし、私が負った生命の負債を返す道でもあります。生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。嘘偽(うそいつわ)りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、私の真実の心の内も真摯(しんし)に話してあげました。そして、涙を流してお祈りしました。


 涙を流して夜通し祈ったので、板の間が乾く日がありませんでした。板の間は私の血と汗と涙でいつも濡(ぬ)れていました。後日、アメリカに留(とど)まっている間に、青坡洞(チョンパドン)の教会を端正に造り直すという計画を聞いて、すぐに工事を中止せよと電報を打ったことがあります。青坡洞(チョンパドン)教会は私個人の歴史を刻んだ場所でもありますが、私たちの教会の歴史をそのまま証言する場所でもあります。いくら立派に造り直しても、歴史が消えてしまえば何の使い道があるでしょうか。重要なのは端正な姿形ではありません。その中に宿った意味です。不足であれば不足なりに、そこに伝統があり、光があり、価値があるのです。伝統を尊重することを知らない民族は滅びてしまいます。


 青坡洞(チョンパドン)教会の柱には、「いつ、どういうことのために、その柱をつかんで涙を流したのか」という歴史がそのまま刻まれています。つかんで涙を流した柱を見れば、込み上げてくるものがあるし、曲がった扉を見ても、当時の思いが蘇(よみがえ)ります。ところで、今はもう昔の板の間が全部なくなりました。夜通し俯(うつぶ)して祈り、血涙を流した板の間がなくなったので、その涙の跡もまたなくなってしまいました。私に必要なのはそのような痛みの追憶です。模様や外観は古くても、そんなことは関係ありません。歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青坡洞(チョンパドン)の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります。


 私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。


 今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。私は公の席に出る前には、必ず十時間以上お祈りをして真心を捧(ささ)げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。


 教会を始めた頃、私は作業着に使っていた黒い染みの付いた米軍兵士のジャンパーを着て、壇上に立って汗と涙にまみれて説教しました。痛哭(つうこく)しない日がありませんでした。涙が心の中に充満して外に流れ出しました。気が遠くなり、息が絶えてしまうような日々でした。衣服は汗にまみれ、頭からは汗の粒が流れ落ちてきました。


 青坡洞(チョンパドン)教会の頃は誰もが苦労しましたが、特に私が初代協会長として立てた劉孝元(ユヒョウォン)は実に多くの苦労をしました。片足が不自由で、しかも肺が痛くて体がきついのに、一日十八時間の原理講義を三年八カ月も続けました。食べる物も芳しくなく、一日に麦ご飯二杯で耐え忍び、おかずは生キムチを漬(つ)けて一晩寝かして食べるのがやっとでした。彼の好物といえばアミの塩辛です。部屋の一方の隅にアミの塩辛を置いておき、それを一つかみずつ取って食べて、困難な日々を辛抱しました。おなかが空(す)いて、疲れ果てて、板の間に元気なく横たわっていた劉孝元(ユヒョウォン)を見ると、本当に胸が痛かったのです。サザエの塩辛でも漬けてあげたい気持ちでした。滝のようにあふれ出す私の話を、痛む体でよく整理して書き留めた彼を思えば、今も心が痛みます。


 多くの信徒の犠牲を肥やしにして教会はどんどん育ちました。中高生で構成された成和学生会は、母親が包んでくれた弁当を持ってきて、伝道師たちを支えました。中高生が自分たちで順番を決めて、交代で弁当を捧げて、伝道師の食事を用意しました。中高生のご飯を食べなければならない伝道師たちは、その子らが決まった食事を欠かして、おなかが空くことを思いながら、ご飯を口に入れては涙を流すのでした。ご飯よりも誠が大切なので、誰もが「死んでも御旨(みむね)をなそう」という切迫した心情で頑張りました。


 このように、私たちの教会は、つらくても全国各地に伝道に行きました。陰険で腹黒い噂(うわさ)がたっぷりと出回っていて、どこへ行っても統一教会という言葉すら思うように口に出せずに、悲しい思いを味わいます。近所の掃除をしたり、人手のない家で家政婦をしたり、夜は夜学を開いて文字や言葉を教えたりして、心が通じるようになるまで何カ月もそうやって奉仕しながら、私たちの教会は次第に大きくなっていきました。その頃、大学に行きたくても、私と一緒に伝道するために、大学進学を放棄して教会に献身した草創期の学生たちを、今も忘れることができません。



×

非ログインユーザーとして返信する