平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(22)~(25)《 第三章  世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)

(22)~(25)
《 第三章  世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難 》      
    (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)


これまで掲載した《 「第三章」 》を(文字数の制限のため)二回に分けて掲載します。



 本日は(22)~(25)
 あすは(26)~(28)を掲載します。



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「あなたは私の人生の師です」  P.122


 臨津江(イムジンガン)を渡ってソウル、原州(ウォンジュ)、慶州(キョンジュ)を経て釜山に到着した日が一九五一年一月二十七日でした。釜山(プサン)の地は避難民でごった返していました。朝鮮八道 (全土) の人が全部集まったかと思えるほどで、人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、お尻(しり)一つ入り込める隙間も残っていませんでした。仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました。


 監獄で剃(そ)った頭はむくんでいました。内側を布団綿で継ぎ当てしたパジチョゴリ(男性用の韓服)はぼろぼろになり、染み付いた脂(あぶら)(あか)のせいで、雨に濡(ぬ)れると服の上を雨粒がころころと転がりました。靴も上の部分はくっついているだけ、下底はほとんど残っておらず、裸足で歩くのと同じでした。どこから見てもどん底の中のどん底、乞食(こじき)の中の乞食です。働き口も所持金もなく、食べ物を得るには物乞いするしかないという惨な有様(ありさま)でした。


 しかし、乞食をして回るときも、私はいつも堂々としていました。目ざといので、ぱっと見てご飯をくれそうにないと思うと、「われわれのように困った人を助けてこそ後で福を受けるのだ!」と言って、むしろ強気の態度でご飯をもらいました。そうやって手に入れたご飯を、日当たりの良い所に座って、数十人でぐるりと囲んで食べました。無一物で乞食の境遇にありながらも、お互い不思議と気持ちが通じ合うところがありました。


「おお、これは一体何年ぶりか?」

 誰かが弾んだ声で呼ぶので振り返ってみると、日本留学時代に私の歌声に魅了されて友人となった厳徳紋(オムドンムン)でした。今は、世宗(セジョン)文化会館やロッテホテルなどを設計して、わが国有数の建築家になった人です。彼はみすぼらしい姿の私をぱっと抱きかかえると、有無を言わせず自分の家に連れていきました。

「行こう。さあ、わが家に行こう」

 結婚していた彼は、一間の部屋に住んでいました。狭い部屋の真ん中に布団包みを吊(つる)して部屋を二つに分けると、彼は妻と幼い二人の子供を向こう側に行かせ、「さあ、あれからどうやって生きてきたのか話してくれ。どこでどうしているのかずっと気がかりだった。前は普通の親しい友人のようにしていたが、いつも君のことを友人以上の存在と思ってきた。心の中で一目(いちもく)も二目も置いていたことは知っていただろう?」と言うのでした。


 私はその時まで、友人に自分の正直な心の内を明かしたことはありません。留学していた時、『聖書』を読んでいても友人が来ればすぐに片付けてしまうほど、自分の内面を見せませんでした。厳徳紋(オムドンムン)の家で初めて洗いざらい話したのです。

話は一夜で終わりませんでした。神と出会って新しく悟ったこと、三八度線を越えて平壌(ピョンヤン)に行き布教活動を始めたこと、興南(フンナム)監獄を生き延びたこと。全部話すのに三日三晩かかりました。話をすっかり聞き終えると、厳徳紋はその場ですっくと立ち上がって、私に丁寧なお辞儀をしました。

「おい、それはどういうことだ?」

 その手をつかんで引っ張りましたが、彼は頑として動きませんでした。

「これからは、あなたが私の人生の師です。このお辞儀は私が師に捧(ささ)げる挨拶(あいさつ)だから受け取ってください」

 それから後、厳徳紋(オムドンムン)は私の生涯の友であり、同時に弟子として、私をそばから見守ってくれました。


 厳徳紋の一間の部屋を出てから、釜山の第四埠頭(ふとう)で夜間の重労働に就きました。仕事が済んで労賃を受け取ると、草梁(チョリャン)駅で小豆粥(あずきがゆ)を買って食べました。熱い小豆粥は、冷めないように、器はどれもこれもぼろ布でしっかりと包んであります。私は小豆粥を一つ買って食べながら、その器を一時間も抱きかかえていました。そうすると、埠頭で夜通し働いてかちかちに凍りついた体がとろりと解けたのです。


 その頃、草梁(チョリャン)の労務者用の宿所に入ることができました。部屋が呆(あき)れるほど小さくて、対角線で横になっても壁に足が当たります。その後、知り合いの家に泊めてもらい、その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして『原理原本』の草稿を書きました。極貧(ごくひん)の生活だろうと何の問題もありませんでした。たとえゴミの山の中で暮らしたとしても、意思さえあればできないことはないのです。


 二十歳を過ぎた金元弼(キムウォンピル)も、仕事は何でもやりました。食堂の従業員として働いた時は、お焦げの残飯を持ち帰って一緒に煮て食べたりしました。また、画才を生かして、米軍基地に就職して絵を描く仕事もしました。


 そうした中、凡一洞(ボミルドン)のボムネッコルに上がって小屋を建てました。ボムネッコルは共同墓地の近所なので、岩と谷間以外に何もない所です。谷間の上にも何もありません。斜めの崖(がけ)で、そもそも自分の土地だと言えるような場所さえないので、まず斜面を水平に削って、その場所を固めて小屋の敷地を造りました。金元弼(キムウォンピル)と共に石を割り、土を掘って、砂利にして運びました。土と藁(わら)を混ぜて作った壁石で壁を積み、米軍部隊からもらったレーション箱(兵士の野戦食であるレーションを詰めた箱)の底を抜いて平らにして、屋根に被(かぶ)せて出来上がりです。部屋の床には黒のビニールを敷きました。


 バラックでも、これほどのバラックはありませんでした。岩場に建てた家なので、部屋の真ん中に岩がぷくっと突き出ていました。その岩の後ろ側に置いた座り机と金元弼の画架(がか)が調度品のすべてでした。雨が降れば部屋の中で泉が噴き出します。座った場所のすぐそばで、水がちょろちょろと音を立てて流れていく、とてもロマンチックな部屋でした。雨漏りがし、水が流れる冷え冷えとした部屋で寝ると、起きたときに鼻水がたくさん出ます。そうであっても、わずか一坪でもそうやって安心して横になれる場所があるという事実が、限りなく幸せに思えました。神の御旨(みむね)に向かって行く道でしたから、劣悪な環境の中でも胸には希望があふれていました。


 金元弼(キムウォンピル)が米軍基地に出勤するとき、私は山の下まで付いていき、夕方仕事を終えて戻ってくるときは迎えに出ます。それ以外の時間は眠らずに鉛筆を削り、机に座って『原理原本』を書きました。米の甕(かめ)に米はなくても、部屋に鉛筆はいっぱいありました。金元弼は、私が執筆に専念できるように、横にいて物心両面から私を助けてくれました。一日中働いてきて疲れているはずなのに、「先生、先生!」と言っては私に付いて回ります。もともと寝不足な私が便所でよく眠ることを知ってからは、便所まで付いてくるほどでした。それだけではありません。


「先生が本をお書きになるのを、少しでもお手伝いさせてください」と言って、私の鉛筆代を稼ぐために、新しい仕事まで始めたのです。それが米軍兵士の注文に応じて肖像画を描く仕事でした。当時、米軍兵士の間では、故国に帰る前に妻や愛人の肖像画を描いておくことが流行していました。図画用紙ぐらいの大きさの画布に糊(のり)を塗って、木の枠に付けて絵を描きます。売値は一枚四ドルでした。


 金元弼(キムウォンピル)のそのような真心がありがたくて、彼が絵を描くときは、私も横にいて黙々と助けました。彼が米軍基地に仕事に出かけると、画布にぱりっと糊(のり)を含ませ、木を切って枠を作ります。退勤してくるまでに、筆をすべて洗い、必要な絵の具を買っておきました。そうしてお枚か二枚だけだったのが、いつの間にか有名になって、寝る間も惜しんで二十枚、三十枚と描きました。


 仕事が増えるにつれて、それまで手伝いだけしていた私も、直接絵筆を執って彼を助けるようになりました。元弼(ウォンピル)が顔の輪郭を大まかに描いて、私が唇や服の色を塗るというように、共同して仕上げるのです。


 一緒に儲(もう)けたお金は、鉛筆と絵の道具を買うことを除いては、すべて教会のために使いました。神のみ言(ことば)を文章にまとめることも重要ですが、もっと多くの人に神の御旨を知らせることが急がれていました。




井戸の近くに住む「気のふれた美男子」  P.127


 ポムネッコルに土壁の家を建てて教会を始めた当初、私の話を聞いてくれる人はたったの三人だけでした。それでも、三人に話をするとは考えず、たとえ目に見えなくても数千、数万、いや人類全体が私の前にいると考えて話をしました。全世界に向けて爆発するような大音声で、昼夜を分かたず私が悟った原理のみ言を伝えました。


 家の前に井戸が一つありました。その水を汲(く)みに来る人たちの間に、土壁の家に気がふれたおかしな男が住んでいるという噂(うわさ)が生じました。格好はみすぼらしいし、人気のない場所の幽霊が出そうな家から天下に号令するような叫び声が聞こえてきたので、人々はひそひそとそんな話をしたのです。天地がひっくり返って韓国が全世界を一度に統一するという気宇壮大な話をしたので、山を下りた周辺一帯に噂が広まったようでした。噂のせいか、井戸の近くに住む気のふれた男を見ようと、わざわざ訪ねてくる人も現れました。何々神学校に通う学生が一度に来たこともあったし、梨花(イファ)女子大の教授たちが訪ねてきたこともありました。恰幅(かっぷく)のいい健康そうな美男子という噂が付け加わって、「気のふれた美男子」を一目見ようと、遊びがてら山道を歩いて上がってくるおばさんたちもいました。


 『原理原本』を脱稿した日、私は鉛筆を置いて、「これからは伝道する時なので、伝道できる聖徒を送ってください」と祈りを捧(ささ)げた後、井戸端に出ました。五月十日のことです。春が深まり、綿を入れた韓服のズボンに古びたジャンパーを着ていたので、汗が出ました。その時、一人の若い女性が、額に浮かんだ汗をふきふき井戸の方に上がってくる姿が見えました。


「神様は七年前から伝道師を多く愛されました」

と話しかけたところ、彼女は目を丸くして驚きました。七年前とは、彼女が神様の仕事に一生を捧げようと決心したまさにその時だったからです。


「私は下の村の凡川(ポンチョン)教会の伝道師、姜賢實(カンヒョンシル)です。井戸の近くにおかしな青年が生活しているというので伝道しに来ました」

 と彼女が私に挨拶(あいさつ)しました。挨拶を終えた後、家に入った彼女は、むさ苦しい部屋の中をうさん臭そうにじろじろ見回すと、座り机の上を目を凝らして見つめ、尋ねました。

「どうして先の磨(す)り減った鉛筆があんなに多いのですか」

「今朝までかかって宇宙の原理を明らかにする本を書きました。そのみ言を聞かせるために神様が伝道師をここまで送られたのでしょう」

「どういうことですか。私は、伝道すべき人がいるので、井戸の辺りに上がってみなさいというみ言を受けて、来たのです」

 私は座布団を出して彼女に座るように勧め、私も座りました。私たちが座ったすぐそばで、泉の水がちょろちょろ流れていました。

「韓国の地は今後、全世界で山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国人に生まれることができなかったことを悔しく思う時が来るでしょう」

 私の言葉に、彼女は呆気(あっけ)にとられた表情で私を眺めました。

「今後、イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして現れたように、肉身を持って韓国の地に来られます」

という私の言葉を聞くと、とうとう彼女は激しく怒り出しました。

「イエス様は行き場所がなくて、仕方なくこの悲惨な韓国に来られるということですか」

と言って、私に食ってかかったのです。

「黙示録(もくしろく)をきちんと読んで仰っている言葉ですか。私は……」

「高麗神学校で勉強した人間だということでしょう?」

「いや、どうしてお分かりになったのですか?」

「私がそんなことも知らずに伝道師を待ちますか。私を伝道するために来たと仰るのですから、きょうは一つ、私を教えてみてください」


 姜賢實(カンヒョンシル)は神学を勉強した人らしく、聖句をすらすらと語って私を攻撃しました。抜け目なくきっちり挑んでくるので、私も機関車のような声で一つ一つ忙しく対応しました。討論が長くなって外が暗くなると、私が夕飯を準備しました。おかずといっても萎(しな)びたキムチだけでしたが、水の音がちょろちょろする部屋に座ってご飯をしっかりと食べ、終わるとまた討論を始めました。その後、何度も継続して訪ねてきては私と討論を繰り広げ、姜賢實(カンヒョン(シル)はついに凡川(ポンチョン)教会を去って、私たちの教会の信徒になりました。


 晩秋のある日、妻がボムネッコルの小屋に私を訪ねてきました。彼女は六歳の男の子の手を握っていました。米を買いに家を出て、平壌(ピョンヤン)に上がっていったその年に生まれた息子です。いつの間にかすっかり大きくなっていました。私はとても息子の顔を正視できませんでした。うれしいと顔をさすって抱くこともできませんでした。何も話せないまま、私は微動だにせず立ち尽くしていました。


 妻があえて語らなくとも、戦争のさなかに彼ら母子が通過してきた苦労が目に浮かびました。事実、私はこの母とこの子がどこでどのように生きているかをすでに知っていました。しかし、まだ家族の面倒を見る時ではありませんでした。結婚する前に何度も固い誓いを確認したように、もう少しだけ私を信じて待ってくれれば喜んで彼らを捜し出すことができましたが、まだ時ではありませんでした。土壁の小屋は狭くおんぼろであっても、すでに私たちの教会でした。いろいろな信徒たちが私と一緒に食べ、生活し、み言を勉強していた場所なので、そこに妻子を住まわせることはできませんでした。小屋を見て回った妻は、寂しい心を抱えて山の斜面を下りて行ってしまいました。



教派ではない教会、教会でもない教会  P.131


 悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけ生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でおなかを満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌(ピョンヤン)に行って教会を始めた時に反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山(プサン)でもまた私に反対しました。


 教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非(えせ)」は私の名前の前に付ける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明(ムンソンミョン)」は異端、似非と同じ意味でした。異端、似非という接頭語のないそのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。


 激しい迫害に抗しきれず、一九五三年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇(チャンチュンダン)公園に近い北鶴洞(プカクトン)のバラックを借りて、「世界基督(キリスト)教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。

「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。


 とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗(むね)となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。


 仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。


 しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄えが良いのですが、家の軒が低くて、看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ちつけました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。


 玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、八尺 (約二・四ニメートル) 四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは、看板を見て嘲笑(ちょうしょう)したものです。身をすくめて入っていく家の中で、一体どこの「世界」を語り、「統]」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山(プサン)では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧(ささ)げる部屋がある今は、何を恐れることもありませんでした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、心は誰よりも堂々としていました。


 教会に来る信徒たちは、お互いを「食口(シック)」と呼び合います。当時の食口は、誰もが愛に酔っていました。教会のことを考えて、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。神と通じることのできる内的な愛の電線で、完全に一つになったのです。ご飯を炊く準備だけして火を付けずに教会に走ってきたり、新しいチマ(スカート)に着替えると家族に言っておきながら穴の開いたチマのままで走ってきたり、教会に行かせないように丸刈りにされてもその頭のままで教会に走ってきたりしました。


 食口(シック)が増えてきたので大学街で伝道を始めました。一九五〇年代には、大学生と言えば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花(イファ)女子大学校と延世(ヨンセ)大学校(当時は前身の延禧大学校)の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。


 梨花(イファ)女子大学の音楽科の梁允永(ヤンユニョン)講師と舎監の韓忠嘩(ハンチュンファ)助教授も私たちの教会を訪ねてきました。先生だけでなく大学生も多く来ました。ところが、その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざるを得ませんでした。


 大学街の伝道を始めてニカ月で、梨花(イファ)女子大学と延世(ヨンセ)大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花(イファ)女子大学の学生が一日に数十人ずつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると、「どうして?どうして出られなくするのですか。そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足のにおいのする私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。


 心配した梨花(イファ)女子大学の金活蘭(キムファルラン)総長は、社会事業学科の金永雲(キムヨンウン)副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鑽(けんさん)を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望(しょくぼう)された女性神学者でした。統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教会を受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。


 事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵(かぎ)をかければ塀を乗り越えて入ってくるのです。全く自分の力ではどうすることもできませんでした。


 こうなると、困惑したのは延世大学と梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることだけはできなかったのです。





延世(ヨンセ)大と梨花(イファ)女子大の退学・免職事件  P.136


 危機感に襲われた延世大学と梨花女子大学は、学校の歴史上、前代未聞の破天荒な選択をしました。梨花女子大学は金永雲(キムヨンウン)副教授をはじめ教授ら五人を免職処分にし、学生十四人を退学させたのです。その中には卒業を控えた学生も六人いました。延世大学でも教授一人が免職となり、二人の学生が退学させられました。


 当時、延世大学の校牧(学校の牧師)は「学校に影響が及ばないように、卒業してからその教会に通ってもいいのではないか」と学生を懐柔しましたが、彼らは聞きませんでした。むしろ学生たちは、「学校には無神論者も多く、巫女(みこ) (ムーダン)の子供まで通っているのに、なぜ私たちが退学させられるのですか」と強く抗議したのです。当然の抗議でしたが、学校側は「私たちの学校は私立であり、キリスト教の学校なので、いくらでも任意に退学させられる」と繰り返すばかりで、頑として彼らを追い出しました。


 この事実が世間に漏(も)れると、新聞 (東亜日報、韓国日報) に「宗教の自由がある国で退学処分は問題がある」という趣旨の社説が載り、世の中が騒然としました。


 アメリカとカナダの宣教部の援助を受けていた梨花女子大学は、異端であると噂(うわさ)の立った教会に行く学生が多くなれば、財政上の支援を受けるのに問題が生じるとして、危惧(きぐ)の念を覚えたようです。当時、梨花女子大学はキリスト教の布教に熱心で、週に三回あるチャペルの時間ごとに学生の出席率を確認して宣教本部に提出するほどでした。


 学生を退学させ、教授らを追放すると、私たちに同情する世論も次第に大きくなっていきました。ところが、それを覆(くつがえ)すために、口にするのも忍びないデマを流し始めました。もともとデマであればあるほど人々を惑わして引き付けるようになります。デマはまた異なったデマを生みながら、延世(ヨンセ)大と梨花(イファ)女子大の事件はとんでもない怪談咄(ばなし)となって、一年以上にわたって私たちの教会を苦しめました。


 私は事件の拡大を望みませんでした。無理に問題を起こしたくなかったのです。そのまま静かに信仰生活をすればいいのだから、あからさまに寄宿舎を飛び出してまで世の中を騒がせる必要はない、と学生を説得しました。しかし、「なぜ駄目だと言われるのですか。私も恵みを受けたいです」と言って、逆に私を説得する者までいたのです。結局は十数名もの学生が学校から追い出されたのですから、私の心も穏やかであるはずがありませんでした。

 

 退学させられた学生たちは、傷ついた心を癒(いや)そうと、集団になって三角山(サムガクサン)の祈禱所に登って行きました。学校から追い出され、家でも睨(にら)まれ、友達も離れていき、当然行く所がありませんでした。彼らは三角山に登って断食し、涙や鼻水を流してひたすら祈りに没頭しました。すると、あちこちから異言が起こってきました。もともと神様は、私たちが絶望の果てに立った時に姿を現します。学校を追放され、家族と社会から捨てられた学生たちは、三角山の祈禱所で神様と出会うようになりました。


 私は三角山(サムガクサン)に行って、断食祈禱で気力の尽きた学生たちに食べ物を分け与えて、その苦労をねぎらいました。

「退学処分になったことも悔しくてたまらないのに、断食まですることはない。良心の呵責を覚えることをしたのでなければ、どんな悪口を言われようと不名誉ではなく、犯罪者になることでもないので、絶望しないで時を待ちなさい」


 卒業間近だった学生六人は、後に淑明(スクミョン)女子大学に編入してかろうじて卒業しましたが、この事件のために、私の評判は悪化の一途を辿(たど)りました。延世(ヨンセ)大・梨花(イファ)女子大事件が紙面を賑(にぎ)わしたことで、その時までに誕生していた新興宗教のありとあらゆる悪い噂が全部私たちの仕業になってしまいました。「そうかもしれない」で始まったデマは、そのまま「そのとおりだ」となって、私たちに襲いかかってきました。


 激しく叩かれて、私たちの教会は大きな痛手を被りました。無念で、腹も立ち、声を上げて抵抗したかったのですが、私は何の声も出さなかったし、彼らと争いもしませんでした。なぜなら、私たちの行く道はあまりにも険しく、目的の場所ははるか遠い先にあって、争っている時間はなかったのです。世間の誤解は時が経てば自然と解けるので、それほど気を遣うこともないと考えました。「文鮮明(ムンソンミョン)は雷に打たれるべきだ」と公然とわめき散らす者たちや、私の死のために祈ろうというキリスト教牧師らの横暴も、見て見ぬふりをしました。


 ところが、噂は静かになるどころか、日が経つにつれてますます増殖し、異常なほどの広がりを見せました。誰彼となく立ち上がって私を指さしました。興南(フンナム)肥料工場のむんむんした暑さの中でも一度も向(む)こう脛(ずね)を出したことのない私でしたが、その私がよりによって裸になって踊りを踊るという噂まで出回ったのです。それからというもの、私たちの教会に入ってくる人たちは、「あの人は本当に裸になって踊りを踊るのだろうか」という疑いの眼差(まなざ)しで私を見つめました。この種の誤解を解消しようとすれば時間が必要です。そのことをよくよく承知している私は、一言の弁明もしませんでした。人を知ろうとしたら、その人と付き合ってみなければ本当のことは分かりません。私をろくに見もしないで、ああだこうだと口から出まかせを言って何のためらいも感じないような連中は、どうしようもない人たちであると思って、我慢しました。


 延世(ヨンセ)大・梨花(イファ)女子大事件によって、私たちの教会は完全に崩れ去る一歩手前まで追い込まれました。「似非(えせ)宗教集団」というラベルが私の額にぴたっと貼(は)られてしまったばかりか、既成キリスト教会が一つになって立ち上がり、私を処断せよとわめき立てました。


 こうして、一九五五年七月四日、警察が私たちの教会に踏み込んできて、私を逮捕し、後日、弟子の金元弼(キムウォンピル)と劉孝永(ユヒョヨン)、劉孝敏(ユヒョミン)、劉孝元(ユヒョウォン)を捕らえていきました。キリスト教会の牧師と長老たちが、権力層と手を結んで私たちの教会を潰(つぶ)そうとしたのでした。投獄された四人は私の同志であり弟子でもあった者たちでした。さらに、警察は私の過去を隈無(くまな)く洗って、兵役(へいえき)忌避(きひ)という罪状を見つけてきました。北朝鮮では獄舎につながれ、南に下ってきた時はすでに入隊年齢を過ぎていた私に、「兵役法違反」の容疑を着せたのです。



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