観念論者 サンク教会を毒するクルト氏(聖霊とともに―メシヤの涙)へ 復帰は観念ではない・・・事実蕩減 ☞ 堕落の再現=アブラハムによるイエスの典型路程
何故、文先生は涙の祈祷をたくさんされたのでしょうか。
もし、クルト氏が知恵ある者なら・・悟るべしです。
本記事は、決して文先生の価値を蔑ろにするものではありません。反対です。文先生が聖和されるまで、お母様と子女様たち、全祝福家庭の不信を解明することにより、聖和後の摂理を解明することのです。
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下記の【A】と【B】から、文先生に祈祷が必要となった理由は何であったのでしょうか。
その答えは簡単です。それは文先生が堕落した立場に立たれた為です。
文先生は真のアダムの立場であったのです。しかし、第一夫人とお母様を「アブラハムによるイエスの典型路程」においてサタンに差し出され、その第一夫人とお母様が天使長的人物とただならぬ関係に陥って堕落したことが天聖経から容易に分かります。
そして、文先生の堕落とは、サタンを主人としてサタンに仕え、堕落したお母様と家庭を持たれたことが文先生の堕落となったのです。
あくまでも、「アブラハムによるイエスの典型路程」によって文先生がサタンに渡したお母様を奪い戻さなければなりません。つまり、この典型路程は文先生とお母様が神様に帰る為に必要な、事実蕩減としての堕落であったということです。従って、文先生とお母様の堕落の動機は最初のアダムとエバの堕落の動機とは全く違っていることを知らなければなりません。
そして、お母様と子女様たち、さらに全祝福家庭の不信問題は、この蕩減から派生した問題であったのであり、常に不信を受けた文先生は、イエス様と同じように、メシヤの資格を持たれながらも最後までメシヤの位置に上がることができませんでした。
その為、文先生は直接主管圏に連結されない立場に立たれ、堕落した立場の原罪が残ってしまったことが天聖経から容易に理解できるのです。
そして、あくまでも、三代後の未来である、「真の父母」とは未来線上においての出発点としたことになってしまったのです。
下記の【A】の原理講論には・・・
「創造目的を完成した人間は、原罪がないので、再び贖罪する必要がなく・・・堕落人間に要求される悔い改めの祈祷や、信仰の生活も、また必要ではないのである。」
と記されています。
また、【B】の天聖経でも「天の息子は・・・祈祷が必要ありません。」と語られています。
ところが、【C】の天聖経では・・・
「(文先生は)困難なとき、いつも祈祷した」
と語られています。
さらに、文先生はイエス様と同じように、お母様や子女様たち、弟子たちの不信を受けた為に聖和されましたが、その四ヶ月前に最後の祈りを捧げられました。
【A】
原理講論
第四章 メシヤの降臨とその再臨の目的 第一節 (一)
また、この人間(創造目的を完成した人間)は、原罪がないので、再び贖罪する必要がなく、したがって、救い主が不必要であり、堕落人間に要求される悔い改めの祈祷や、信仰の生活も、また必要ではないのである。
【B】
天聖経
① 真の神様 第二章 五 4.
その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。
【C】
天聖経
① 真の神様 第四章 五 1.
私(文先生は)は恵みを与えてくださいと祈祷したことはありません。「私一人が祭物となって神様を解放しよう」と祈祷したのです。
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(第四章 六 1.)
(文先生は)困難なとき、いつも祈祷したその姿を忘れることができません。