平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

頭隠して尻隠さず・・・・「赤・天聖経」は ☞ お母様を裸の女王にしてしまった

ーーーーーーーーー
原理講論の基礎を知って『天聖経』を読めば、驚くべきことが見えてきます。
ーーーーーーーーー

  


 「赤・天聖経」は2019年10月2日に出版され、「黒・天聖経」は2004年4月18日に出版されました。


 ここから分かることは、「赤・天聖経」は「黒・天聖経」よりもお母様と幹部、私たちの責任分担の失敗が決定的となった時代圏の御言葉が多く収録されているということです。
 これに対して、「黒・天聖経」は1992以降の時代圏の、お母様と幹部、私たちの責任分担の失敗が決定的になる前後の御言葉が多く収録されているということです。


 この為、「黒・天聖経」よりも「赤・天聖経」の方が、文先生とお母様、そして幹部たちと私たちの摂理的位置が確定された時代圏の御言葉になっていますので、読み手としては、「黒・天聖経」よりも「赤・天聖経」の方が理解しやすいと言えるのです。


 ーーーーー
 ここで、重要な問題が浮かび上がってきます。
 ーーーーー


 「赤・天聖経」から見た場合、お母様の独生女宣言はこれに反することになっています。にもかかわらず、どうしてお母様が肝いりで出版されたのかです。


 その理由はただ一つ、お母様は統一原理がまったく分かっていなかったからです。 ) つまり、「赤・天聖経」はお母様を「頭隠して尻隠さず」という裸の女王にしてしまったのです。勿論、洗礼ヨハネの使命を持たれたお母様とトップの幹部がその責任を全うできなかった為、文先生は堕落したアダムのままになっていることを、ご自身の問題として、お母さま以上に告白しておられます。
 原理基準をもって天聖経を読めば、お父様が真のアダムの基準をもたれているにもかかわらず、お父様とお母様が堕落した立場にあられることを鮮明に語られています。
 編纂した幹部は統一原理が分かっていたはずですから気づいていたはずです。


 どちらの天聖経であったとしても、お母様と幹部、私たちの不信が不動のものになった為に出版されたということです。その為、天聖経は「天地の聖書として指標と標準を定めた」と語られているのです。



 ーーーーーー
 以下は、昨日の記事「赤・天聖経でも、文先生とお母様が真の父母になっていない!!」の続きです。
 ーーーーーー


 さらに重要な御言葉を取りあげました。天聖経は、このような御言葉であふれています。



(6)(真の父母が実在していないので)真の父母が来なければならない

⑥ 赤・天聖経 第二篇 真の父母 第一章 第一節 


2 復帰摂理において神様のみ旨が成就されるためには、父母が来なければなりません。


堕落した父母ではなく、真の父母が来なければならないのです。


(コメント

この種の御言葉は沢山存在しています。既に80歳を過ぎられた文先生が過去形で「真の父母が来られた」ではなく、未来形で「真の父母が来なければならない」と語られているのです。

分かりますね。

まさに、1992年から2000年以降、『天聖経』は新たなパラダイムが起こった時代圏で語られていたのです。)



(7)統一原理は文先生とお母様が堕落した後につくられた
   (文脈をしっかり捉えてお読みください。)

⑦ 天聖経 第三篇 第三章 第二節 


40 「統一原理」(創造原理・堕落論・・・復帰原理)は、アダムとエバが堕落したあとにつくられたのでしょうか、堕落の前につくられたのでしょうか。

堕落の前にも原理(創造原理)はありました。


(コメント


ここでのアダムとエバとは、文先生とお母様になります。『「統一原理」は1966年5月1日、文先生とお母様が堕落したあとにつくられた』ということです。


このアダムとエバを六千年前の人間として読み過ごしていると、ここの「統一原理」と「原理」という捉え方に狂いが生じることを知らなければなりません。


分かりますね。


原理基準と時間軸の焦点を合わせて読まないと意味不明の御言葉になります。


あえて捕捉しますが、アダムと言える人は三人います。一人は六千年前の堕落前のアダム本人であり、二人目が第二アダムのイエス様であり、三人目が第三アダムの文先生です。


そして原理講論からすると、このアダムが人類始祖となります。そして、文先生が単に「アダム」と言われた場合、人類始祖となる文先生になります。


ところが、1960年代から1980年代の文先生が堕落した立場に立たれていたという捉え方のなかった私たちは、1992年から2000年以降、パラダイムの大転換後起こっていたことを知らない為に、思想的、信仰的な大混乱に巻き込まれたのです。


何故そうなってしまったのでしょうか??


その理由は、1960年代から1980年代のお母様と幹部と私たちの不信した責任分担時代が終わってしまい、文先生が堕落圏に取り残されてしまった為です。その真っただ中で起こったことが、イエス様の立場と文先生の身代わりになられたという、1984年に起こった興進様の昇華だったのです。

これと同じことが洗礼ヨハネの失敗によるイエス様の十字架の死にも起こっていたことが原理講論に記されています。


分かりますね。



その(堕落前の)原理の道(創造原理による再創造の道)は、(今後、)アダムとエバ(文先生とお母様)が行かなければならない道です。



(コメント  

復帰の道は「統一原理」によって長成期完成級までの復帰ですが、それ以降の完成期は堕落前の創造原理による再創造の道になるということです。


この為、上記の『「統一原理」は文先生とお母様が堕落したあとにつくられた』ということです。


これを理解して以下をお読みください)



・・・・


再創造は、アダムとエバが堕落する前の原理原則(創造原理)を適用して、その原理原則に一致できる完成的内容を経て、存在の価値を決定しなければなりません。

そうしなければ帰っていくことができません。神様と関係を結ぶことができないのです。


(コメント

文先生が堕落した立場に取り残されてしまった為、再創造の道が出発できなくなってしまったということです。

つまり、再臨主顕現の時が延長されたということです。

その延長が同時性の総観図になります。


×

非ログインユーザーとして返信する