平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

リーダーこそ、灰を頭からかぶって悔い改めの先頭に立つ時!!

 下記の「原理講論」の御言葉は、文先生ご自身のことでもあります。


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全てを失った文先生
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 文先生はエバ(第一夫人、第二夫人、第三夫人)の失敗と、キリスト教の不信、統一教会の不信を受けたことにより、1967年以降、六千年の復帰歴史を全て反復して蕩減しなければならない立場に立たれました。


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「統一原理」は文先生の路程を完璧に預言していた
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 この事がはっきり語れたのが赤・天聖経、5/11の記事の御言葉《C》になります。


 つまり、1966年に出版された統一原理は、7年路程が終わった1967年以降、文先生が歩まなければならなくなった全路程が記されていたということです。


 はたして、本当にそうなのでしょうか?後付けなら何とでも言えます。


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しかし、この後付けは少し意味が違います。
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 何故なら、統一原理の蕩減原則が遵守できるのは堕落した凡人が万人、億人、兆人群がったとしても不可能だからです。あくまでも、遵守することができるのはメシヤしかおられないからです。


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文先生は偽メシヤか? 本当のメシヤか??
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 もし、文先生の路程(御言葉)が統一原理に完全に一致しているとなったなら、文先生はメシヤであるはずです。しかし、反対に一致していないとする誤謬が立証されるなら、御言葉も統一原理も全てが私たちに対する錯誤になります。


 まずは、下記の「原理講論」の御言葉を軸として、文先生が立たれていた原理的位置を知り、御言葉全体を時系列にして考察しなければならない時代が来ています。


 統一教会のお母様と幹部たちは、1950年代の初代教会時代から文先生が聖和されるまで、自分たちの無知と不信を正当化し、そしてその不信を隠す為、文先生には原罪があったと言い、それをお母様が無原罪にしてあげたと言う。挙句の果てに、その独生女をメシヤとして崇めているのです。まさに、悪魔崇拝です。


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彼らの全てが破綻した
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 文先生を真の父、お母様を真の母、子女様たちを真の子女としてきたことが、聖和以降、黙示録が成就して三つに分裂して全てが破綻したように見えました。


 この破綻に対して、誰もその根源的理由を訪ねようとせず、お父様の名を語りながら、他を批判して自分の党派性の正当化を主張しているのです。


 党派性が強まるだけでは、このような党派性からは心霊的復興のリバイバルは起こり得ない、無情に時間だけが過ぎていくだけ・・・、そう思います。


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リーダーこそ、悔い改めの先頭に立つ時
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 お父様を愛するなら、一人一人が、そのリーダーが、他を責め、己を正当化するという罪を悔い改め、神様に許しを請わなければならないはずです。


原理講論 後編 第二章 第三節 (二)(1) ① 


したがって、洗礼ヨハネが第一次世界的カナン復帰路程のために立てた「信仰基台」はサタンの侵入を受けてしまった。


それゆえ、やむを得ず、イエス自身が洗礼ヨハネの使命を代理して、「信仰基台」を蕩減復帰することにより、第二次世界的カナン復帰路程を出発するほかはなかったのである。

イエスが荒野で四十日間断食をされながら、サタンを分立されたのは、とりもなおさず、洗礼ヨハネの代理の立場で、「信仰基台」を蕩減復帰されるためであった。


 イエスは神のひとり子であり、栄光の主として来られたのであるから、原則的にいえば、苦難の道を歩まれなくてもよいはずなのである(コリント・二・8)。ところが、そのイエスの道を直くするための使命を担って生まれてきた洗礼ヨハネ(ヨハネ一・23、ルカ一・76)が、その使命を完遂できなかったために、洗礼ヨハネが受けるべきであったはずの苦難を、イエス自身が代わって受けなければならなかったのであった。

このようにイエスは、メシヤであられるにもかかわらず、洗礼ヨハネの代理に復帰摂理路程を出発されたという事情のために、ペテロに向かい、自分がメシヤであるという事実をユダヤ人たちに証してはならぬと言われたのである(マタイ一六・20)。

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