平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

1⃣-3「文字の奴隷=文字どおり解釈」すれば、文先生の品格が地に落ちる!!

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御言葉〔A〕「救援摂理史の原理観」
 ※2-1の「人間始祖アダム、エバ」とは誰のことか?

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 前回・・・1⃣-2 2006年・世界講演ツアー の「人間始祖アダム」とは誰か?・・文先生しかいません!!


本日・・・1⃣-3

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  (4)※2-1の「人間始祖アダム」が文先生であることを語らず・・・どうして、このような語り方をされたのか?

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それでは、このようになる原理的理由はどこにあるのでしょうか。


 第一の理由は、後の摂理的人物が摂理的同時性の上に立って、先の人物と同じ使命をもって来られる為です。例えば、イエス様を迎える為に準備された先生ヨハネが来ることを旧約聖書ではエリヤという名で記されていたことと同じです。

 詳しくは、原理講論の後編に記されています。 


 つまり、第二アダムのイエス様は第一アダムの堕落を蕩減する為に来られたお方ですから、イエス様は第二の人間始祖となります。

 そして、第三アダムの文先生は、第一アダムとイエス様の失敗を蕩減する為に来られたお方ですから、文先生は第三の人間始祖になります。

 このような観点から、文先生はご自身を原理基準の定義性から「人間始祖アダム」と言っているのです。


 参考までに、同じように、文脈を注意しながら読んでいると分かりますが、文先生が「イエス様」の名でご自身のことを語られている御言葉が多くあります。


 第二の理由は、事実蕩減《    》という、メシヤだけが成される許しのない蕩減になります。


 その為、第一アダムの堕落をご自身の堕落として、アダムになり切って再現し、第一アダムを蕩減しなければならないからです。

 さらに、イエス様の失敗をご自身の失敗として、イエス様になり切って再現し、イエス様を蕩減しなければならないからです。


 第三の理由は、事実蕩減の再現によって流された文先生の血の代価が真の愛に転換される為です。


 文先生が摂理を展開されるとき、人間的戦略を組むことができないのが事実蕩減の厳しさだと思います。文先生は天より遣わされた百パーセント公的なお方である為、成すべきことが残されているメッセージでは、私的観念を取り入れることは御法度なのです。その為、今後、成さなければならない摂理に対しては、ご自身を「第三アダム」とか、「人間始祖アダム」という定義性の言葉を用いざるを得ないのです。


 これが原因の下地になって、文先生が自ら死ななければならなかった聖和であったとしても、それによって、真の愛が顕れるようになる為です。

 

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  (5)※2-1の「人間始祖アダム」を文字どおり解釈したら、一体、どうなるのか??

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 由々しき問題が生じます。


 それは、メシヤらしからぬ、文先生の品格と限界性の問題が生じるのです。

 つまり、メシヤは天より遣わされた全権大使です。にもかかわらず、旺盛な時が過ぎ去って80歳にならんとしている文先生が、(メシヤの責任を果たす途上とは言え)前任者(アダムとイエス様)の失敗ばかり論じている、無責任なメシヤとなってしまうのです。

(これが理由で、還故郷以降、文先生に対する信頼が地に落ち、リタイヤした信徒が続出しました。)


 例えば、倒産寸前の会社経営を任せれられた新任社長が、経営改善が進まない理由を自らの責任として論ずるのではなく、前任社長の経営問題や不景気問題ばかりを、延々と、部下たちや銀行に、他のステークホルダーに向かって論じているようなものです。


 実際に、文先生の妾摂理を見て知っている古い信徒たちのほとんどは、事実蕩減の真実を知らない為、この妾摂理問題を文先生のメシヤとしての品格問題に重ねてしまったのです。


 その為、古い信徒たちは、信仰が歪んでしまったことも気づかないでいると言えるのです。そして、この歪んだ不信仰が下地になって、さらに、文字の奴隷になって解釈することにより、一層、文先生の品格問題と限界性を感じるようになってしまったと言えるのです。


 しかし、文字の奴隷になった信仰問題は、ユダヤ教とキリスト教の失敗を統一教会が同時性的観点から反復していると言えるのです。


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