本ブログのテーマ ➡ 文先生を問う 真理探求のひとり言
本日は、摂理的用語の定義付けについて考察します。
摂理的用語の定義付けの必要性について
文先生の御言葉を正しく理解する為には一つ一つの摂理的用語を定義付けする必要があります。
例えば、高性能な車があるとします。その車の仕様書は安全に走る為、或いは、非常事態に遭遇した時、それに対応する為に専門用語で埋め尽くされているはずです。そして、仕様書の読み手が、その専門用語の定義を完全に理解していなければ、安全運転ができくなる可能性があります。車は楽しく乗るだけではなく、故障した時やあらゆる状況に対してどう対応するのか、漏れもなく定義された車の言語(専門用語)で書かれているはずです。そして重要なことは、その一つの言語が他の機器にも用いられていた言語であったとしても、その言語はそのクルマにのみ通ずる言語であるはずです。
これと同じように、天宙復帰の御言葉に出てくる多くの言葉も時代的環境や私たちの生活的な環境を超越した普遍的な専門用語であり、摂理的に定義付けされた言語でなければならないはずです。
つまり、天宙復帰の言語がサタンが用いている言語と同じ言語がたくさんありますが、しかし、神側の言語の定義はサタン側の言語の意味とは全く別であることです。
例えば、「氏族的メシヤ」の「氏族」という言葉の定義は神側の定義は神様を中心とした祝福家庭のことです。この定義は御言葉から容易に導き出すことができます。しかし、サタン側の言語で「氏族」とは自分を中心とした肉親の親族になります。このように、「氏族」の言葉一つを取り上げても、神側の定義はサタン側の意味と全く別になります。
もし、真の父母宣布時代の三大摂理であった「氏族的メシヤ」「還故郷」「先祖解放」に対するの定義付けが御言葉から設定できなければならないはずです。しかし、これができなければ誰一人としてこの摂理に正しく向き合うことができなくなります。
私たちの多くが間違ってしまった「真の父母」とは、「父母」とは、「氏族」とは、「故郷」とは、「先祖」とは何であったのか。これらをサタンを中心とした言語でではなく、神様を中心とした言語で、真のアダム基準を持たれた文先生の御言葉から定義付けができなけれならないということです。
もし、文先生の御言葉が語る相手によって変化していたり、時代時代によって不規則に変化していた場合は定義付けができなくなります。このようなことが一つの言語でも定義付けができなくなった場合は、文先生の真のアダム基準は偽物になります。
あくまでも、文先生が神様の代身者であり、文先生が神様の真理を持って来られた真のアダムである以上、摂理的用語の定義付けは文先生の御言葉によってできなければならないはずです。
このブログのテーマはまさにこの定義付けです。摂理的用語の一つ一つに対して、御言葉から定義付けすることです。
繰り返しますが、777のブログの考察は、仮に、摂理的言語の一つでも定義づけができなくなった場合、その原因が文先生が明確に語られていなければ、その定義付けは未来に託すことにします。しかし、摂理的な言語の用い方が語る相手によって変わっていたり、サタン側の言語で語っていたりしている場合は定義付けができませんから、この場合は、文先生の真のアダム基準が偽物であることの証明になります。この時、このブログの考察は無意味であったとして終わります。