平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第六章 (52)金日成(キムイルソン)主席との出会い  P.263  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)


世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第六章 愛は統一を導く ――― 冷戦終焉・宗教融和



(52)金日成(キムイルソン)主席との出会い  P.263


 私が本来、北朝鮮に行こうとした理由は、故郷に行きたかったからでも金剛山(クムガンサン)を見物したかったからでもありません。金日成主席と会い、祖国の将来について討議し、訴えるために行ったのです。ところが、六日間が過ぎても、金日成主席に会わせるという話は一つもありませんでした。


  十二月五日、故郷を巡ってから、ヘリコプターに乗って須安(スナン)空港に戻ってくると、予告もなく金達鉉(キムダルヒョン)副総理が出迎えに来ていました。


「あす、偉大なる首領、金日成同志が文総裁にお目にかかるそうです。その場所が興南にある麻田(マジョン)主席公館ですので、今すぐ特別機にのって興南に出発致していただきます」


「主席公館は何箇所かあると言っていたのに、よりによって興南なのか?」

行く途中で「興南窒素肥料工場」と書かれた大きな看板を見たので、以前に監獄生活をしていた記憶が蘇(よみがえ)り、本当に複雑な気分になりました。私たちはそこの招待所で一泊し、翌朝、金日成主席に会いにいきました。


 麻田(マジョン)主席公館に入ると、金日成主席が先に出てきて待っていました。私たちはどちらからともなくお互いに抱き合いました。私は徹底した反共主義者であり、金主席は共産党(朝鮮労働党)の頭目ですが、二人の出会いに理念や信仰は重要ではありませんでした。私たちは、長い間生き別れになっていた兄弟と同じでした。それがまさに血が通う民族の力です。


 私はいきなり金日成主席に言いました。

「金主席の温かい配慮で家族と会うことができました。しかし、今も祖国には、生死さえも分からないまま、年老いて死んでいく一千万人の離散家族がいます。離散家族が相まみえることができるように対面の恩恵を与えてください」


 私は故郷を見てきた話を付け加えて、同族愛を訴えました。故郷の言葉がすらすら通じるので、一層気持ちが安らかでした。すると金主席も、「同感です。来年から南北の別れた同胞がお互いに家族に会う運動を始めましょう」と、春の雪が解けるようにすぐに応じてくれました。


 故郷の話題で話の糸口を開いた私は、すぐに核兵器に関する意見を述べました。朝鮮半島の非核化宣言に合意し、国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印するように丁重な態度で説得に努めました。


 すると、金主席は、

「文総裁、少し考えてみてください。私が誰かを殺そうと思って核爆弾を作りますか?同族を殺しますか?私がそのような人間に見えますか?核が平和目的のみに使われなければならないということには私も同感です。文総裁の話を心して聞いたので、うまくいくでしょう」

 と気持ちよく答えました。


 当時は、北朝鮮の核施設問題で南北関係が思わしくなく、とても慎重に提案したのですが、晴れ晴れとした答えに、その場にいた全ての関係者が驚くほどでした。話がよく通じた私たちは、食堂に場所を移して、早めの昼食をとりました。


「文総裁は『冷凍ジャガイモそば』をご存知ですか。私が白頭山(ペクトゥサン)でパルチザン活動をしていた時代に本当によく食べた料理です。召し上がってみてください」


「知っていますとも。私の故郷でもよく食べた料理です」

と、私は笑顔で答えました。


「はは、文総裁の故郷では珍味として召し上がったのでしょう。私は生きるために食べました。日本の警察が白頭山の頂上までしらみつぶしに探し回るので、一匙(さじ)のご飯も落ち着いて食べることができませんでした。白頭山の頂上で、ジャガイモ以外に食べるものがあるでしょうか。ジャガイモを煮て食べようとしたとき、日本の警察が追いかけて来れば、ジャガイモを土の中に埋めておいて逃げるのです。しばらくたってそこに戻ってくると、よほど寒いのか、ジャガイモが土の中でもこちこちに凍ってしまいました。仕方なく、凍ったジャガイモを掘り出して、溶かして粉にしたあと、そばにして食べました」


「主席は『冷凍ジャガイモそば』の専門家ですね」


「そうです。これを豆乳に混ぜて食べても美味しいのですが、ゴマのスープに混ぜて食べてもとても美味しいです。消化もよいし、ジャガイモの粘り気があっておなかもいっぱいになります。ああ、それから文総裁、『冷凍ジャガイモそば』は、このように咸鏡道(ハムギョンド)式に芥子菜(からしな)のキムチをのせて召し上がるのが珍味です。一度試してみてください」


 私は金主席が勧めるとおり、「冷凍ジャガイモそば」に芥子菜(からしな)のキムチをのせて食べました。香ばしいそばと辛いキムチがよく合い、おなかがすっきりしました。


「世の中に山海の珍味はたくさんありますが、私はそのようなものはすべて必要ありません。故郷で食べたジャガイモ餅やトウモロコシ、サツマイモより美味しいものはありません」


「主席と私は、味の好みがよく合いますね。やはり故郷の人どうしで会うのはうれしいことです」


「故郷を見て回ったそうですが、どうでしたか」


「感慨無量です。私が暮らしていた家が残っていて、しばらく昔のことを思い出しながら、奥の部屋に座ってみました。今にも母が私の名前を呼びそうな気がして、胸がじんとしました。」


「母君・・・?」


「既に亡くなったそうです」


「そおでしたか。ですから、早く統一されなければならないということですね。私が聞いたところによると、文総裁は相当ないたずらっ子だったそうですが、故郷に行って少し遊ばれましたか?」


金主席の話に、食卓に座っていた人たちがわははと笑いました。

「木に登って、魚も捕まえにいかないといけないのですが、金主席が待っていらっしゃるということで急いでこちらに来たので、次にまた呼んでくださらなければなりません」


「そうですね。是非そうしましょう。ところで、文総裁は狩りをされますか。私は狩りがとても好きです。白頭山(ペクトゥサン)で熊狩りをしてみれば、間違いなく魅了されますよ。熊は体が大きいので愚鈍に見えますが、実際はとても利口者です。ある時、熊と一対一で出くわしたのですが、熊が私を見てぴくりとも動かないのです。熊を避けて逃げ出せばどうなるかお分かりですよね。ですから、私も熊を睨(にら)みながらじっとしていました。一時間、二時間と時間がどんどん過ぎていくのですが、熊は依然として私を睨んでいます。白頭山の寒さはどれほど有名ですか?熊に食べられて死ぬ前に凍え死にそうな状況です」


「いや、それはどうなったのですか」


「ははは、今文総裁の前に座っているのは熊ですか、人ですか?それが答えですね」


私が大声で笑うと、金主席は不意に「文総裁、次にいらっしゃったら、一度一緒に白頭山に狩りに行きましょう」と言いました。それで私もすぐに「主席は釣りもお好きでしょう?アラスカのコディアク島にハリバットという熊くらいの大きなヒラメがいます。一度それを釣りに行きましょう。」と続けました。


「熊のように大きなヒラメですか。それなら当然行かなければなりませんね」


 狩りでも釣りでも、私たちは互いに趣味が通じました。すると突然話しすることが増え、久しぶりに会った旧友がお互いに過去の話をするかのように、先になったり後になったりしながら話をしました。私たちの笑い声が食堂の中に大きく響き渡りました。


 私は金剛山(クムガンサン)の話も切り出しました。

「金剛山に行ってみると本当に名山ですね。私たち民族の誇らしい観光地として大きく開発しなければなりません。


「金剛山は統一祖国の資産です。それで誰も手を出せないようにしました。間違った開発をして名山を台無しにすることもあるからです。文総裁のように国際的な眼識を持った方が開発を担ってくださるのなら、信じることができますね」


金主席は、その場で金剛山開発の要請までしてきました。


「主席は私よりも年多くていらっしゃるので、お兄様になられますね」と言うと、金主席は「文総裁、私たちはこれから兄と弟として仲良くしていきましょう!」と私の手をしっかり握りました。


 金主席と私は、手を繋いで廊下を歩いていき、記念写真を撮って別れました。私を送り出した後、金主席は「文総裁という人は本当に立派だ。一生の間に大勢の人に会ってみたが、あのような人はいなかった。度胸もあり、情にあふれた人だ。親近感を覚えて気分が良くなり、ずっと一緒にいたいと思った。後でまた会いたい。私が死んだ後に南北の間で議論することが生じれば、必ず文総裁を訪ねなさい」と金正日(キムジョンイル)書記に何度も繰り返し伝えたそうですから、お互いにかなり通じ合ったようです。


 私が一週間の日程を終えて平壌を出発するやいなや、延亨黙(ヨンヒョンムク)総理を首班とする北朝鮮代表団がソウルにやって来ました。延総理は「朝鮮半島非核化共同宣言」に調印しました(一九九一年十二月三十一日)。そして、翌年の一月三十日、北朝鮮はIAEAの核査察協定に調印することによって、私との約束をすべて守りました。命がけで平壌に入っていき、まずまずの成果を挙げたのですから、本当にやった甲斐(かい)がありました。

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