平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第五章  (42)愛は与えて忘れなさい  P.217  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)

世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第五章 真の家庭が真の人間を完成する ――― 結婚と愛


(42)愛は与えて忘れなさい  P.217


 家庭は、神様が創造した最高の組織です。また、人類が互いに愛し、平和に暮らすことを学ぶ愛の学校であり、世の中に平和の王宮を建てるための訓練道場です。為(ため)に生きる夫と為に生きる妻として、祖いて永遠の愛の道を行くための夫婦として、その責任を学ぶところです。家庭は世界平和のためのベースキャンプなので、息子・娘が「お父さんとお母さんが喧嘩(けんか)する姿を、生涯一度も見たことがない」と言うようにならなければなりません。


 人生を歩んでいけば、ありとあらゆることをすべて経験するようになるものです。いくら仲の良い夫婦でも、一緒に暮らしていれば、互いに小言も言い、怒鳴ることもありますが、子供たちが入ってきたら、ぴたっと止めなければなりません。いくら腹の立つことがあっても、子供たちに接するときだけは、穏やかにしなければなりません。子供たちが「わが家はとても和気藹藹(あいあい)としていて、お父さんとお母さんは本当に仲が良い」と思って育つようにしなければならないのです。


 父母は、子供たちにとって第二の神様です。「神様が好きか?お父さんとお母さんが好きか?」と尋ねて、「お父さんとお母さんが好きです」と答えたら、それはすなわち「神様も好きだ」という意味です。教育の最も大事な部分を担っているのが家庭です。幸福も平和も、家庭の外にはありません。家庭こそが天国です。いくら莫大(ばくだい)なお金と名誉を持ち、世界をすべて手に入れたとしても、健全な家庭を築くことができなければ、その人は不幸です。家庭は天国の出発点だからです。夫婦が真実の愛で結ばれ、理想的な家庭が築かれたら、宇宙と直接連結されます。


 ダンベリー刑務所にいたとき、面白い光景を見ました。テニスコートを造るために、毎日坂道をブルドーザーでならす作業をしていました。雨が降り出すと作業を止め、晴れの日になるとまた作業を始めるということの繰り返しで、これが数カ月続きました。しばらくの間、雨ばかりで仕事ができず、ようやく二十日目になって、再び作業をするために出ていった日のことです。水草のある所に水鳥が巣を作っていました。囚人たちの運動用の歩道から数メートルも離れていない所でした。


 最初は、水鳥がいることも知りませんでした。完璧と言ってよいほどの保護色で、水鳥の羽毛が水草そっくりに見えました。卵を産んで、初めてそこにいることが分かったのです。水鳥はしっかりしゃがみ込んだまま、黒い砂利石のような卵を抱えていました。ひなが卵を割って出てくると、母鳥が餌(えさ)を取ってきて雛(ひな)たちの口に入れていました。ところが、餌をくわえてきた母鳥は、雛がいる巣まで絶対に一度で飛んでいきません。巣から少し離れたところに降り、そこから歩いて雛のいる所に近づいてきます。それも、毎回、違う方向から歩いていきます。雛がいる巣の位置を誰にも知られないようにする母親の知恵でした。


 水鳥の雛たちは、母鳥が取ってきてくれる餌を食べてすくすくと育ちます。囚人たちが散歩していて巣のそばに近づくと、母鳥が飛んできて彼らを鋭いくちばしでつつきます。もしや自分の雛が傷つけられるのではないかと警戒するのです。

 水鳥も父母の真(まこと)の愛を知っていました。真の愛とは、自分の命までも捨てることができるものです。そこにはいかなる計算もありません。母鳥が命を捨ててまで雛を守ろうとするその心は、真の愛そのものです。父母はいくらつらくても愛の道を行きます。愛の前に自分の命を投げ出していくのが父母の心であり、真の愛です。


 愛の本質とは何でしょうか。愛の本詩とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為(ため)に生きることです。与えても与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。


 父母は、愛する子供のために骨身を削って苦労しながらも、疲れを知りません。それくらい子供を愛するからです。本当の愛は神様から始まり、また愛は父母からくるのです。ですから、父母が「おまえたちが互いに喜ぶのは、父母の恩徳によるものだ」と言えば、子供たちは「お父さんお母さんが私をこのように育て、このような伴侶(はんりょ)と出会わせてくれなければ、大変なことになるところでした。」と答えなければならないのです。


 家庭は愛の包みだということもできます。天国に行ってその包みをほどいてみれば、その中から良いお父さんとお母さんが飛び出てきます。美しい子供たちが飛び出してきます。慈愛に満ちたお祖父(じい)さんとお祖母(ばあ)さんが飛び出してきます。一人一人が愛の包みに包まれている所が家庭です。家庭は神の理想が実現する空間であり、神がなさることの完成した姿を見ることができる場所です。神の御旨(みむね)は、愛が実現する世界をつくることであり、家庭は神の愛が満ちあふれた所です。


 家庭とは、言葉にしただけで自然と口元から笑みがこぼれる存在です。家庭には、心から私のためにしてくれる真の愛が満ちあふれているからです。真の愛は、愛を与え、そして愛を与えたことさえ忘れてしまうものです。父母が子供の為に生きる愛、祖父母が孫に与える愛が真の愛です。国のために命を捧(ささ)げることもまた、真の愛です。


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