平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(32)(33)(34)《 第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)


(32)(33)(34)
《 第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)




これまで掲載した《 「第四章」 》を(文字数の制限のため)三回に分けて掲載します。



 本日は(32)(33)(34)


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(32)深い山奥に細い道を通した平和の天使たち  P.164


 私たちが死ぬ前に、必ず子孫に残しておかなければならないものが二つあります。一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統のない民族は滅んでしまいます。伝統とは、民族を結ぶ魂であり、魂の抜けた民族は生き残ることができません。もう一つ、重要なものが教育です。子孫に教育をしなければ、その民族は滅びます。教育は、学問・芸術など新しい文物を吸収することを通して、世の中で生きていく力を得るものです。人は教育を通して生きる知恵を学びます。文字が分からないときは誰もが幼稚なままですが、教育を受ければ、世の中の知恵を活用できるようになります。また、教育は世の中の仕組みを理解する英明さをもたらしてくれます。数千年間続いた私たちの伝統を子孫に伝える一方、新しい文物を教育することは、民族の未来を開くことにつながります。受け継いだ伝統と新しい文物は生活の中で適切に融合され、独創的な文化として再生します。伝統と教育は、どちらがより重要で、どちらがより重要でないと言うことはできません。二つを適切に融合させる知恵も教育から得られるのです。

 私は、舞踊団をつくった後、「リトルエンジェルス芸術学校」(その後、仙和芸術学校と改称)も作りました。学校を作ったのは、芸術を通して私たちの理想を広く世界に連結させるためです。私たちに学校を運営する能力があるかどうかは二の次の問題でした。私はまず実行から入りました。意義が明確で良いことなら、当然始めなければならないでしょう。天を愛し、人を愛し、国を愛する教育をしたいと思ったのです。

 私は仙和(ソンファ)芸術学校を作り、「愛天、愛人、愛国」というとても大きな揮毫(きごう)を残しました。すると、ある人が「韓国固有の文化を世界に誇ると言いながら、どうして愛国を最後にしたのか」と尋ねてきました。私は「ある人が、天を愛し、人類を愛したなら、その人はすでに、そのことによって国を愛したのです。愛国はおのずと完成します」と答えました。

 全世界から尊敬される人は、すでに韓国を世界万邦に伝えたと言えます。世界各国を訪れ、韓国文化の卓越性を見せながらも、リトルエンジェルスは一度も「コリア」を叫びませんでした。しかし、リトルエンジェルスの踊りを見て拍手を送る人たちの心の中には、「文化と伝統の国、韓国」というイメージがしっかりと根を下ろしています。そういう意味で、リトルエンジェルスは、他の誰よりも韓国を広く世界に知らせて、愛国を実践したのです。仙和芸術学校出身で世界的なソプラノ歌手となった曺(チョ)秀美(スミ)(スミ―・ジョー)と申(シン)英(ヨン)玉(オク)、そして世界最高のバレリーナとなった文薫淑(ムンフンスク)(ジュリアン・ムーン)と姜(カン)秀(ス)珍(ジン)の公演を見るたびに、私は心が満たされます。

 リトルエンジェルスは、一九六五年のアメリカ公演をはじめとして、今に至るまで世界を駆け巡って韓国の美しい伝統を披露しています。イギリス王室に招待され、エリサベツ女王の御前で公演を行い、アメリカ独立二百周年の行事に招待され、ワシントンDCのジョン・F・ケネディ・センターの舞台に上がったこともあります。ニクソン米大統領の前で特別講演も行い、ソウル・オリンピック文化芸術祝典にも参加しました。リトルエンジェルスは、すでに世界的に名のある平和の文化使節です。

一九九〇年にソ連を訪問した時のことです。ゴルバチョフ大統領との会談を終え、その地を離れる前夜、リトルエンジェルスの公演が開かれました。共産主義の牙城(がじょう)であるモスクワのど真ん中に、韓国の幼い少女たちが立ったのです。韓服を着た天使たちは、韓国の踊りを終えた後、美しい声でロシア民謡を歌いました。客席から「アンコール」が連呼され、いつまでたっても舞台を降りることができませんでした。結局、準備した合唱曲すべて歌い終えてから下りてきました。

 客席には、ゴルバチョフ大統領令夫人のライサ女史が座っていました。当時、韓国とソ連は正式な国交を結んでおらず、そのような国の文化公演にファーストレディーが出席するのは、極めて異例な事でした。さらに、客席の前方に座ったライサ女史は、公演の間中、終始大きな拍手を送ってくれました。ライサ女史は、公演が終わると舞台に上がってきて、団員に直接花束を渡し、「リトルエンジェルスこそ平和の天使です。韓国にこれほど美しい伝統文化があるとは知りませんでした。公演を見ている間、幼い頃に帰って夢を見ているようでした。」と韓国文化の素晴らしさに賛辞を惜しみませんでした。そして、リトルエンジェルスの団員を一人一人抱き寄せて「My Little Angels!」と言いながら頬にキスをしてくれました。

 一九九八年には、純粋な民間芸術団体として初めて北朝鮮の平壌(ピョンヤン)を訪問し、三度も公演を行いました。かわいらしい新郎新婦の踊りも踊り、華やかな扇の舞も踊りました。公演を見ている間、北朝鮮の人たちの目には涙がにじんでいました。この時、新聞記者は、こらえきれずに涙を流す北の女性の姿をカメラに収めています。公演を見終えた金(キム)容(ヨン)淳(スン)・アジア太平洋平和委員委員長は、「深い山奥に小さな細い道を開いた」と称賛しました。

 リトルエンジェルスがしたことはまさにそれです。これまで背を向け合っていた南北が一箇所に集まり、一緒に公演を見ることができるという事実を初めて証明したのです。人々はよく政治や経済が世の中を動かすと考えますが、そうとも言えません。文化や芸術も世の中を動かす力を持っているのです。人々の心の最も深い所に影響を与えるのは、理性よりも感性です。受け入れる心が変われば世の中が変わり、制度も変わります。リトルエンジェルスは、韓国の伝統文化を世に知らせる役割をしただけでなく、自由圏と共産権という異なった世界の間に小さな道を作る役割も十分に果たしました。

 私はリトルエンジェルスに会うたびに、「心が美しければ踊りが美しくなる。心が美しければ歌が美しくなる。心が美しければ顔が美しくなる」と言っています。真の美しさは内側から滲(にじ)み出るものです。リトルエンジェルスがそうやって全世界の人々に感動を与えたのは、韓国の踊りの中に溶け込んでいる韓国の伝統や精神文化が美しいからです。ですから、リトルエンジェルスが受けた拍手喝采(かっさい)とは、つまるところ韓国の伝統文化が受けた拍手喝采なのです。



(33)海に未来がある  P.168

 幼い頃から、私の心はいつも遠いところに向かっていました。故郷では山に登って海を慕い、ソウルに来てからは海の向こうの日本に思いを巡らしました。常に、今いる世界よりも、もっと広い世界を夢見ていました。

 一九六五年は、私が初めて世界巡回に出た年です。トランクいっぱいに韓国の土と石を詰めて持っていきました。世界を回って、要所要所に韓国の土を石を埋めるつもりでした。八ヵ月半で日本とアメリカ、そしてヨーロッパなど四十カ国を回りました。

 ソウルを出発する日、数十台のバスに分乗してやって来た信徒たちで、金浦(キンポ)空港はいっぱいになりました。北西の風が激しく吹きつける一月の飛行場に、黒山の人だかりができました。その頃は、外国に出て行くのはかなり大変な事でした。彼らが空港に集まったのは、誰かに言われたからではなく、自分の心が導くとおうぃにしたことです。私は信徒たちの思いをありがたく受け取りました。

 当時、私たちの宣教国は十カ国をわずかに超えるほどでしたが、私は二年で四十カ国に増やすつもりでした。四十カ国を巡回したのは、その基礎を固めるためでした。

 最初に訪問したのは日本です。密航して宣教を始めた日本で、私は大々的な歓迎を受けました。国法に背いての命がけの危険な出発でしたが、今考えてみれば、当時の私たちの選択はとても適切なものでした。

 私は日本の信徒たちに尋ねました。

「皆さんは日本的ですか?そうでないとしたら、日本的なものを超えましたか?」

 私は話しを続けました。

「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです。」

 日本の人々には冷たく聞こえたかもしれませんし、寂しく感じたことでしょう。しかし、私はあえてきっぱりと話しました。

 次に訪れたのはアメリカです。サンフランシスコ空港に降りた私は、アメリカ宣教師と共に二ヵ月間アメリカ全域を回りました。各州の巡回している間に、「全世界に号令する中心本部はアメリカだ。これから創建する新しい文化は、必ずアメリカを踏み越えていかなければならない」と痛感しました。私はアメリカの地に五百人収容できる修練所を建てようと計画しました。もちろん、韓国人だけでなく、百以上の国から修練性を受け入れる国際的な修練所を建てることが目標でした。

 幸い、その願いは間もなく果たされました。その後、毎年百カ国から四人ずつ送られたメンバーが修練所に集まり、半年間世界平和を研究し、討論することになりました。それは今でも続いています(この国際修練所は後に統一神学大学院となる)。人種や国境、宗教は何の関係もありません。私は、人種と国境、宗教を超えた多様な考えを持つ人たちが集まり、世界平和について虚心坦懐(きょしんたんかい)に議論することが、人類を成長させ、世界をより発展した社会にすることだと信じています。

 アメリカを巡回する間に、ハワイとアラスカを除く四十八州はすべて行きました。後部座席に荷物を載せられるワゴン車を借りて、昼夜兼行(けんこう)で走りました。運転手が居眠りすることがあると、「おいおい、疲れているのは分かるよ。しかし、遊びで来たわけではないのだ。大きな仕事をするために来たのだから、しっかり頼むよ」と言って、励ましました。どこかに楽に座ってご飯を食べることもしませんでした。車の中で、食パン二枚にソーセージを一つ入れ、ピクルスでものせて食べれば、立派な一食になります。朝昼晩といつもそうやって食べました。寝るのも車の中です。車が宿でであり、車がベッドであり、車が食堂でした。狭い車の中で、食べて、寝て、お祈りしました。何でもできないことがありませんでした。その時の私には達成すべき明確な目標があったので、体が少々不便なことぐらいは十分に耐えることができました。

 アメリカとカナダを経て中南米を回り、次にヨーロッパに渡りました。私の目で直接見たヨーロッパは、完全にバチカン文化でした。バチカンを超えなければヨーロッパを超えることはできないと思いました。峻険(しゅんけん)と言われるアルプスも、バチカンの威勢の前には何でもないものでした。

 ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカン(カトリック教会の総本山であるローマ教皇庁やサン・ピエトロ大聖堂がある)で、私も汗をぽたぽた流して祈祷しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を人間がそれぞれの立場で自分たちに有利なようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものになったのです。その後、エジプトと中東を経てアジア各国を回ることで、八ヵ月半の長い巡回を終えました。

 ソウルに帰ってきた私のトランクには、四十カ国、百二十カ所の地域から持って来た土と石がいっぱいに入っていました。韓国から持って行った土と石をその土地に埋めて、新たにその場所から持ち帰った土と石です。土と石で世界四十カ国と韓国を連結したのは、朝鮮半島を中心として平和世界が実現する未来に備えるためでした。私は、四十カ国すべてに宣教師を送り出す準備を始めました。

 広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ四十八州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。

 それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらになるか調べてみました。マイアミで二十五ドルする牛がニューヨークに行くと四百ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、一匹のマグロが四千ドルを超えます。さらに、マグロは一度に百五十万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。

 問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロと言えば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。

 私たちが暮らす地球は、陸地よりも海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、二百海里(約三百七十キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を取ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまででも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富であり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫と言えるでしょう。

 私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、三十四フィート(約十.四メートル)から三十八フィート(約十一.六メートル)程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないよっと大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、デンバー、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。

 研究もたくさんしました。一つの地域に一隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、一つ一つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。

 そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業界を大きくひっくり返してしまいました。

 次に、私たちはまた新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出て行く遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。

「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接載って、マグロを捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに「船に乗りなさい」と言うと、怖気(おじけ)づいて皆逃げてしまいます。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って七年以上が過ぎ、それから後も、九十歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください。」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、先ずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。

 ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時期に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。

  アメリカは、世界的な四代漁場の中で何と三つ持っている国です。それは、全世界の魚の四分の三がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく遅れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも二年半だけ船に乗れば、十パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市は繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。

 海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は一刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿(ざお)を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何ものも私たちを妨害できません。私たちを急(せ)き立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌(そうぼう)を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先(へさき)にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。

 ところがです。そのような波が荒々しく、風が激しく吹きつけるなかでも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が寄せても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。





(34)アメリカに行くための最後の飛行機  P.176


一九七一年末、私はアメリカに向かいました。アメリカに行って必ずしなければならないことがあったからです。しかし、到着までには紆余(うよ)曲折がありました。アメリカのビザを始めて取るわけでもないのに、なかなかビザが下りず、信徒の中には出国の日を延期してはどうかと言う人もいましたが、それはできませんでした。彼らに説明するのは難しかったのですが、決められた日に韓国を出発しなければならなかったのです。それで、先ず日本に行ってアメリカのビザを解決することにして、ひとまず出国を急ぎました。

 出発予定日はとても寒い日でした。私を見送ろうと、信徒たちが空港のすぐ外まで集まってきました。ところが、いざ出国しようとすると、旅券に外務部(外務省)旅券課長の出国認承の捺印(なついん)がないことが分かりました。結局、予約していた飛行機に乗ることができませんでした。

「申し訳ありません、先生。ひとまずご自宅にお戻りください。捺印をもらってきます」

 と、出国準備を担当する信徒が慌てた様子で言ってきました。

「いや、空港で待つので、早く行って捺印してもらってきなさい」

 私は急いでいました。ちょうど日曜日で、旅券課長は出勤もしていないはずです。しかし、そうした事情を考える余裕がありませんでした。担当者が旅券課長の家まで訪ねていって、捺印をもらうことができたので、その日の最後の飛行機に乗って韓国を出発しました。ところが、ちょうどその夜、「国家非常事態宣言」が発布され、翌日から海外出国が禁止されたのです。ですから、私はアメリカに行くための最後の飛行機に乗ったのです。

 ところが、日本に行って再びアメリカのビザを申請しましたが、断られました。後で分かったことですが、光復(一九四五年八月十五日)の少し前に共産主義者の疑いをかけられて、日本の警察に捕まった記録が残っていました。一九七〇代に入って、世界的に共産主義が猛威を振るっていた時期でした。私たちは百二十七カ国に宣教師を送り出しましたが、そのうち共産国家の四カ国から追放されたほどです。当時、共産国家で宣教するのは命がけでしたが、私は最後まで使命を放棄せず、ソ連をはじめとする共産主義諸国に宣教師を派遣しました。

 私たちは東欧の共産国家で行う宣教活動を「ナビ(蝶(ちょう))作戦」と呼びました。幼虫がさなぎの期間を経たのち羽根を付けた蝶になる姿が、共産国家で苦難に耐えなければならない地下宣教活動に似ていることから、そう名付けたのです。蝶が幼虫から脱皮していくのは、苦労が多く孤独な過程ですが成虫になるとどこへでも力強く飛んでいくことができます。同様に、地下宣教も、共産主義さえ崩れれば、羽根を付けてひらひらと飛んでいくものでした。

 一九五九年初めに渡米した金(キム)永(ヨン)雲(ウン)宣教師は、北米大陸のすべての大学を回って神のみ言を伝えましたが、その中でカリフォルニア大学バークレー校に留学していたドイツ人のピーター・コッホは、新しい真理によって伝道され、学業を中断して、オランダのロッテルダムに行ってヨーロッパ伝道を始めました。日本でも、中国をはじめとするアジア圏の共産国家に宣教師を送り出しました。きちんとした派遣礼拝を一度もできずに宣教師を死地に送り出す私の心は、甲寺(カプサ)の裏の松林で、崔奉(チェボン)春(チュン)を日本に送り出した時とさして変わりはありませんでした。子供が打たれるのを見るのは、かえって自分が打たれるよりも残酷です。いっそのこと私が宣教師になっていけばよいものを、信徒を監視と処刑の地に送りながら、私の心は泣き続けました。宣教師を送り出した後、私はほぼすべての時間を祈りに費やしました。彼らの命のために私ができることは、心を尽くして祈りを捧げることだけでした。共産圏の宣教は、見つかればすぐに共産党に襟首(えりくび)をつかまれて引っ張られていく、危険この上ないものでした。

 共産圏の宣教に行く信徒は、親に目的地さえ知らせることができずに出発しました。共産主義の恐ろしさをよく知る親たちが、最愛の息子・娘が死地に入っていくのを許すはずがなかったからです。ソ連に派遣されたクント・プルチョは、国家保安委員会(KGB)に見つかって、国外追放されました。チャウチェスクの独裁が極に達していたルーマニアでは、秘密警察のセクリタテアに尾行され、電話を盗聴されることが頻繁にありました。

 一言で言って、ライオンのいる洞穴に飛び込むようなものでした。それでも、共産国家に潜入する宣教師の数は日増しに増えました。その頃、一九七三年のことです。チェコスロバキアで、宣教師を筆頭に信徒三十人以上が一度に検挙されるという惨い事件が起きました。マリ・チブナは冷たい監房の中で、二十四歳という花盛りを迎えようかという年頃で命を失い、共産国家で宣教中に落命した最初の殉教者となりました。翌年、もう一人がやはり監獄で命を失いました。

 知らせを聞いた私は、全身が硬直しました。話すこと、食べることはもちろん、祈ることさえできず、石の塊になったように座り込んでいました。彼らが私に出会っていなければ、私が伝えるみ言を聞いていなければ、そのように寒くて孤独な監獄に行くこともなく、そこで死ぬこともなかったはずなのに・・・。彼らは私の代わりに苦痛を受けて死んだのです。

 「彼らの命と交換した私の命は、それだけの価値のあるものなのか。彼らは私の代わりに共産圏宣教の重荷を背負ってくれた。その負債を、私はどうやって返せばよいのか」

 私はますます言葉を失っていきました。深い水の中に浸(つ)かっているように、際限のない悲しみに落ちて行きました。その時、私の目の前にマリ・チブナが黄色い蝶になって現れました。チェコスロバキアの冷たい牢獄を抜け出した黄色い蝶は、力を失って座り込んでいる私に向かって、力を出しなさいとでも言うように、羽根をひらひらさせました。彼女は、命をかけた宣教を通して、本当に幼虫から脱皮して蝶になっていたのです。

 極限状況で宣教する信徒たちは、ひときわ多く夢や幻想を通して啓示を受けました。八方ふさがりの状況では誰とも連絡が取れないので、神が啓示を通して進む道を知らせてくれました。就寝中に「すぐに起きてそこから移動しなさい」と夢で教えられ、跳ね起きてその場を離れるやいなや、秘密警察が踏み込んできた、ということもあります。間一髪で命拾いするような出来事が、一度や二度ではありませんでした。また、一度も直接会ったことがないのに、夢に私が現れて、宣教のやり方を教えたこともあったそうです。信徒たちは、私に会うやいなや、「ああ、あの時、夢でお目にかかった先生に間違いありません」と喜びの声を上げるのでした。

 このように、共産主義を崩すために、また神の国を建設するために、命を懸けて闘ってきた私を、かえって共産主義者だと疑い、アメリカ入国のビザを出さないというので、仕方なく、これまでカナダで反共活動をしていた資料を提供して、ようやくビザを受け取ることができました。

私がこのように複雑な過程を経てアメリカに行ったのは、彼らを堕落させた黒い勢力と闘うためでした。命をかけて悪の勢力と戦争をするために出発したのです。当時のアメリカは、共産主義と麻薬、退廃、淫乱(いんらん)など、世の中に存在するありとあらゆる問題が、坩堝(るつぼ)のように混ざり合ってぐつぐつと煮え立っていました。私は「消防士として、医者としてアメリカに来た」と叫びました。家に火が付けば消防士が駆けつけ、体が病気になれば医者が訪ねてくるように、私は堕落の火が燃えているアメリカに駆けつけた消防士であり、神を見失い退廃の沼に落ちたアメリカの病気を治すためにやって来た医者でした。

 一九七〇年代初頭のアメリカといえば、ベトナム戦争をめぐる葛藤(かっとう)と物質文明に対する懐疑で、社会が激しく分裂していた頃です。人生に意味を見いだすことができない若者たちは、道端をほっつき歩いて、酒と麻薬、フリーセックスに人生を浪費し、尊い霊魂を堕落するに任せていました。彼らが彷徨(ほうこう)するのを止め、正しい人生に戻るように導いてやるべき宗教は、もはやその役割を失っていました。そのために、低俗でわいせつな雑誌類が道端で堂々と売られ、麻薬を吸って幻覚を見ながらふらふら歩く若者たちがあふれ、離婚した家庭の子供たちは心の拠(よ)り所を失って街をさまよいました。あらゆる犯罪が幅を利かせるアメリカ社会に警鐘を鳴らそうとして、神は私をその地に送られました。

 アメリカに到着するやいなや、私は「キリスト教の危機と新しい希望」「キリスト教の新しい未来」という主題で全国を巡回し、講演活動を展開しました。人々が集まった場所で、誰も指摘しないアメリカの弱点を鋭く指摘しました。

「アメリカは本来、清教徒(ピューリタン)精神によって建てられた国です。わずか二百年の間に世界最大の強大国になるほどの目覚ましい発展を遂げたのは、神から無限の愛の祝福を受けたからです。アメリカの自由は神から来たものです。ところが、今日のアメリカは神を捨ててしまいました。いま、アメリカの人たちは、神から受けた愛を全て失ってしまいました。何が何でも霊性を回復しなければアメリカに未来はありません。私は皆さんの霊性を目覚めさせ、滅びつつあるアメリカを救おうとここにやってきました。悔い改めてください!悔い改めて神に帰らなければなりません。!」




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