平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(35)(36)(37)(38)《 第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)


(35)(36)(37)(38)
《 第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛 》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)




これまで掲載した《 「第四章」 》を(文字数の制限のため)三回に分けて掲載します。



 本日は(35)(36)(37)(38)


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(35)レバレンド・ムーンはアメリカ精神革命の種  P.182


 アメリカ人が最初に見せた反応は、この上なく冷たいものでした。「ようやく戦争の貧困の中から立ち直った韓国という取るに足りない国から来た宗教指導者が、どうしてアメリカ人を相手に悔い改めよと言うのか」と、皮肉っぽく言いました。

 アメリカ人ばかりが私に反対したのではありません。国際共産主義者と連携した日本の赤軍派の反発は特に激しく、私が良く滞在していたボストンの修練所に侵入し、後に地元警察の検問に引っ掛かって摘発され、FBI(連邦捜査局)に引き渡されたこともありました。私に危害を加えようとする動きが度々あったので、私の子供たちを警護員なしでは学校に通わせることができないほどでした。殺害の危険が続くと、私もある期間、防弾ガラスの中で講演を行いました。


 彼らの妨害にもかかわらず、東洋から来た小さな目の男が行う巡回講演は、日増しに話題を呼びました。人々は、今まで聞いていたものとは全く違った新しい教えに耳を傾けました。宇宙と人生に関する根本原理をはじめ、アメリカの建国精神を呼び覚ます講演内容が、退廃と怠惰の奈落に沈んだアメリカ人に新鮮な風を送り込んだのです。


 アメリカ人は、私の講演を通して意識革命を経験しました。若者たちは「ファーザー・ムーン」、あるいは「レバレンド・ムーン(文師)」と呼んで私に従い、肩まで長く伸びた髪とぼうぼうに生えたひげを切りました。身なりが変わると心も変わるもので、酒と麻薬に溺れていた若者たちの心の中に神の愛が入り込み始めました。


 講演には、宗派を超越して多様な若者たちが集まりました。説教の中で、「ここに長老派教会はいるか?」と尋ねると、「ここです。ここ!」と手を振る青年がとてもたくさんいました。また、「カトリックもいるか?」と尋ねても、あちこちで手を挙げました。「南部バプテスト教会は?」と尋ねると、どれくらい多くの人が「私です、私!」と言うのか分からないほどでした。私が「自分の宗教を放っておいて、なぜ私の説教を聞きに来るのですか。早く帰ってください。かえって自分の教会でみ言(ことば)を聞きなさい」と言うと「ああ!ああ!」と大きく溜(た)めめ息をつきました。そのようにして、だんだんと多くの人が集まり、若者だけでなく、長老派教会やバプテスト教会の指導者が、教会の青年たちを連れて訪ねてくるようになりました。時間が経(た)つにつれて、「レバレンド・ムーン」はアメリカ社会の精神革命を意味する一つの「イコン」(聖像、崇敬の対象)になっていきました。

 私はアメリカの若者に我慢と忍耐を教えました。自分を守ることができてこそ、宇宙を守ることができるという事実を切々と訴えました。


 「皆さんは、苦痛の十字架を背負いたいですか。誰も十字架の道を行きたいとは思いません。心では背負いたくとも、体が先に『ノー』と言ってしまうのです。見た目にはよく見えても、心にも良いとは限りません。見た目にはまことしやかでも、中を見れば、醜くて悪いものが多いのです。ですから、見た目に良いものばかりを求めて、その道ばかりを行きたくなったら、すぐに『こいつ!』と怒鳴って防がなければなりません。若者はひっきりなしに異性に引かれるのではありませんか?そういうときも、『こいつ!』と言って自分を止めなければなりません。自分で自分をコントロールできなければ、世の中で何をしようとうまくいきません。私が壊れれば宇宙が壊れるのです。」


 「宇宙主管を願う前に自己主管をせよ」という青年時代の座右の銘を彼らに訴えました。アメリカ社会は物質社会です。私は物質文明の真ん中に行って、心の問題を放しました。心は目にも見えず、手でつかむこともできません。しかし、明らかに私たちは心の支配を受けています。心がなければ何もありません。私はその心に愛を加えた真の愛を話しました。真(まこと)の愛を土台として明確な自我意識を持ち、自分自身を自らコントロールできてこそ、本当の意味での自由をつかむことができる、と訴えました。


 また、労働の大切さを教えました。労働は苦痛ではなく創造です。一生の間働いて暮らしても楽しいのは、労働が神様の世界に連結されているからです。人がする労働というのは、実際には、神様が創造しておいたものを使って、いろいろなものを作り出すことにすぎません。私が趣味として神様の記念品を作るのだと考えれば、実際、労働は何でもないことです。私は、物質文明がもたらす豊かな生活に慣れ、働く喜びを忘れてしまったアメリカの若者たちに、「楽しく働きなさい」と教えました。


 そしてまた、もう一つ、自然を愛する喜びを教えました。都市の退廃した文化にとらわれ、利己的な人生の奴隷となった青年たちに、自然がどれだけ大切かを話しました。自然は神様が下さったものです。神様は自然を通して私たちに語りかけます。一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を聞かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができるのだ、とアメリカの若者たちに話しました。





(36)夢にも忘れられない一九七六年、ワシントン記念塔  P.186


 一九七五年十月、ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに「統一神学大学院」(UTS)」を設立しました。教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を超えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解始めました。こうして、多くの有能な若者が私たちの学校で修士課程を終えて、ハーバード大学やエール大学の博士課程に進学していきました。彼らは今日、世界の宗教界を導く人材になっています。

 アメリカ議会は、一九七四年、七五年に私を招請しました。私は上下両院議員の前で「アメリカを中心とした神の御旨」という主題で講演を行いました。


 「アメリカは神の祝福によって誕生した国です。しかし、その祝福は、ただアメリカ人のためだけのものではありません。それは、アメリカを通して下された世界のための祝福です。アメリカは祝福の原理を悟り、全世界の人類を救うために自らを犠牲にしなければなりません。そのためには、建国精神に立ち返る一大覚醒運動を起こさなければなりません。数十に分かれたキリスト教を統合し、あらゆる宗教を一つにまとめて、世界文明の歴史に新たな一ページを加えるべきです。」


 私は、道行く若者に向かって訴えたのと全く同じことを、アメリカ議員の前で声高に訴えました。その時点で、アメリカ議会から招請を受けて講演した外国の宗教指導者は私しかいませんでした。続けて二度も議会の招請を受けると、韓国から来た「サン・ミョンムーン(Sun Myung Moon)」とは一体誰なのかと、関心を持つ人がとても増えました。


 その翌年の六月一日、ニューヨークのヤンキースタジアムで、アメリカ建国二百周年を祝う祭典を開きました。当時のアメリカは、建国二百周年を自ら祝ってくれるほど平穏無事とは言えない状況でした。共産主義の脅威に苦しんでいたのであり、青少年の多くは、麻薬や堕胎など神の願いとはかけ離れた人生を送っていました。私はアメリカ、中でもニューヨークが大きな病にかかっていると考えました。そこで、病に臥したニューヨークの心臓にメスを入れる気持ちで祝典に臨みました。


 祝典当日は驚くほどの雨が降り注ぎましたが、開始直前、会場一帯は晴れ、悪天候の苦難を劇的に超えて、大会は成功裏に行われました。まだ雨が降っている時のことです。バンドが「ユー・アー・マイ・サンシャイン(You Are My Sunshine)を演奏すると、ヤンキースタジアムに集まった人々は、全員で声を合わせて一斉に歌い始めました。雨に打たれながら太陽の光の歌を歌うので、口では歌を歌いましたが、目からは涙が出ました。雨水と涙が入り混じる瞬間でした。


 私は学校に通っていたとき、ボクシングをやっていました。ボクシングでは、いくらジャブを何回入れても体力のある選手はびくともしません。しかし、アッパーカットを一発大きく入れれば、どんなに体力のある選手でもぐらつきます。私は、アメリカという大国にアッパーカットを一発大きく入れるつもりでした。今までに成功したどの集会よりもはるかに大きな規模の集会を持ち、アメリカ社会に「サン・ミョンムーン」の名前をしっかり刻み付ける必要があると考えました。


 ワシントンDCはアメリカの首都です。アメリカ議会議事堂とリンカーン記念堂を直線で結んだほぼ真ん中にワシントン・モニュメントという記念塔があります。ちょうど削って尖らせた鉛筆を垂直に立てたのと同じ形をしています(高さ百六十九メートル)。その記念塔の下には、リンカーン記念堂まで続く幅の広い芝生広場があって、そこはアメリカの心臓部といってよい場所です。私は、そこで大規模な集会を開く計画を立てました。

 ワシントン記念塔の広場でイベントをするためには、アメリカ政府の許可を得なければならず、アメリカ公演警察からも許可を取らなければなりません。しかし、アメリカ政府は、私のことをあまり好ましく思っていませんでした。アメリカ政府が何度も申請書を突き返してきたため、大会当日の四十日前になってようやく許可を得ることができました。


 信徒たちも、あまりに大きな冒険だとして、誰もが引き留めようとしました。ワシントン記念塔前広場は、都心の真ん中に位置し、がらんとした、辺り一帯に何もない公園です。それも、木が生い茂って垣根になっている所ではなく、ただの青い芝生の広場です。ですから、もし人が集まらなければ、四方八方からその閑散とした様子があからさまになってしまいます。広い芝生の広場をぎっしりいっぱいにしようとすれば、数十万の人波が押し寄せて来なければならないのですが、果たしてそれが可能かということです。その時まで、ワシントン記念塔で大きな行事を行った人物は二人しかいませんでした。公民権運動の一環で「ワシントン大行進」を行ったマーティン・ルーサー・キング牧師と、大規模な宗教集会を開いたビリー・グラハム牧師です。そのような場所で大会を開こうと、私が挑戦状を突きつけたのです。


 私はその日の大会のために、休む間もなく祈祷しました。原稿を四回も書き直しました。大会の一週間前になっても、その日にどんな説教をすべきか心が定まっていませんでした。原稿を書き終えたのは、大会のわずか三日前です。本来、私は説教の前に原稿を用意することはしません。しかし、その時はそうしてみようと心が動かされました。どういう訳なのかはっきりしませんが、とても重要な大会になることは明白でした。


 ついに一九七六年九月十八日、夢にも忘れることができないその日が来ました。朝早くから人々がひっきりなしにワシントン記念塔に押し寄せてきました。何と三十万人という大勢の人の群れです。それほどの群衆が一体どこから押し寄せて来たのか、全く見当もつかないことでした。彼らの髪の毛の色や顔の色は皆、色とりどりでした。神様がこの地に送り出されたすべての人種が集まったかのようでした。それ以上何を言う必要もない、本当に世界的な大会になりました。


 私は三十万人の群衆の前で、「退廃的なアメリカの青年たちを危機から救い出し、希望の若者にするためにアメリカに来た」と堂々と宣布しました。私が一言一言語るたびに、観衆の中で歓呼の声が上がりました。東洋から来たレバレンド・ムーンが伝える教えは、混沌の時代を生きていた当時のアメリカの青年たちにとって、新鮮な衝撃でした。彼らは、私が伝える純潔と真の家庭のメッセージを歓迎しました。人々の熱狂的な反応に、私の体からも脂汗が流れてきました。


 その年の暮れ、『ニューズウィーク』誌は私を「一九七六年今年の人物」に選びました。しかし、また一方では、私を警戒し、恐れる人たちが増えました。彼らにとって私は、東洋から来た不思議な魔術師にすぎず、彼らが信じて付いていくような白人ではありませんでした。また、自分たちが良く聞く既成キリスト教会の教えと少々異なった話をするということが、彼らをとても不安にさせました。その上、白人の若者たちが「目が魚のように細長いアジア人」を尊敬し、彼についていくのを絶対に容認できませんでした。彼らは、私が純真な白人の若者を洗脳していると悪い噂を流し、私に歓声を送る群れの背後で、私に反対する勢力を集めました。またしても新たな危機が身近に迫ってきたのです。しかし、臆することはありませんでした。私は明らかに正しいことをしていたからです。


アメリカは人種差別と宗教差別が激しい国です。アメリカンドリームに憧れて、世界中からあらゆる人種が集まってくる自由と平等の国として知られていますが、実際は、人種差別と宗教差別によって激しい葛藤が生じている国です。それは、退廃と堕落、物質主義のような一九七〇年代の豊かさの中に現れた社会の病弊よりも、はるかに深くアメリカの歴史に根差した、簡単には治すことができない持病のようなものでした。


 その頃、宗教間の融和を導くために、私はよく黒人の教会を訪ねていったものです。黒人のリーダーの中には、マーティン・ルーサー・キング牧師に倣って、人種差別をなくし、神の平和世界を築こうと努力する隠れた人材がたくさんいました。

 彼らは、法的に人種差別が禁止される前、数百年間続いた黒人奴隷市場の写真を教会の地下室に展示していました。生きている黒人を木に吊るして火で焼く場面、奴隷として売られてきた黒人たちを鶏のように並べてその口を開ける場面、男女の黒人を裸にして奴隷を選ぶ場面、泣き喚く子供を母親の懐から引き離す場面など、およそ人間の心を持っていたならば到底できないような蛮行を犯す姿がそのまま写し出されていました。

 「見ていてください。これから三十年のうちに、黒人と白人の混血家庭から生まれた子供がアメリカの大統領になるでしょう。」


 一九七五年十月二十四日、シカゴの集会で私はそのように語り、その日の予言は、今やアメリカの現実のものとなりました。シカゴで誕生したオバマが大統領になったのです。しかし、私の予言は自然に成就したのではありません。宗教と教派間の葛藤をなくすために大勢の人の血と汗が流されたからこそ、今、一輪の花が咲いたのです。




(37)「私のために泣かずに世界のために泣け」 P.192



 ワシントン記念塔の集会には、驚いたことにアメリカの既成キリスト教会の牧師たちも信徒を大勢連れてやってきました。私の伝えるメッセージが宗教や宗派の別なく若者たちに感動を与えていると判断したのです。私は喉が張り裂けるほど声を大にして叫んだ「超宗教、超宗派」という目標が達成された瞬間でした。ワシントン記念塔の集会は奇跡でした。その日、集まった三十万人の群衆の記録は、今も破られていません。


 しかし、良いことには必ず悪いことも付いてくるものです。一部の在米ユダヤ人が、私の顔が描かれたポスターに八の字のひげを描き、ヒトラーを思わせるように手を加えました。彼らは私に反ユダヤ主義を意味するアンチ・セミティズムのレッテルを貼り、「ユダヤ人を虐待する人物」と印象づけて激しく攻撃してきました。ユダヤ人だけではありませんでした。私に従う若者が急速に増え、原理を学ぼうとする牧師の数が目立って増え始めると、既成キリスト教会も私を迫害し始めました。一方で、伝統的なキリスト教会が集中的に私を圧迫するようになり、他方で、「共産主義の拡散防止はアメリカの責任である」と説く私の主張に反発した革新系左派勢力が私を牽制し始めたのです。


 人気が高まるほど、私をめぐるさまざまな疑惑が提起されました。以前は全く問題にならなかったことが、突然深刻な問題となって私を圧迫しました。保守勢力は、私が革新寄りだとして、私の教える教理が伝統的な価値観を破壊すると主張しました。彼らが私を最も不満に思ったことの一つは、十字架に対する新しい解釈でした。


 救世主(メシヤ)として来られたイエス様が十字架につけられて亡くなったのは、神様の予定された御旨ではありません。イエス様が処刑されることによって、平和世界を築くという神様の計画は頓挫してしまいました。もしその時、イスラエル民族がイエス様をメシヤとして受け入れていれば、東西の文化と宗教が一つになる平和世界ができたはずです。しかし、イエス様は十字架にかかって亡くなったのであり、神様の人類救済の事業は、結局、イエス様の再臨以降に延長されたのです。このような十字架に対する私の新しい解釈が多くの反対を呼びました。既成キリスト教会はもちろん、ユダヤ人たちまでもが、すべて私を敵として激しく攻め立てたのです。彼らは、私をアメリカから追放しようと、さまざまなことを企てました。


 最終的に、またもや私は囚われの身となりました。奈落に沈んだアメリカの道徳性を目覚めさせ、神の御旨にかなう国として復興させることしかしていないのですが、アメリカは私に脱税の罪を着せたのです。年齢が六十をとうに超えている時です。

 私はアメリカに定着した最初の年に、世界各国から送られた宣教献金をニューヨークの銀行に預金しました。アメリカでは、宗教活動に使う基金は宗教指導者の名義で銀行口座に入れておくのが伝統的な習慣です。ところが、この銀行口座の預金から発生した三年間の利子所得を、私が所得として申告せず、脱税したと嫌疑をかけて、ニューヨーク連邦検事局は私を起訴しました。結局私は、1984年七月二十日、コネティカット州のダンベリー連邦刑務所に収監されました。


 ダンベリーに収監される前日、ベルベディア(ニューヨーク州ハドソン河畔にある教団施設)で最後の集会を持ちました。ベルベディアをいっぱいに埋めた信徒たちは、涙を流して私のために祈ってくれました。私に従う数千人の弟子たちが、ベルベディアに詰めかけてきました。私は彼らに向かって声高に叫びました。

「私は潔白です。私は何の過ちも犯していませんが、ダンベリー刑務所の向こうに昇ってくる輝かしい希望の光を見ながら行きます。私のために泣かず、アメリカのために泣いてください。アメリカを愛し、アメリカのために祈ってください。」

 悲しみにひたる若者たちを前に、私は希望の握り拳をぎゅっと握って見せました。


 刑務所に入る前に私が残した声明文は、宗教者の間に大きな波紋を呼び起こしました。判決に抗議して潔白を訴える運動が起き、私のために力強い祈祷の波が起きました。

私は監獄に入ることを恐れるものではありません。監獄生活に慣れています。しかし、周囲の人たちは、一部のユダヤ人が私の命を狙って何をするか分からないと恐れました。それでも私は堂々と監獄に入っていきました。




(38)「なぜ父が刑務所に行かなければならないのですか?」  P.195


 ダンベリー刑務所でも「為(ため)に生きる」という私の原則は何も変わりません。朝早く起き、汚れた場所をきれいに掃除しました。食堂に行っても、他の囚人は、テーブルに鼻をつけて寝ていたり、世間話をしたりするのですが、私は必ず背筋を伸ばして順番を待ちました。与えられた仕事は他の人よりずっと多くやって、周りの人の世話をしました。余った時間には私自身の説教集を読みました。夜でも昼でも説教集を読んでいるので、ある囚人が「それがお前の聖書か。俺の聖書はこれだが、一度見て見るか?」と雑誌を放り投げてきました。『ハスラー』というポルノ雑誌でした。


 ダンベリー刑務所の中で、私は「黙って働く人」「本を読む人」「瞑想(めいそう)する人」と呼ばれました。そうやって三カ月が経つと、監獄の中の囚人や看守とも親しくなりました。麻薬で捕まった人とも親しくなり、ポルノ雑誌を自分の聖書だと言っていた囚人とも親しくなりました。さらに一月、二月が過ぎると、今度は、収監されていた囚人たちが、自分がもらった差し入れを私に分けてくれるようになりました。彼らと気持ちが通じるようになると、監獄の中に春の日が差してきたかのようでした。


 監獄に行くのは悪いことばかりではないと私は思います。涙の谷まで泣く人を悔い改めに導くには、まず私が涙を流さなければなりません。私がそれ以上の悲しみを持たなければ、その人の心を開かせ、み言(ことば)を受け入れさせることはできないでしょう。天の摂理は本当に奥妙(おくみょう)です。私が監獄に閉じ込められると、意外にも、「宗教の自由」を侵害したアメリカ政府に対して憤りを露わにした聖職者七千人以上が、私を救い出すために立ち上がりました。その中には、アメリカのキリスト教保守派を代表する南部バプテスト教会ジェリー・ファウエル牧師や、オバマ大統領の就任式の際に祝祷を捧げた革新系のジュセフ・ローリー牧師(当時は南部キリスト教指導者会議議長)もいました。二人は救出活動の先頭に立ちました。娘の仁進(インジン)(当時十九歳)も、彼らと腕を組んで一緒に行進しました。七千人以上の聖職者の前で、涙して書いた手紙を読み上げることもしました。


 「皆さん、こんにちは。私は、文鮮明牧師の次女の文仁進(ムンインジン)です。一九八四年七月二十日は、世界の終末が私たちの家庭に訪れてきたかのようでした。この日、父は刑務所に入っていきました。このようなことが父の身に起きるとは夢にも思いませんでした。それも神が祝福した自由の地であり、父がとても愛し、奉仕してきたアメリカの地で起きたのです。父は、アメリカに来てとても熱心に活動しました。私は、父が眠っている姿を一度も見たことがありません。常に早朝に起きて祈り、活動しています。私は、アメリカの将来と神のために、父ほど献身的に活動する人を見たことがありません。ところが、アメリカは父をダンベリー刑務所に投獄してしまいました。父がなぜ刑務所に行かなければならないのですか?父は自分の苦痛は意に介さない人です。神の御旨を実践してきた父の人生には、涙と苦難が点在しています。今、父の年齢は六十四です。父にはアメリカを愛した罪しかありません。しかし、父は今この瞬間にも、刑務所の食堂で皿を洗ったり、床を磨いたりしています。先週、私は、囚人服を着た父と初めて面会しました。私は声をあげて泣きました。父は『私のために泣かないで、アメリカのために祈りなさい』と私を諭してくれました。全世界数百万の教会員に語った話を私にもそのまましてくれました。『お前の怒りと悲しみを、この国を本当に自由な国にすることのできる強い力に変えなさい』。父は刑務所の中で、いかなる苦労もし、いかなる苦痛にも耐え、いかなる十字架も喜んで背負うと話しました。『宗教の自由』はあらゆる自由の基礎です。『宗教の自由』を守るため父を支持してくださった皆さん、心から感謝申し上げます。」


 私は模範囚として認定され、六カ月減刑されて、十三カ月後に出監しました。刑務所の門を出ていった日の夜、ワシントンDCで出監歓迎晩餐会が開かれました。ユダヤ教のラビやキリスト教の牧師ら宗教指導者が千七百人も集まって、私を待っていました。私はそこで再び「超宗教・超宗派」を主張しました。誰の目を気にすることなく、大きな声で世の中に向かって叫びました。


「神は宗派主義者でも、教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての信条、そして大いなる愛の心には、民族と人種の区分がりません。国家や文化伝統の壁もありません。神はきょうも、万民を同じ息子・娘として抱くために努力しておられます。今、アメリカは、人種問題、価値観の混乱と社会や倫理・道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の衰退問題、無神論に立脚した共産主義問題など、深刻な病弊を抱えています。私が神の召命を受けてこの国に来た理由はここにあります。今日のキリスト教は、大きく覚醒し一つに団結しなければなりません。牧会者たちもまた、これまでの役割を再検討して、悔い改めなければなりません。イエス様が来られて『悔い改めよ』と叫ばれたその時の情景が、二千年を経た今、この地上に繰り返されています。私たちは、神がアメリカに命じた重大な使命を果たさなければなりません。このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければならないのです。」


 獄中生活を終えて出てくると、これ以上私を縛り付けるものがありませんでした。私は、以前よりもっと強い声で、堕落したアメリカに対して警告のメッセージを放ちました。神様に対する愛と道徳性を取り戻すことこそが、この国を再び立ち上がらせることができる力だと、強く訴えました。


 何らの罪もなく刑務所に入りましたが、神の御旨(みむね)はそこにもありました。私が刑務所に収監中から、私のために救出活動を起こした七千人を超す牧師たちは、代わる代わる釜山(プサン)のポムネッコルとソウルを訪ねました。一体レバレンド・ムーンのどのような精神がアメリカの若者たちをかくも引き付けるのか、それを知ろうというのです。彼らは短い訪問期間の中でも、わざわざ時間を割いて私たちの教理を学んで帰りました。私は彼らの中心に「アメリカ聖職者連合会(ACLC)」を組織して、今も宗教と教派の垣根を超える信仰運動と平和運動を展開しています。



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