平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第四章 (33)海に未来がある  P.168  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)


世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第四章 私たちの舞台が世界である理由・・・アメリカへ雄飛


(33)海に未来がある  P.168


 幼い頃から、私の心はいつも遠いところに向かっていました。故郷では山に登って海を慕い、ソウルに来てからは海の向こうの日本に思いを巡らしました。常に、今いる世界よりも、もっと広い世界を夢見ていました。


 一九六五年は、私が初めて世界巡回に出た年です。トランクいっぱいに韓国の土と石を詰めて持っていきました。世界を回って、要所要所に韓国の土を石を埋めるつもりでした。八ヵ月半で日本とアメリカ、そしてヨーロッパなど四十カ国を回りました。


 ソウルを出発する日、数十台のバスに分乗してやって来た信徒たちで、金浦(キンポ)空港はいっぱいになりました。北西の風が激しく吹きつける一月の飛行場に、黒山の人だかりができました。その頃は、外国に出て行くのはかなり大変な事でした。彼らが空港に集まったのは、誰かに言われたからではなく、自分の心が導くとおうぃにしたことです。私は信徒たちの思いをありがたく受け取りました。


 当時、私たちの宣教国は十カ国をわずかに超えるほどでしたが、私は二年で四十カ国に増やすつもりでした。四十カ国を巡回したのは、その基礎を固めるためでした。


 最初に訪問したのは日本です。密航して宣教を始めた日本で、私は大々的な歓迎を受けました。国法に背いての命がけの危険な出発でしたが、今考えてみれば、当時の私たちの選択はとても適切なものでした。

 私は日本の信徒たちに尋ねました。

「皆さんは日本的ですか?そうでないとしたら、日本的なものを超えましたか?」

 私は話しを続けました。

「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです。」


 日本の人々には冷たく聞こえたかもしれませんし、寂しく感じたことでしょう。しかし、私はあえてきっぱりと話しました。


 次に訪れたのはアメリカです。サンフランシスコ空港に降りた私は、アメリカ宣教師と共に二ヵ月間アメリカ全域を回りました。各州の巡回している間に、「全世界に号令する中心本部はアメリカだ。これから創建する新しい文化は、必ずアメリカを踏み越えていかなければならない」と痛感しました。私はアメリカの地に五百人収容できる修練所を建てようと計画しました。もちろん、韓国人だけでなく、百以上の国から修練性を受け入れる国際的な修練所を建てることが目標でした。


 幸い、その願いは間もなく果たされました。その後、毎年百カ国から四人ずつ送られたメンバーが修練所に集まり、半年間世界平和を研究し、討論することになりました。それは今でも続いています(この国際修練所は後に統一神学大学院となる)。人種や国境、宗教は何の関係もありません。私は、人種と国境、宗教を超えた多様な考えを持つ人たちが集まり、世界平和について虚心坦懐(きょしんたんかい)に議論することが、人類を成長させ、世界をより発展した社会にすることだと信じています。


 アメリカを巡回する間に、ハワイとアラスカを除く四十八州はすべて行きました。後部座席に荷物を載せられるワゴン車を借りて、昼夜兼行(けんこう)で走りました。運転手が居眠りすることがあると、「おいおい、疲れているのは分かるよ。しかし、遊びで来たわけではないのだ。大きな仕事をするために来たのだから、しっかり頼むよ」と言って、励ましました。どこかに楽に座ってご飯を食べることもしませんでした。車の中で、食パン二枚にソーセージを一つ入れ、ピクルスでものせて食べれば、立派な一食になります。朝昼晩といつもそうやって食べました。寝るのも車の中です。車が宿でであり、車がベッドであり、車が食堂でした。狭い車の中で、食べて、寝て、お祈りしました。何でもできないことがありませんでした。その時の私には達成すべき明確な目標があったので、体が少々不便なことぐらいは十分に耐えることができました。


 アメリカとカナダを経て中南米を回り、次にヨーロッパに渡りました。私の目で直接見たヨーロッパは、完全にバチカン文化でした。バチカンを超えなければヨーロッパを超えることはできないと思いました。峻険(しゅんけん)と言われるアルプスも、バチカンの威勢の前には何でもないものでした。


 ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカン(カトリック教会の総本山であるローマ教皇庁やサン・ピエトロ大聖堂がある)で、私も汗をぽたぽた流して祈祷しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を人間がそれぞれの立場で自分たちに有利なようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものになったのです。その後、エジプトと中東を経てアジア各国を回ることで、八ヵ月半の長い巡回を終えました。


 ソウルに帰ってきた私のトランクには、四十カ国、百二十カ所の地域から持って来た土と石がいっぱいに入っていました。韓国から持って行った土と石をその土地に埋めて、新たにその場所から持ち帰った土と石です。土と石で世界四十カ国と韓国を連結したのは、朝鮮半島を中心として平和世界が実現する未来に備えるためでした。私は、四十カ国すべてに宣教師を送り出す準備を始めました。


 広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ四十八州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。


 それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらになるか調べてみました。マイアミで二十五ドルする牛がニューヨークに行くと四百ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、一匹のマグロが四千ドルを超えます。さらに、マグロは一度に百五十万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。


 問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロと言えば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。


 私たちが暮らす地球は、陸地よりも海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、二百海里(約三百七十キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を取ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまででも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富であり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫と言えるでしょう。


 私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、三十四フィート(約十.四メートル)から三十八フィート(約十一.六メートル)程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないよっと大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、デンバー、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。


 研究もたくさんしました。一つの地域に一隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、一つ一つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。


 そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業界を大きくひっくり返してしまいました。


 次に、私たちはまた新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出て行く遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。

「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接載って、マグロを捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに「船に乗りなさい」と言うと、怖気(おじけ)づいて皆逃げてしまいます。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って七年以上が過ぎ、それから後も、九十歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください。」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、先ずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。


 ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時期に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。


  アメリカは、世界的な四代漁場の中で何と三つ持っている国です。それは、全世界の魚の四分の三がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく遅れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも二年半だけ船に乗れば、十パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市は繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。


 海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は一刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿(ざお)を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何ものも私たちを妨害できません。私たちを急(せ)き立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌(そうぼう)を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先(へさき)にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。


 ところがです。そのような波が荒々しく、風が激しく吹きつけるなかでも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が寄せても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。



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