平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(16)~(21) 《 「第二章 涙で満たした心の川 ーーーー 神の召命と艱難」 》 (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)

これまで掲載した《「第二章」》を(文字数の制限のため)二回に分けて掲載します。


 本日は(16)~(21)を掲載します。


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 第二章 涙で満たした心の川 ーーーー 神の召命と艱難 
  (16)~(21)
     (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)



(16)穏やかな心の海  P.86


 日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰った日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六カ月早く卒業することになりました。


 一九四三年九月三十日に卒業して、故郷の家には「崑崙(コンロン)丸に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出航する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、箆喬丸に乗り損ねてしまいました。


「崑崙(コンロン)丸に乗るなという天のみ意(こころ)のようだ」と思った私は、しばらく日本に留(とど)まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。毘嵜丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。


 息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑(チョンジュプ)の中心街まで二十里 (約八キロメートル) の道を走っていきました。足の裏に太い棘(とげ)が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。


 その後、汽車に乗って釜山(プサン)に下ってきました。釜山の海洋警察署に到着してみると、乗船者名簿に息子の名前はなく、東京の下宿からはすでに荷物をまとめて出発したと連絡を受けていたので、呆気(あっけ)にとられるばかりでした。


 日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡(ぬ)れていました。私はソウルの黒石洞(クソクトン)に再び腰を落ち着けて、明水台(ミョンスデ)イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面(きちょうめん)に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。

「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」

という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。


 人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝(ひざ)に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。


 神様は人類始祖アダムとエバを創造された後、生育し (人間として成熟し)、繁殖し (家庭を築き)、平和世界を築いて暮らしなさいと祝福してくださいました。しかし、アダムとエバは神様の定めた時と戒めを守ることができず、不倫を犯し、それによって二人の息子カインとアベルを生みました。堕落の落とし子となった息子たちは、互いを不信し、兄弟間の殺人を犯してしまいます。こうして平和は破れ、罪が世界を覆い、神様の悲しみが始まりました。ところが、人間はメシヤ(救い主)たるイエス様を殺すという大罪を再び犯してしまったのです。それゆえ、今日人類が被っている苦痛は、当然通過しなければならない贖罪(しょくざい)の過程であり、神様の悲しみは依然として続いているのです。


 神様が十五歳の私に現れたのは、人類始祖の犯した罪の根が何であるかを伝え、罪と堕落のない平和世界を築こうとされたためでした。人類が犯した罪を蹟罪し、太古の平和世界を復元するように、というのが、私が神様から授かった厳重なみ言(ことば)でした。神が願う平和世界は死んでから行く天国ではありません。神の願いは、私たちが生きるこの世の中が、太古に創造されたその場所のように、完全に平和で幸福な世界になることです。神は人類に苦痛を与えたくて、アダムとエバを誕生させたわけではないのです。私はこの驚くべきみ言を世の中に伝えなければなりませんでした。


 宇宙創造の秘密を解明すると、私の心は海のように穏やかになりました。私はぼろを着て下を向いたまま歩き回りましたが、心はあふれんばかりの神のみ言に満たされ、私の顔からは喜びの輝きが消えませんでした。





(17)「どうか死なずに耐え忍んでほしい」  P.90

 

 ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時が来たことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば従わざるを得ませんでした。そこで、仲人の経験豊富なある婦人に依頼して、定州(チョンジュ)の有名なキリスト教家庭の娘である崔先吉(チェソンギル)と見合いをしたのち、略式の婚約をしました。


 彼女はとても由緒ある家庭で生まれ育った真心を尽くす女性でした。小学校しか出ていませんでしたが、ほんのわずかでも人の世話にはならないという性格で、神社参拝を拒否して十五歳で獄中生活をしたほど、信念のある信仰深い女性でした。私は二十四番目の新郎候補だったそうで、彼女は新郎を選びに選んだのです。しかしながら、ソウルに戻った私は、見合いをしたことさえ忘れてしまうほど切迫した心情にありました。


 私はもともと、留学から戻ったら、中国、ソ連、モンゴルの国境都市である中国の海拉爾(ハイラル)に行く計画でした。満州電業株式会社に就職して三年ほど生活しながら、中国語とロシア語、モンゴル語を学ぼうと考えていました。日本に打ち勝つために日本語を教える学校に通ったように、来るべき未来に備えようと、三国の国境地域に行って外国語をいくつか学ぶつもりでした。ところが、当時、情勢が尋常ではありませんでした。どうしても満州に行ってはならないようで、就職予定を取り消しに満州電業安東(あんとう)支店〔安東は鴨緑江(アムノッカン)の対岸にある現在の中国・丹東(タントウ)〕に行きました。そこで手続きを終えた後、故郷の定州(チョンジュ)に戻ってみると、お見合いを準備してくれた婦人が大騒ぎを起こしていました。婚約した女性が私でなければ嫁に行かないと言い張って大変だと言うのです。私を見るやいなや女性の家に連れて行きました。


 私は彼女に、これから私がどう生きていくかをはっきりと話しました。

「いま結婚しても、少なくとも七年ほどは、あなた一人で生きる覚悟をしなければならない」

「なぜそうしなければならないのですか」

「私には結婚生活よりもっと重要なことがある。実際、結婚するのも神様の摂理を遂行するためだ。私たちの結婚は、家庭を超えて、民族と人類を愛することのできる位置まで行かなければならない。私の意志がこうであっても、心から私と結婚したいのか」


 すると女性は、「好きなようにしていいです。あなたに会った後、月の光の中で花が満開になっている夢を見たので、あなたは問違いなく天が私に下さった連れ合いです。ですから、どのような困難があっても我慢できます」と、気丈な態度で答えました。それでもまだ不安だった私は、何度か彼女の固い誓いを確認し、そのたびに彼女は「あなたと結婚できさえすれば、どんな事情があっても尽くすので、何の心配もしないでください」と答えて、私を安心させました。


 四月に結婚式を挙げる予定が、義父が急に亡くなったので、当初の日取りを延期して一九四四年五月四日に婚礼を行いました。五月は普通ならのどかな春の日ですが、その日は土砂降りの雨でした。イエス教の李浩彬(イホビン)牧師が主礼を務めてくれました。李浩彬牧師は光復(こうふく)(日本の敗戦で植民統治から解放されたこと。一九四五年八月十五日を指す)後、南に下って超教派的な中央神学院を設立した人です。


 自炊していたソウルの黒石洞(フクソクトン)で新婚生活を始めました。「まあ、まるで卵を扱っているみたいで、どれだけ美しいお嫁さんなのかしら」と言った下宿屋のおばさんの言葉どおり、私は妻を心から大事にし、愛しました。


 当時の私は、ソウルの龍山(ヨンサン)にある土木会社の鹿島(かじま)組京城営業所に就職して、会社の仕事と教会の仕事を一緒にしていました。ところがその年の十月、新婚の家に突然日本の警察がやって来て、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道(キョンギド)警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。


 警察に連行された私は、いきなり拷問を受けました。

「おまえも共産党だろう?内地に留学して、そいつと同じ仕事をしただろう?おまえがいくら違うと意地を張っても無駄だ。警視庁に照会すれば分かるようになっている。こんな所で犬死にしないように、共産党の奴(やつ)らの名前を全部吐くことだな」


日本で同じ活動をしていた友人の名前を吐けと言って、机の脚に使う角材が四本とも壊れるほど殴られましたが、私は最後まで話しませんでした。


 すると、次に警察は、黒石洞(フクソクトン)の新婚の家を家捜(やさが)しして日記帳を押収しました。彼らは日記帳を一枚一枚めくっていって、友人の名前を突き止めようとしましたが、私は死を覚悟して知らないと突っぱねました。


 戦争は終わりの時が近づき、焦りの色を濃くした日本の警察の拷問は、とても言葉で言い表せないほど残酷でした。彼らは鋲(びょう)を打った軍靴(ぐんか)で私の体を容赦なく踏みつけ、私が死んだようにぐったりすると、天井に吊(つる)して揺らしました。精肉店の肉塊と化した私の体は、彼らが押す棒に任せてあちこち揺れ動き、口からは鮮血がほとばしってセメントの床を濡(ぬ)らしました。何度も気を失い、そのたびにバケツ一杯の冷水をかけられ、意識が戻ればまた拷問です。鼻をつまんで、洋銀製のやかんを口の中に突っ込み、大量の水を無理やり飲ませる拷問もありました。床に倒れた後、カエルのように膨れ上がったおなかを軍靴(ぐんか)で踏みつけます。食道を通って上がってきた水を吐き出すと、目の前が真っ暗になって何も見えませんでした。そんな拷問を受けた日は、食道が燃えるように痛み、水っぽい汁でさえ一口も喉を通らず、剥き出しの床に力なく俯(うつぶせ)になって、ぴくりとも動けませんでした。


 私はついに友人の名を口にせず、拷問を耐え抜きました。意識が朦朧(もうろう)となる中でも、それだけは死に物狂いで守り通しました。ところが、業を煮やした警察は、故郷の母親を呼ぶ作戦に出たのです。足が伸びきって思うように立つこともできなかった私は、複数の警官に両腕を挟まれて、面会室まで辛うじて歩いて行きました。母は私に会う前から、もう目の周りが涙でただれていました。血まみれになった息子の顔を見て、

「少しだけ我慢しなさい。自分が何としてでも弁護士をつけてあげるから。その時までどうか死なずに耐え忍んでほしい」

と必死に訴える母でした。しかし、「いくら志が良くても、おまえの命を守るほうが先だ。絶対に死んではならない」と言って泣いている母を眺める私の心は、つらく切ないものでした。心の中では、「お母さん!」と言って共に抱き合い、こんこんと泣きたい気持ちでした。けれども、母親に面会させる警察の意図をよく知る私としては、そうはできなかったのです。母の言葉に私ができる返事と言えば、裂けてぶくぶくと膨れた目をしきりに瞬きさせることだけでした。


京畿道(キョンギド)警察部に拘束された四カ月間、下宿屋の李奇鳳(イギボン)おばさんとその姉妹たちが交代で差し入れをしてくれました。おばさんは面会するたびに泣くので、私は「少しだけ我慢すれば、この時代は間もなく終わります。遠からず日本は滅びますから、泣かないでください」とおばさんを慰めました。それは自分の言葉ではなく、神様が私に下さった信仰でした。


 翌一九四五年二月、警察から解放されて出て来るとすぐ、私は下宿の日記帳をひとまとめにして、漢江(ハンガン)の川辺に行きました。そして、もうこれ以上友人に被害が及ばないように、そのたくさんの日記帳をことごとく焼き捨てました。そのまま残しておけば、私が監獄に入るたびに禍根になるかもしれないものでした。


 拷問でぼろぼろになった体はなかなか回復しませんでした。長い間血便が出て、体を動かせずに難儀する私を、下宿屋のおばさんの姉妹たちが真心を込めて世話してくれました。


 ついに一九四五年八月十五日、待ちに待った光復(こうふく)の日が来ました。三千里半島 (朝鮮半島の南北の長さを三千朝鮮里とした伝統的表現) が「万歳(マンセー)!」の声と太極旗(たいきょくき)の渦に覆われた感激の日でした。しかし私は、遠からず朝鮮半島に訪れるであろう驚くべき災難を予感して、とても深刻になり、喜んで万歳を叫ぶことができませんでした。独り小さな部屋に閉じこもって、祈りに熱中しました。不吉な予感どおり、祖国は日本の植民地支配から解放されましたが、すぐに三八度線で国が二つに分かれました。北朝鮮の地に、神の存在を否定する共産党が足を踏み入れたのです。





(18)拒否できない命令  P.95


光復(こうふく)の直後、韓国の実情は言うに言えない混乱状態でした。お金があっても、米を手に入れることは簡単ではありませんでした。とうとう家に米がなくなったので、買っておいた米を取リに黄海道(ファンヘド)の白川(ペクチョン)に向かいました。その途中でのことです。


「三八度線を越えて行きなさい!北の方にいる神様に仕える人々を取り戻しなさい!」という啓示が下りました。


 私は即座に、三八度線を越えて平壌(ピョンヤン)に向かいました。長男が生まれて二(ふた)月しか経(た)っていない時でした。今か今かと私を待つ妻が心配でしたが、家に戻る余裕はありませんでした。神のみ言(ことば)は厳しいものです。み言を受けたら、従順に即応しなければなりません。創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの『聖書』一冊だけを携えて、私は三八度線を越えて行きました。


 その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に、共産党が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下ってきました。宗教はアヘンだと言って、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。そのような地に、私は天の召命を受けて向かったのです。牧師であれば嫌う共産党の支配する世界に、私は自分の足で歩いて入っていきました。


 避難民が増えるや、北側の警戒が物々しくなって、三八度線を超えることすら容易ではありませんでした。しかし、百二十里 (約四十八キロメートル) の道を歩いて三八度線を越え、さらに平壌に到着する時まで、なぜこの険難(けんなん)な道を行かなければならないかと私は一度たりとも疑いませんでした。


 一九四六年六月六日、平壌(ピョンヤン)に到着しました。もともと平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろしている所です。日本の占領期には、神社参拝は言うに及ばず、皇居のある東方に向かって敬礼させる東方遥拝(ようはい)など、ありとあらゆる弾圧が縦横に加えられました。私は平壌の西門に近い景昌里(キョンチャンニ)の羅最燮(ナチェソプ)氏の家で伝道生活を始めました。その人は南にいた時から知っていた教会の執事です。


 最初の日、近くの子供たちを集めて世話をすることから始めました。子供たちが来れば、『聖書』のみ言を付け加えた童話を聞かせて、一緒に遊びました。子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話しました。そうしながら、私が伝えたい新しいみ言を誰かが聞きに来るだろうと待ったのです。ある時は一日中門の外を眺めて、人を懐かしく思ったりもしました。そうやってじっと待っていると、やがて篤実な信仰心を持った人たちが私を訪ねてくるようになりました。その人たちを迎えて、私は夜通し新しいみ言を教えました。訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと腰の曲がった目の遠い老人であろうと、愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。年取ったお爺(じい)さん、お婆(ばあ)さんが訪ねてきても、夜遅くまで話をしました。「なんだ、年を取った老人なので嫌だな」というような思いを持ったことは一度もありません。人は誰でも尊いのです。人が尊いことにおいて、老若男女に差別はありません。


 二十六歳の若々しい青年がローマ人への手紙やヨハネの黙示録を教えるのですが、その話が今まで聞いたことのない内容なのか、志のある者が一人、二人と集まり始めました。毎日のように来ては、喋(しゃべ)ることもなく、ただ話だけを聞いていった器量の良い青年である金元弼(キムウォンピル)は、そうやって私の一番目の弟子になりました。私は、平壌師範学校を卒業し教鞭(きょうべん)を執っていた彼と二人で、交代でご飯を炊いて食べ、師弟の絆(きずな)を深めました。


 私は一度『聖書』の講義を始めると、信徒たちがやることがあると言って先に席を立たない限りは休みませんでした。精いっぱいの情熱を注いで教えたので、体中から汗が滝のように流れました。みんなに分からないように、外に出て服を脱いで絞ると、服から水がぽたぽたと落ちます。暑い夏だけではありません。雪の降る厳寒の季節でもそうでした。そうやって全身全霊を込めて教えました。


 礼拝を捧(ささ)げる時は必ずきれいな白い服を着ました。讃美歌を数十回繰り返して歌い、情熱的な礼拝を捧げました。参会者が感動にあふれて涙を流すので、世間は私たちの教会を指して「泣く教会」とも呼んだのです。礼拝が終わると、一人一人が受けた恵みを証(あか)しします。証しをしている間、参会者は皆、恵みによって体が天に舞い上がるような体験をしました。


 私たちの教会には、入神する人、予言する人、異言を語る人、また異言を通訳する人等々、霊通する人が多く現れました。時として私たちの教会に合わない人が来ていたりすると、霊通した人が目を閉じたままその人のところに行って、肩をバーンと叩(たた)きます。すると、叩かれた人は急に涙や鼻水を流して、悔い改めのお祈りをするようになります。そうやって熱い聖霊の火がサーッと通り過ぎていくのでした。


 聖霊の火の役事(やくじ)〔神のみ業(わざ)神霊の働き〕が起こると、長い間患っていた病気がきれいに治ったりもしました。特に、私が残したご飯を食べて胃腸病が治ったという人の話が周囲に広まると『教会のご飯は薬ご飯』と言って、私が残したご飯を待つ人も大勢現れました。


 このような聖霊の体験が知られてから、教会の門を閉めることができないほど信者の数が増えました。池承道(チスンド)ハルモニ (お婆さん) や玉世賢(オクセヒョン)ハルモニは、夢の中で「若い先生が南から上がってきて、万寿台(マンスデ)を渡ったところにいる。行って会いなさい」という言葉を受けて、訪ねてきました。誰かが伝道したとか導いたとかではなくて、天が教えた住所を聞いて、路地を歩き回って探し当て、「夢でお会いした方がまさに先生です」と言って喜んだのです。神学を勉強した牧師たちも私を訪ねてきました。私は彼らの顔だけ見ても、何が気がかりで訪ねてきたかが分かりました。何も聞かずに彼らの疑問に答えを示してあげると、喜びながら、びっくりして感激に震えるばかりでした。


 自ら悟って体験した話から神のみ言(ことば)を説いたせいか、今まで理解できずに疑問だった部分がすっきりと解決されたと言って、多くの人たちが喜びました。大きな教会に通った人の中には、私の説教を聞いて、通っていた教会をやめて私たちの教会に来る人もいました。平壌(ピョンヤン)で一番有名な章台峴(チャンデヒョン)教会の中核メンバー十五人が一度に私を訪ねてきて、教会の長老たちが激しく抗議してきたこともあります。


 金仁珠(キムインジュ)夫人の義父は平壌で有名な長老でした。しかし彼女は義父の教会には行かず、家が義父の通っていた教会のそばだったので、夫の家族に気づかれないように、庭の甕(かめ)置き台を上がって、家の塀を越えて私たちの教会に来たのです。夫人はおなかに娘がいる体で、二尋(ひろ) (約三・六四メートル)ほどの高さになる塀を、危険を顧みずに跳び越えて来ました。これが元で、彼女は長老である義父母から激しい迫害を受けました。私もそのことを知っていました。ひどく胸が痛む日は、信者を夫人の家に送って様子を」かがわせましたが、そのような日は間違いなく義父から鞭(むち)打たれていました。よほどひどく叩(たた)かれたのか夫人は血涙を流していました。


 ところで、夫人は食口(シック) (家族の意。教会の信徒を、親しみを込めてこう呼ぶ) たちが門の外に立っていると少しも痛くいと言います。「先生は、私が鞭(むち)打たれるとどうしてお分かりになったのですか。食口がいると私は痛みもなく、叩く義父の方がくたびれてどうすることもできないのです。一体どうしたことでしょうか」と話していました。


 鞭(むち)を振るい、柱に縛り付けておいても、嫁が懲(こ)りずに私たちの教会に行くようになると、金仁珠(キムインジュ)夫人の家族が教会にやって来て、いきなり私を殴ったりもしました。服が破れ、顔が大きく腫れ上がりましたが、私は一度も刃向かいませんでした。刃向かえば、夫人がもっと困難になるとよく知っていたからです。


 大きな教会に通う信徒たちがどんどん抜け出してくると、既成キリスト教会の牧師たちは、私をねたんで警察に告発するようになりました。ただでさえ宗教を目の上のこぶと見て一掃しようと狙っていた共産党当局は、格好の口実を得て私を捕らえにかかりました。


 一九四六年八月十一日、私は「南から上がってきたスパイ」の汚名を着せられて、平壌の大同保安署に連行されました。南の李承晩(イスインマン)が半島北部の政権に欲を出して密(ひそ)かに北に派遣したスパイだと決めつけたのです。


 監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達になってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。


 数日経つと、一番端っこに座っている私を、監房長が上の場所に引っ張ってくれました。便器のそばのとても狭い隅っここそ私が一番好む場所なのに、しきりにもっと良い場所に座れと言ってきます。いくら嫌だと言ってもどうしようもないことでした。


 監房長と親しくなったら、今度は監房の住人を一人一人調べてみます。人の顔はその人の何もかもを物語ってくれます。「ああ、あなたはこうだからこのような人であり、あなたはああだからあのような人である」と言って話を始めれば、誰もが驚きました。初めて会った私が心の中を言い当てるので、内心は嫌っても認めざるを得ません。


 誰であっても心を開いて愛情をもって接するので、監房でも友人ができ、殺人犯とも親しくなりました。やるせない監獄暮らしだったとはいえ、私には私なりに意味のある鍛錬期間でした。この世の中に意味のない試練はありません。


 監獄ではシラミもノミも皆友達です。獄中の寒さは格別なものがあって、囚人服の仮縫いのところから糸を伝わって行き来するシラミを捕まえて一箇所に並べると、シラミどうしが互いにへばり付き合って丸くなるほどです。それをフンコロガシのようにごろごろ転がせば、互いに離れまいと必死になります。シラミはもともと入り込む性質があって、互いに頭を突き合わせてくっついてはお尻(しり)だけ出しているので、この光景を見るのも面白くてたまりません。


 世の中にシラミやノミを好きな人はいないでしょう。しかし、監獄ではシラミやノミも貴重な話し相手になります。南京虫やノミを見る瞬間、ふと悟る啓示がありますが、それを逃してはなりません。神がいつ何を通して語られるか予測できません。南京虫やノミであっても貴く思って調べてみることができなければなりません。


 監獄にいる間、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、「天のお父様、私をちょっと助けてください」という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、「お父様、心配なさらないでください。文鮮明(ムンソンミョン)はまだ死にません。こんなふうにみすぼらしく死んだりしません」と言って、堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれらをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度のいくじなしの私ではありません。今も私の体にはその時できた傷跡がいくつか残っています。肉が削(そ)げ、血が流れた箇所は、今はもう新しい肉が付きましたが、その日味わった激しい苦痛は、傷跡の中にそっくりそのまま残っています。私は、その日の苦痛が染み付いた傷跡を眺めて誓ったこともあるのです。

「この傷を持ったおまえは必ず勝利しなければならない」

 ソ連の調査官まで出てきて私を糾弾(きゅうだん)しましたが、罪がないのでどうしようもありません。結局、およそ三カ月後の一九四六年十一月二十一日、捨てられるようにして釈放されました。拷問であまりに多くの血を流して命の危険がある状態でしたが、信徒たちがよく世話してくれました。無条件に尽くして私に生命を与えてくれました。


 こうして、私はもう一度気力を振り絞って教会の仕事を始めました。教勢が急に大きくなったのは、それから一年を過ぎた頃です。ところが、既成キリスト教会はそのような私たちを放っておきませんでした。既成教会の信徒たちがより一層私たちの教会に集まるようになると、反対する既成キリスト教会の牧師八十人以上が、共産党当局に投書して私を告発しました。これを受けて、私は再度共産党によって連行されたのです。平壌内務署に捕縛された日が一九四入年二月二十二日でした。鎖を付けて引かれていき、四日目に頭を刈られました。その時に私の頭を刈った人の姿まで生き生きと覚えています。教会を切り盛りしていた間に長く伸びた髪の毛が、ぼとりと床に落ちました。


 捕縛されるやいなや、またしても鋭い拷問が開始されました。拷問を受けて倒れるたびに、「私が受ける鞭(むち)は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ」という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。神様は息が絶えるか絶えないかという瞬間に現れます。


 公判は四月七日でした。本来、拘禁されて満四十日になる四月三日が公判の予定でしたが、七日に延期されたのです。公判廷には、北で有名な牧師たちがぞろぞろと集まってきて、私にありとあらゆる悪口を浴びせました。宗教はアヘンだと言う共産党も私を嘲笑(ちょうしょう)しました。公判を見に来た教会の信徒たちは、弁護側の席で物悲しく泣いていました。まるで子供や夫が世を去ってしまったかのように哀切な祈りを捧げていました。しかし、私は涙を流しませんでした。私を見て身悶(みもだ)えして泣いてくれる信徒たちがいるので、天の道を行く者として少しも寂しくなかったのです。「私は不幸な人ではない。だから泣いてはならない」と思いました。判決を受けて公判廷を後にする際、彼らに手錠のかかった手を振ってあげると、手錠からチャランチャランと音がしました。その音がちょうど鐘の音のようでした。私はその日すぐに平壌刑務所に収監されました。





(19)ご飯粒一つが地球よりも大きい  P.104


 平壌刑務所に入所して一カ月半が過ぎた五月二十日、私は興南(フンナム)監獄に移送されました。自分一人であれば逃亡でも何でもできましたが、強盗犯や殺人犯と一緒の組になっていたので、できませんでした。列車で十七時間ほどかかる遠い道のりを行きながら、じっと座って窓の外の光景を眺めていると、悲しみが込み上げてきました。脇を小川の水が流れ、うねうねと谷間に続くその道を、囚人の身となって行かなければならないのです。開いた口がふさがらないとはこのことでした。


 興南監獄とは、興南窒素(ちっそ)肥料工場の特別労務者収容所のことです。そこで私は二年五ヵ月の間、苦しい強制労働に従事しました。強制労働はもともとソ連で始まったものです。ソ連は、世論と世界の目があるために、資本家や反共主義者をむやみに抹殺するわけにはいかず、新たにこの刑罰を考案しました。強制労働の刑を受けると、つらい労働にへとへとになりながら死ぬまで働くしかありません。この制度をそのまま真似た北朝鮮の共産党は、すべての囚人に強制労働をさせました。過酷な労働をくたくたになるまでやらせて、自然と死ぬように仕向けたのです。


 興南(フンナム)監獄の一日は明け方四時半に始まります。囚人を全員起こして前庭に整列させ、不法な所持品がないかどうか、まず身体検査をします。衣類を全部脱がして、埃(ほこり)一つも見落とさないようにパタパタ叩いて隈(くま)(な)く探すので、優に二時間はかかりました。興南は海が近く、冬には脱いだ体に寒風が吹きつけて、肉が抉(えぐ)られるような痛みがありました。身体検査が終わると、粗末な朝ご飯を食べ、十里 (約四キロメートル) の道を歩いて工場に向かいます。四列に並んで、顔を下に向けたまま、手をつないで歩きます。囚人たちの周りを小銃と拳銃で武装した警備員たちが付いて行きました。万一列が乱れたり、手が離れたりすると、脱走の意図ありとみなされ、容赦なく殴打されました。


 雪が道に積もった冬の日、寒い明け方の道を歩いていくと、頭がくらくらしました。凍りついた道はよく滑るし、肌に突き刺さるような冷たい風が吹くと、頭の後ろの毛が逆立ちます。朝ご飯を食べたといっても、元気は出ません。足を踏み外してばかりいる毎日でした。しかし、力の抜けた足を引きずってでも工場に行かなければなりません。道すがら意識が朦朧(もうろう)となる中で、私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました。


 肥料工場には、肥料の原料となる硫酸アンモニウム(硫安)が山となって積まれていました。ベルトコンベヤーで運ばれてきて、そこから下に降り注ぐ硫安は、白い滝のようにも見えました。降り注いだばかりの硫安は熱を帯びて、真冬にも湯気がゆらゆらと立ち上るほどでしたが、時間が経(た)つと冷めて氷のようにかちかちになりました。山と積まれた硫安をすくい上げて、かます(わらむしろを二つ折りにして縁をとじ、袋にしたもの)に入れるのが私たち囚人の仕事でした。「肥料山」高さ二十メートルを超える巨大な硫安の山の呼び名です。八百人から九百人が大きな広場に出て、硫安をすくい上げて袋詰めする場面は、あたかも大きな山を二つに分けるかのようでした。


 十人一組で一日に千三百かますやるのが私たちに与えられたノルマです。一人の一日当たり責任量は百三十かますになります。それをやらないと食事の配給が半分に減らされてしまうので、生死の分かれ目と思って必死に働きました。硫安を詰めたかますを少しでも楽に運ぼうと、針金で輪を作って、かますを結ぶ際に使いました。運搬用のトロッコ(貨車)が通るレールの上にこの太い針金を乗せておくと、平らに潰(つぶ)れて針の代わりに使えます。かますに穴を開ける時は、工場のガラス窓を破って、そのガラスを使いました。看守も苦しい労働に悩まされる囚人に同情して、工場の窓を破るのを見てもそのままにしていました。私はある時、その太い針金を歯で噛(か)み切ろうとして、そのまま歯が真っ二つに折れてしまいました。今でも私の門歯をよく見れば歯が欠けていますが、興南監獄で得た忘れることのできない記念品です。


 どの囚人も重労働で疲労困憊(こんぱい)して痩せこけていくのに、私は体重七十ニキロをずっと維持して、囚人たちの羨望(せんぼう)の的でした。体力だけは維持して少しも他人が羨(うらや)ましくなかった私も、一度だけマラリアにかかってとても大変だったことがあります。一(ひと)月近くマラリアにかかっていても、私が仕事をできなければ他の囚人たちが私の分までやらなければなりません。そうならないように、一日たりとも休みませんでした。このように体力があったので、私は「鉄筋のような男」と呼ばれました。いくらつらい重労働であっても我慢できました。監獄であろうと強制労働であろうと、この程度は問題になりません。どんなに鞭(むち)が恐ろしく、環境が悲惨だとしても、心に確固たる志があれば動揺しませんでした。


 日本の川崎鉄工所で働いた時、タンクに入っていって硫酸を清掃しましたが、毒性のために死んだ人を数人目にしました。しかし、興南工場は、それとは比較にならないくらいひどい所でした。硫酸は有害で、触れると髪の毛が抜け、皮膚から粘液が流れます。硫安工場で六カ月も働けば、喀血(かっけつ)して死ぬ人もいます。指を保護しようと指貫(ゆびぬき)をはめても、かますを結んでいると、有毒な硫安に触れてすぐに穴が空いてしまいました。着ていた衣服は硫安で溶けて擦り切れてしまい、肉がひび割れて血が流れるか、骨が露(あら)わになる場合もありました。肉が削(そ)げ落ちたところから血がどろどろと流れ、粘液がだらだら出てきても、一日たりとも休まずに仕事をしなければなりませんでした。


 それだけ仕事をしても、ご飯は一日に小さな茶碗で二杯にならない配給しかありません。おかずはほとんどなく、スープは大根の葉の入った塩水がすべてでした。スープはちょっと口にしただけでも塩辛かったのですが、石のようにごつごつしたおかずなしのご飯はそのままではのみ込めないので、そのような塩辛いスープでさえも貴重で、誰一人としてスープの汁を無駄にする者はいませんでした。


 ご飯茶碗を受け取ると、どの囚人も一瞬にして丸ごと口の中に入れます。自分の分を食べ終わると、他の人がご飯を食べる姿を、喉(のど)を鳴らして眺めています。ある時は、我知らず人のご飯茶碗にスプーンを突っ込んで、争いが起きることもありました。同囚のある牧師は、「豆一粒だけくれたら外に出てから牛二頭あげる」と言ったほどです。死人の口の中に残ったご飯粒まで取り出して食べるほどでした。興南工場で味わった空腹は、それほどまでに凄絶(せいぜつ)でした。


 空腹がもたらす苦痛は、実際に味わってみなければ分かるものではありません。空腹が極まったときは、ご飯粒一つでもどれだけ貴いかしれません。今も興南のことを思うだけで気持ちがさっと引き締まります。ご飯粒一つがそこまで人間の全神経を刺激できるということが信じられませんでした。おなかが空けば涙が出るほどご飯が恋しくなり、母親よりもっと恋しくなります。おなかがいっぱいのときは世界の方が大きいのですが、おなかが減ればご飯粒一つが地球よりもっと大きいのです。ご飯粒一つの価値とは、そのように驚くべきものです。


 興南監獄では、配給された握り飯の半分を同僚たちに与え、残りの半分だけを食べました。約三週間そうやって実践した後、初めて握り飯一つを全部食べました。二人分のご飯を食べたと考えれば、空腹に耐えることがとても楽になります。


 興南の実態は残酷の一語に尽き、実際に体験したことのない人には想像すらできないでしょう。囚人の半数が一年以内に死んでいきます。死体を入れた棺桶(かんおけ)が毎日のように監獄の裏門に運ばれていくのを見つめなければなりませんでした。全身のあぶらが一滴残らずなくなるような仕事ばかりさせられて、死んで初めて門の外に出ていくことができたのです。いくら無慈悲で冷酷な政権であっても、それは明らかに人間としての限界線を越えたものでした。そのように囚人の涙と怨念(おんねん)がこもった硫安入りのかますは、港からソ連に運ばれていきました。





(20)雪の降る興南監獄で  P.109


 監獄で、食べ物の次に恋しかったのが針と糸でした。労働でぼろぼろになった衣服を繕おうとしても、針と糸がないとそれができません。そうなると、獄中生活が長くなればなるほど乞食(こじき)のような格好になってしまいます。特に、興南の冷たい冬の風を何とかしようとしたら、穴の空いた衣服をそのままにはしておけず、そんな時は道で拾った小さな布切れでもとても貴重です。鉄屑(てつくず)が付いた布であっても、みんなが争って拾おうとして大騒ぎになります。布は何とか確保できても、針を手に入れるのはさらに大変でした。ところが運のいいことに、硫安のかますを運ぶ途中に、偶然針一本がくっついてきたのを見つけました。田舎から持ってくるかますに、なぜか混ざっていたのです。その時から、私は興南監獄の針仕事屋になりました。針を手に入れたのがうれしくてたまらず、毎日のように他の人のズボンや股引(ももひき)を縫ってあげました。


 肥料工場は、真冬でも汗がたらたら流れるほど暑く、冬でもそうなので、真夏の暑さは想像を絶すると言ってよいでしょう。それでも私は、一度もズボンの裾(すそ)を巻き上げて向(む)こう脛(ずね)を出したことがありません。一年で一番蒸し暑い時期でも、必ず裾の紐(ひも)を結んで働きました。他の人がズボンを全部脱いで放り投げ、下着姿で働くときでも、私はちゃんとしたズボン姿で働きました。


 一日工場で仕事をしてくると、体中が汗と肥料の粉でべとべとになります。大部分の人が仕事を終えるやすぐに服を脱いで、工場から流れてくる汚い水で体を洗いました。しかし、私は一度も体を出して洗うことをしませんでした。その代わり、配給でもらうコップ一杯の水を夜の間残しておいて、まだみんなが眠っている明け方に起きて、タオルに水を濡らして体をふきました。明け方の霊気を集めてお祈りをするためでもありますが、自分の尊い体をむやみに人前にさらしてはならないという考えから、そのようにしました。


 監獄では三十六人が一部屋の監房に生活しましたが、非常に狭い部屋の隅に置かれた便器の横が私の居場所でした。夏になれば水があふれて湿っぽくなり、冬になれば氷が凍って、誰もが嫌がる場所です。便器といっても蓋(ふた)のない小さな入れ物があるばかりで、その臭気は筆舌に尽くしがたいものがありました。


 塩のスープに蕎麦(そば)の握り飯を食べた囚人は、ともすれば下痢を起こしました。

「ああっ、おなかが!」

おなかをかばって便器まで刻み足で走ってきた囚人が、お尻を出すやいなや、慌てふためいて液便をザーッと出すので、便器の横にいる私はややもすると液便を被りました。


 全員が寝静まった夜中にもおなかが痛む人はいるようです。

「あっ、痛っ」

 と言って、足を踏まれた人の悲鳴が聞こえると、私は素早く起きて隅に行って座ります。人を踏んづけて急いで便器まで駆けてきた人は、そこに来てお尻を出す前に下痢便を漏(も)らし、無理にでもそのまま我慢して排泄(はいせつ)するので、飛沫(しぶき)が飛び散って悲惨なことになります。寝入っていて、きれいによけられない日は、そのまま被るしかありません。それでも、四六時中液便が跳ねるその隅の場所を、私の居場所と思い定めて生活しました。「よりによっていつもそんな所に座るのはどうしてか」と他の囚人に聞かれると、「ここが一番楽です」と答えました。わざとそうしたということではないのです。その場所に座ると本当に気持ちが楽になりました。


 私は文学や芸術を特別なものだとは考えません。何であっても私と心が通じて親しくなれるなら、文学であり芸術なのです。便所で便が落ちる音が美しく楽しく聞こえれば、それもまた音楽と異なるところはありません。同様に、便器の前で横になっている私に跳ねた液便も、私の考えに従えば素晴らしい芸術作品になることがあります。


 当時、私の囚人番号が五九六番でした。そこで人々は私を「オグリュク」と呼びました。夜、眠ることができず、横になって天井を眺めて、「オグリュク、オグリュク……」と独り言を言いながらするすると舌を転がして発音すれば、「オグリュク」が「オグル(韓国語で「憤慨」の意味)」に聞こえました。私は本当に「悔しい」囚人でした。


 共産党は、監獄の中に「読報会」なるものを作って自己批判させ、保安隊によって囚人の一挙手一投足を監視しました。そして、毎日、その日に学んだことを感想文として書けと言ってきました。しかし、私はただの一文も書きませんでした。「父なる金日成(キムイルソン)首領が私たちを愛してくださり、毎日のようにご飯と肉のスープを与え、このようにいい暮らしができるようにしてくださって感謝です」などという感想文は、絶対に書くことができませんでした。いくら死が目の前にちらついたとしても、無神論者である共産党幹部に感想文を捧(ささ)げることなど、できない相談でした。私は感想文を書く代わりに、監獄で生き残るため、人よりも数倍熱心に働きました。一等労働者になることだけが、感想文を書かなくとも監獄生活を耐え抜くことのできる道だったからです。おかげで一等模範囚になって、共産党幹部が出す賞まで受けました。


 監獄にいる間、何度か母が訪ねてきました。定州(チョンジュ)から直接興南に行く汽車はないので、乗り換えながら二十時間もかけて来るのです。その苦労は並大抵のものではありません。若い盛りに獄舎につながれた息子に食べさせるために、親族の八親等まで頼って米を一握りずつ集めて、炒り粉(いりこ)(はったい粉)にして持ってきてくれました。面会所の鉄条網の外で息子の顔に出くわした母は、涙を流していました。はるばる遠く興南までやって来た強靭(きょうじん)な母親が、監獄の息子を見るなり胸が詰まり、顔も上げることができずに泣き続けました。私の姿があまりにみすぼらしかったのか、いくら強靭な女性であっても、苦痛のただ中にいる息子の前では弱い母親にすぎませんでした。


 母は、私が結婚する時に着た紬(つむぎ)のズボンを持ってきてくれました。囚人服は硫安で溶けてぼろぼろになって肌が見えていましたが、私は母がくれた紬(つむぎ)のズボンを穿(は)かずに他の囚人にあげてしまいました。親族を頼って準備してきたはったい粉も、母が見ている前で囚人たちにすべて分け与えました。息子に食べさせ、着させようと真心を込めて作ってきた食べ物と衣服を、全部赤の他人に与えてしまうのを見て、母は胸をかきむしって泣きました。

「お母さん、私は文(ムン)なにがしの息子ではありません。文なにがしの息子である前に、大韓民国の息子です。また、大韓民国の息子である前に世界の息子であり、天地の息子です。ですから、彼らを先に愛してから、お母さんの言葉を聞き、お母さんを愛するのが道理です。私は度量の狭い男ではないので、そういう息子の母親らしくしてください」


 氷のように冷たい言葉を浴びせたのですが、母の目を見る私の胸は張り裂けんばかりに痛かったのです。寝ても母が懐かしくて目覚めるほどだったので、弱くなりそうな心を落ち着かせなければなりませんでした。神の仕事をする者には、私的な母子の因縁よりは、たったの一人であっても暖かく着せ、もっとおなかいっぱい食べさせることのほうが重要だったからです。


 私は監獄にいても、人々と時間を見つけては会話を楽しみました。私の周りはいつも話を聞きに集まった人たちでいっぱいでした。おなかが空き、寒さに震える獄中生活であっても、通じる人たちとの交流は温かいものでした。興南で結んだ縁で、私は十二人の同志であると同時に生涯を共にする人を得ました。その中には以北五道連合会の会長だった有名な牧師もいました。彼らは、命の危険と隣り合わせの環境にあって、血肉よりもっと濃い絆で結ばれた私の骨と肉のような存在でした。彼らがいたので獄中生活は空(むな)しくありませんでした。明け方になると、私は彼らの名前を一人一人呼んで真心を捧げ、平壌にいる教会信徒のためにも毎日三回以上名前を挙げてお祈りしました。彼らがズボンの胴回りに隠して私に取っておいてくれたはったい粉一握りを、数千倍にして返してあげなければならないと思いました。






(21)国連軍が開けてくれた監獄の門  P.115


興南(フンナム)で投獄されていた間に朝鮮戦争(一九五〇年六月二十五日に北朝鮮が突如、韓国を侵略した。韓国では「六・二五動乱」と呼ばれる)が勃発(ぼっぱつ)しました。戦争が始まって三日目、韓国軍はソウルを明け渡して南部に後退しました。この非常事態に対処しようと、アメリカをはじめとする十六カ国が国連軍を組織して参戦します。仁川(インチョン)から韓国に上陸した米軍を主力とする国連軍は、ここから攻勢に転じて、北朝鮮の代表的な工業都市である興南に押し寄せていきました。


 興南監獄は自然と米軍の攻撃目標になりました。爆撃が始まると、看守たちは囚人をほったらかしにして、全員防空壕(ぼうくうごう)に避難してしまいました。囚人が生きようが死のうが彼らには関係のないことでした。


 ある日、目の前にイエス様が現れて、涙を流して去っていく姿を見ました。ふと嫌な予感がして、「みんな、私から十ニメートル以上離れるな!」と告げたところ、それからいくらも経たずに爆撃があり、直径十ニメートル以内は神様が守ってくださると知っていたので、私の近くにいた囚人たちは辛うじて命拾いしました。


 爆撃が激しくなると、看守は囚人を処刑し始めました。囚人の番号を呼んで、四日分の食料とシャベルを持たせて、外に連れ出しました。他の監獄に移送されるものと思って呼ばれて出て行った彼らは、山に連れていかれ、自分の墓穴を掘らされた後、そのまま殺されてしまいました。量刑の重い囚人が先に呼ばれていました。じっと数えてみると、次の日は私の番でした。


 ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた一九五〇年十月十三日、三八度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は十四日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の二時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました。


 二年五カ月ぶりに監獄から出てきたので、みすぼらしい姿に我ながら呆(あき)れました。下着も上着も、どれ一つとして破れていないものはありません。しかし、そのぼろをまとった乞食(こじき)同然の姿のままで、監獄から私に付いてきた者たちと一緒に、故郷ではなく平壌(ピョンヤン)に向かいました。故郷で私の心配をして、泣いて月日を送っている母の姿が目に浮かびましたが、平壌に残っている信徒たちをまとめるのが先でした。


 平壌まで歩いて行ってみると、北朝鮮が開戦前から戦争の準備をしていた事実をはっきりと確認できました。非常時に軍用道路として使えるように、大きな都市には幅広い二車線の道路が通してありました。また、路面を分厚いセメントで固めて、三十トンの戦車が通り過ぎてもびくともしないような頑丈な橋があちこちに造られていました。興南監獄の囚人が命を削って積み上げた肥料をソ連製の旧式兵器と換えてきて、それらを三八度線に一斉に配備したのです。


 平壌に着くとすぐ、投獄される前に一緒だった信徒たちを一人一人捜して回りました。彼らがどこで何をしているのか気になり、心配でなりませんでした。戦争の混乱で別れ別れになっていましたが、何としてでも彼らを捜し出して、きちんと生きていけるように後始末をつける必要がありました。ただ、誰がどこに住んでいるかを知るすべはなく、平壌市内を見境もなく歩き回って、隅々まで捜すしかありませんでした。


 一週間かかって捜し出したのは三、四人だけです。監獄から持ってきたはったい粉に水を混ぜて餅をこね、彼らに食べさせました。興南から平壌に着くまでの間、凍ったジャガイモを一つか二つ食べるだけで我慢し、おなかが減っても手を付けないで、大事に取っておいた食料です。彼らが美味(おい)しそうに食べる姿を見て、私も満腹になった気がしました。


 年寄りも若者も記憶に残る人はすべて捜し出そうと、平壌でおよそ四十日留(とど)まりました。大部分の信徒を見つけ出しましたが、結局行方の分からない人もいました。しかし、彼らのことも私の心から消えることはありませんでした。


 十二月四日の夜、南側に向かって歩き始めました。私と金元弼(キムウォンピル)をはじめみんなで、避難民の群れの三十里 (約十ニキロメートル) ほど後ろを付いていきました。というのも、思うように歩けない信徒がいたのです。彼は興南の監獄から私に付いてきた人でした。平壌で先に監獄から出た彼を捜していたら、家族は皆避難してしまって、足の折れた彼一人が空っぽの家に残っていました。私は歩けない彼を自転車に乗せて連れて行きました。立派な軍用道路は軍隊が占領して使えないので、凍りついた田んぼの上を歩きに歩いて避難の道を急ぎました。背後から中国人民解放軍と北朝鮮軍が迫ってきており、その上、歩けない者を連れて足場の悪い道を行ったので、その苦労は尋常ならざるものがありました。あまりにひどい悪路では、彼を背負って、空の自転車を引いて進んでいきました。荷物になるのは嫌だと途中で何度も死のうとする彼をなだめて、時には大声で怒鳴りつけもしながら、最後まで一緒に下っていったのです。


 年が若い金元弼(キムウォンピル)は歩きながら眠りこけることもありましたが、彼を追い立てて、夜遅くまで八十里 (約三十ニキロメートル)の道を歩いたこともあります。


 いくら追われていく避難の道であっても、腹が減っては戦(いくさ)はできません。避難民が慌てふためいて打ち捨てていった家に入り、「米の甕(かめ)、米の甕」と歌を歌いながら食べ物を探しました。米や麦、ジャガイモをあるだけ探し出して煮て食べ、辛うじて命をつなぎました。ご飯茶碗はともかくスプーンも箸(はし)もないのには困って、木の枝を切って箸の代わりにしましたが、それでもご飯はよくおなかに入りました。「窮状が大変な幸運だ」といいます。おなかがグーと鳴るのに食べられないものはありませんでした。麦で作った餅(もち)一つが、王様の素晴らしいご馳走(ちそう)にも引けを取らないほど美味(おい)しく感じられました。ただ、私は、どんなに空腹であってもいつも先に箸を置くようにしました。そうすれば、他の人が気分良く一口でも二口でも多く食べることができるからです。


 避難路を歩き続けていくと、やがて臨津江(イムジンガン)の近くに到着しました。ところが、どういう訳か一刻も早く川を渡らなければならないと心が急(せ)かされました。この峠を越えて初めて生存の道が開かれると思ったのです。私は金元弼(キムウォンピル)を容赦なく追い立てました。


 幸いにも川の水はかちんかちんに凍っていて、私たちは先に来た避難民の後を追って臨津江(イムジンガン)を渡りました。後から後から休むことなく避難民が集まってきていました。ところが、私たちが臨津江(イムジンガン)を渡り終えるや、国連軍はこれ以上渡ってこられないように川を閉鎖してしまいました。少しでも遅れたら渡河(とか)できなかったかもしれない間一髪の出来事でした。


 ようやく川を渡ると、通り過ぎてきた方をちらりと振り向いた金元弼(キムウォンピル)が、恐る恐る尋ねてきました。
「先生は、臨津江(イムジンガン)が閉鎖されることをあらかじめご存じでしたか」
「当然のことだ。天の道を行く人の前にはそのようなことが多くあるのだ。一つの峠だけ越えれば生き延びられるのに、人々はそれを知らないのだ。一分一秒が急がれる状況だったので、いざという時にはおまえの胸ぐらでもつかんで渡るつもりだった」


 金元弼(キムウォンピル)は私の言葉に感動した様子でしたが、私の心は複雑な思いでいっぱいでした。三八度線で南北が分断された地点に到着した時、私は片方の足を韓国に、もう片方の足を北朝鮮にかけて祈祷を捧げました。
「今はこのように強く押されて南下していくとしても、必ずもう一度北上していきます。自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」
避難民の群れに交じって歩いて行く間も、ずっとそう祈り続けました。





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