平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(10)~(15) 《 「第二章 涙で満たした心の川 ーーーー 神の召命と艱難」 》 (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)

これまで掲載した《「第二章」》を(文字数の制限のため)二回に分けて掲載します。


 本日は(10)~(15)
 

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 第二章 涙で満たした心の川 ーーーー 神の召命と艱難 
 (10)~(15)


  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)


(10)恐れと感激が交差する中で  P.58


 私は物心がついてくると、「将来何になるのか?」という問題について熱心に考え始めました。自然を観察し研究することが好きだったので、科学者になろうかと考えましたが、日本の収奪に苦しめられ、日に三度の食事さえままならない人たちの惨めな有様(ありさま)を目にして、考えを変えました。科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人たちの涙をぬぐい去ることはできないと思ったからです。


 私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです。森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていきました。


 私が十歳の頃、牧師である潤國(ユングク)大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈禱(あんしゅきとう)を通して治癒したことから、猫頭山(ミョドゥサン) (標高三一〇メートル) のふもとにある徳興(トクフン)長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を]度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。


 十二歳の時、曾(そう)祖父のお墓を移葬するのを見たことがあります。本来は一族の大人だけが参列する場でしたが、人が死ねばどうなるのか直接見たいという欲求に駆られて、必死に割り込んで入れてもらいました。墓を掘り起こして移葬する様子を見守った私は、驚きと恐怖に襲われました。儀礼作法を弁(わきま)えた大人たちが集まって墳墓を開けた時、私の目に飛び込んできたのはか細い骨の欠片だけでした。両親から聞いていた曾祖父の姿は跡形もなく、白い骨だけがぞっとするような醜い姿を現しました。


 曾祖父の骨を見てから、私はしばらくの間、その衝撃から抜け出すことができませんでした。「曾祖父も生きておられた時はみんなと全く同じ姿をしていたはずなのに……。そうすると、父や母も亡くなれば曾祖父のように白い骨だけが残るのか。自分も死ねばそうなるのか。人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、そのまま横たわってばかりいるのか。思いはどこにいくのか……」

そうした疑問が、頭の中を離れませんでした。


 その頃、家の中でおかしな出来事がたくさん起きました。今もはっきりと思い出すことが一つあります。礼装を仕立てようと、機織りで作る反物の出来上がったところまでを甕(かめ)に入れておいたのに、ある晩、その白い布地が上の村の古い栗の木に掛かっていました。できた部分は一疋(ひき)(二反)ほどの量になるまで少しずつ集めておいて、その木綿の生地で子供らの婚礼衣装を縫うのですが、これを故郷では「礼装」と呼びました。ところで、誰が夜中に家から遠く離れた栗の木に掛けたのか、それが分かりませんでした。到底人の仕業とは思えないので、近所の誰もが恐れたのです。


 十五歳の頃、十三人の兄弟姉妹のうち五人の弟妹が、わずか一年で相次いでこの世を去るという悲劇も経験しました。一度に五人もの子供を失った両親の傷ついた心は言葉で表現しようがありません。ところが、ぞっとすることに、不幸はわが家の塀を越えて一族にまで及びました。丈夫だった牛が急に死に、続いて馬が死に、一晩のうちに豚が七匹も死んでいきました。


 家族の苦難は民族の苦痛、世界の苦痛と無縁ではありません。次第にひどくなる日本の圧政とわが民族の悲惨な立場を見つめて、私の苦悩もただ深まるばかりでした。食べる物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどでした。世界的にも戦争が絶えませんでした。


 そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。

「その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……」

少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのよう感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。


 世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾(そう)祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言(ことば)だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができません。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました。


「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」

「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてある のか」

「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」

「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」

「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」

「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」

「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」

「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」


等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。


 誰も容易に答えられない問いなので、答えを得るには祈るしかありません。私を苦しめる心の問題を神様に打ち明けてお祈りしていると、苦しみも悲しみも消えていって、心が楽になります。祈る時間は次第に長くなりました。祈りで夜を明かす日も、一日また一日と増えていきました。そしてとうとう、神様が私の祈りに答えてくださる日がやって来ました。それは何物にも代えがたい貴重な体験で、その日は、私の生涯に最も大切な記憶として残る、夢にも忘れることのできない一日です。


 十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山(ミョドゥサン)に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。なにゆえこのように悲しみと絶望に満ちた世界をつくられたのか、全知全能の神がなぜこの世界を痛みの中に放置しておられるのか、悲惨な祖国のために私は何をしなければならないのか。私は涙を流して何度も何度も神様に尋ねました。


 祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然(こつぜん)と現れたイエス様は、「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨(みむね)に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのです。


 その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。イエス様が現れた時、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。イエス様は、私がやるべきことをはっきりとお話しになりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ぶようにしてさしあげなさい、という驚くべきみ言(ことば)でした。

「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」


 本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾(すそ)をつかんで泣き続けました。





(11)胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ  P.63


 私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にもまして祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。



人を疑えば、苦しみを覚え

人を裁けば、耐えがたくなり


人を憎めば、もはや私に存在価値はない

しかし、信じてはだまされ

今宵、手のひらに頭を埋(うず)めて、苦痛と悲しみに震える私


間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた

だまされても、信じなければ

裏切られても、赦(ゆる)さなければ


私を憎む者までも、ひたむきに愛そう


涙をふいて、微笑(ほほえ)んで迎えるのだ

だますことしか知らない者を

裏切っても、悔悟(かいご)を知らない者を


おお主よ! 愛の痛みよ!

私のこの苦痛に目を留めてください

(うず)くこの胸に主のみ手を当ててください


されど

裏切った者らを愛したとき

私は勝利を勝ち取った


もし、あなたも私のように愛するなら

あなたに栄光の王冠を授けよう




 イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印(らくいん)のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言(ことば)に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇(くらやみ)が私を取り囲み、息つく暇(いとま)さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。イエス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。


 神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭(あ)って翻弄(ほんろう)されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。


 知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願うささ道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。


 ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え) になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか。容貌(ようぼう)が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。


 私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。


 私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、イエス様はいつでも穏和な顔で真理の答えを下さいました。イエス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。イエス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。

その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶(せいぜつ)な悔恨(かいこん)の涙が川のように流れました。


 「一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ。もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」


 祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。

「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」

両拳(こぶし)をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。






(12)刀は磨かなければ鈍くなる P.68



 定州(チョンジュ)普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞(フクソクトン) (現在のソウル特別市〔銅雀(トンャク)区内〕 で自炊しながら京城(ケイジョウ)商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二〇度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江(ハンガン)の水が凍ったりもしました。自炊の家 (下宿) は井戸が深くて十尋(ひろ) (約一八・二メートル。一尋は六尺で約一・八二メートル)以上もありました。紐(ひも)がよく切れるので鎖をつないで使いましたが、井戸水を汲み上げる時に釣瓶(つるべ)縄に手がペタペタくとくっつくので、口で息をハーハー吹きかけて水を汲んだものです。


 寒さ対策に、持ち前の腕を生かして編み物をよくしました。セーターもたくさん着て、厚手の靴下や帽子、手袋もすべて自分で編んで作りました。私が編んだ帽子はとてもかわいくできて、その帽子を被って外に出れば、みんなが私を女性と思うほどでした。


 しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒(ごっかん)の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢(ぜいたく)だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。

ご飯を食べる時は、おかずを二品以上お膳に並べたことがありません。いつも一食一品、おかずは一つあれば十分でした。自炊の時の習慣で、私はおかずはたくさん要りません。やや塩辛く味付けしたものが一つあれば、ご飯一杯をさっと平らげることができます。今でもお膳におかずがたくさん並んでいるのを見ると、無性に煩わしい気持ちがします。ソウルで学校に通っていたこの頃、昼食は食べませんでした。山を歩き回った昔の習慣のおかげで、一日二食あれば空腹を気にしないで生活できたのです。そういう生活を三十歳になるまで続けました。このように、ソウルの生活は私に、暮らしのつらさを痛感させました。


 一九八〇年代に黒石洞(フクソクトン)を訪ねてみたことがあります。驚くべきことに、当時下宿した家がそのまま残っていました。私が生活した玄関脇の部屋や洗濯物を広げた庭は数十年前のままでした。ただ、手に息を吹きかけて冷たい水を引き上げた井戸はなくなってしまい、それが残念でした。 


 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意志どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想(めいそう)、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も「ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい」と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。おかげで、若い頃よりもかなり太りましたが、今でも相変わらず体の動きだけは青年のように身軽です。


 京城(ケイジョウ)商工実務学校に通っていた時、学校の掃除は自分一人でやりました。問題を起こした罰としてやらされたのではなく、人よりも学校をより多く愛したい心がおのずとあふれてきて、そうしたのです。誰かが手助けしてくれるのも申し訳なくて、一人で仕上げようと努力し、人が掃除した場所ももう一度自分でやり直しました。すると友人たちは皆、「それじゃあ、おまえ一人でやれ」と言って、自然と学校の掃除は私の役目になりました。


 私はめったに話さない学生でした。他の友達のようにぺちゃくちゃ話すこともなく、一日中一言も話さないこともよくありました。だからなのか、拳骨(げんこつ)を食らわしたり、力で脅かしたりしたこともないのに、同級生は私を怖がって、むやみに馴れ馴れしくすることはありませんでした。トイレで並んでいても、私が行けばすぐに場所を空けてくれたし、悩みがあればまず私のところにやって来て、私の意見を聞くということが頻繁にありました。


 先生方の中には、私の質問に答えられず、逃げていった人が少なくありません。数学や物理の時間に新しい公式を学ぶと、「その公式を誰が作ったのですか。正確に理解できるように初めから丁寧に説明してください」と先生に噛(か)み付いて、授業を引き延ばしました。そうやってかき回し、追い散らしてはほじくり返し、ほじくり返しするので、先生方はすっかり降参してしまいました。私は世の中に存在する論理を一つ一つ検証して確認するまでは、どんなことも受け入れることができませんでした。「その素晴らしい公式をなぜ私が先に考えつかなかったのか」と思うと、おおっぴらに腹を立てたりもしました。幼い時、夜通し泣いて、我を張って譲らなかった性格が、勉強に対してもそっくりそのまま表れたのです。勉強する時も、祈る時と同じように全精力を傾け、誠を尽くして取り組みました。


 私たちはあらゆることに精いっぱいの誠を尽くすべきです。それも一日、二日ではなく、常にそうすべきです。刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。誠も同じです。毎日刀を鋭く磨き、刀を研ぐという心で、絶え間なく継続すべきです。どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。筆を握った手に誠心誠意の一念を込めて、「この手に偉大な画家が降りてきて私を助けよ」と祈りつつ精神を集中すれば、天下の耳目(じもく)を驚かすような絵が生まれます。


 私は発声練習に誠を尽くしました。人よりも速く、正確に話すためです。小さな部屋に籠(こ)もって、「カーギャーコーギョー、カルナルタルラル……」と声を出して練習しました。「フィリリーリックー」と、話したい言葉を雨あられのように降り注ぐ訓練もしました。その成果で、ひとこと人が一言(ひとこと)言う問に十の言葉を言うほど早口で話せるようになりました。すっかり馬齢(ばれい)を重ねた今でも、私は本当に言葉が速いのです。速すぎて聞き取りにくいと言う人もいますが、気が急(せ)くので到底ゆっくり話すことができません。胸の内に話したい言葉がいっぱいあるのに、どうしてゆっくり話せるでしょうか。


 そういう面で、私は話が大好きだったわが祖父によく似ました。祖父は奥の間に集まった来た客を相手に、三時間でも四時間でも時の経(た)つのも忘れて四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせました。私もそうです。心が通う者たちと席を共にすると、夜遅くなろうと明け方になろうと、そんなことはどうでもよくなります。胸中に積もった言葉がすらすら流れてきて止めることができません。食事の時間も迷惑に思うくらい、話をするのが好きで好きでたまりませんでした。話を聞く方も力が入って、額にぶつぶつと汗が吹き出します。それでも私が汗をたらたら流して話し続けるので、「もう帰らなければ……」とどうしても言い出せずに、私と一緒にうとうとしながら、夜を明かすのが常です。




(13)巨大な秘密の門を開ける鍵  P.71


 故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒(ごっかん)の冷たい冬は肉を抉(えぐ)るような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞(フクソクトン)から漢江(ハンガン)を渡って鍾路(チョンロ)の和信(ファシン)百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。出すのが恥ずかしいくらいの微々たる金額だとしても、大金を出せなくて申し訳ないという気持ちで、そのお金が福の種になるようにと思って渡しました。


 四月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、五月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負ってニキロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を一銭、二銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。

助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「十を助けなさい」と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。「十を与えよ」と言われたら、百を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。


 ソウルに来て、ケピトック(風餅)というお菓子を初めて見ました。色や模様が美しいので、「ああ、こんなに美しい餅(もち)がたくさんあるなあ」と言って、口に入れて噛(か)むと、中の空気が抜けて、ぺちゃんこに潰れるではありませんか。その時思いました。ああ、ソウルという所はそのままこのケピトソクのようだ、と。「抜け目のないソウルっ子」という言葉がなぜ生まれたのか、分かった気がしました。ソウルは外から眺めると、地位の高い立派な職業の人ばかりいる富者の世の中に見えますが、その実態は貧者の天下です。


 漢江(ハンガン)の橋の下にはぼろぼろの服を着た乞食(こじき)があふれていました。私は漢江の橋の下の貧民窟(ひんみんくつ)を訪ねて行き、彼らの頭を刈って心を通わせました。貧しい人は涙もろいのです。胸の中に溜(た)まりに溜まった思いが高ずるのか、私が一言声をかけても泣き出して、大声で泣き叫びました。手には、ぽりぽり掻(か)くと白い跡ができるほど、べっとりと垢(あか)がこびり付いています。物乞いでもらってきたご飯をその手でじかに私にくれたりもしました。そんな時は、汚いとは言わずに喜んで一緒に食べました。


 ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞(フクソクトン)五旬節教会に通い、漢江の向こう側 (北側)にあった西氷庫(ソビンゴ)五旬節教会にも通いました。その後、内資洞(ネジャドン) 〔現在のソウル特別市鍾路(チョンノ)区内〕のイエス教会と黒石洞にあった明水台(ミョンスデ)イエス教会に通いました。西氷庫洞(ソビンゴドン)〔現在のソウル特別市龍山(ヨンサン)区内〕 に行こうとして漢江の橋を渡ると、寒い冬の日は「パーン!ジジジジー!」と氷が割れる音がしたものです。


 教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面白くて、子供たちがとても喜びました。今は年を取って冗談を言う才能もなくなりましたが、その当時は面白おかしい話もよくして、子供たちは打てば響くように反応してくれました。私がアーンアーンと泣けば子供たちもアーンアーンと泣き、私がハッハッハと笑えば子供たちもハッハッハと笑います。私の後ろをぞろぞろ付いて回るほど人気がありました。


 明水台(ミョンスデ)の裏側に瑞達(ソダル)山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言(ことば)を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。


 一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目(いちもく)置いていました。しかし私は、平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆(ばあ)さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。


 黒石洞(フクソクドン)の頃、早朝祈禧会で私の代表祈疇に感化され、私を訪ねてきて親しくなった李奇完(イギワン)おばさんとは、この世を去る時まで四十数年間、友情を分かち、友として交流しました。妹の李奇鳳(イギボン)おばさんは、私が下宿した家の女主人でした。下宿の掃除で何かと忙しそうにしていましたが、いつも私に温かく接してくれました。私によくすれば自分の心が楽になると言って、おかずの一つでももっと食べさせようと気を配ってくれました。無口で、別段面白みもない私を、なぜそんなふうにかわいがってよくしてくれたのか分かりません。後日、私が京畿道(キョンギド)警察部に収監された時は差し入れもしてくれました。今も李奇鳳(イギボン)おばさんを思えば胸が温かくなります。


 自炊の家の近所で小さな店を出していた宋(ソン)おばさんも、その頃の大事な恩人です。おばさんは、故郷を離れて暮らすのはおなかが空(す)いて大変だろうと言って、店の売れ残りがあると何でも持ってきてくれました。小さな店を切り盛りしてやっと食べている立場なのに、私にはいつも厚い情けをかけてくれて、食べ物を用意してくれました。


 漢江(ハンガン)の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって、会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけすっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋(ソン)おばさんが、パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。


 いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために労苦を惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることはできません。


 陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途(いちず)な心で生きるのがよいのです。




(14)ぐつぐつと煮えだぎる火の玉のように  P.78


 京城(ケイジョウ)商工実務学校を終え、一九四一年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山(プサン)に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套(がいとう)を被(かぶ)っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫(は)れ上がっていました。植民統治下で陣吟(じんぎん)する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛哭(つうこく)する山河に向かって、私は約束しました。


 「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ。必ず祖国光復(こうふく)を胸に抱いて帰ってきてやるからな」釜山(プサン)港から関釜(カンプ)連絡船に乗り込んだのは四月一日の午前二時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。


 東京に到着した私は、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打ち立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。


 目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通ずる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいと言う数学に長(た)けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら十年かかるところを三年もせずにやり遂げてしまえるのも、大きな頭のおかげかもしれません。


 日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に向かって質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。


 下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。


 入学と同時に参加した韓人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田高等工学校の建築学科に入学した厳徳紋(オムドンムン)は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。


 東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟(しんぎん)していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈(しれつ)を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九(キムグ)先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。


 早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅(か)ぎつけて、埠頭(ふとう)や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干(らんかん)の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。





(15)労働者の友となった苦労の王様  P.81


 ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。


 その時代は誰もがおなかを空(す)かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一カ月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して、「食べろ。思う存分食べろ」と言って、すべて使いました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。


 所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。


 私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這(は)っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢(あか)がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。


 主に川崎鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀(はしけ)があって、ポンポン船がそれを曳航(えいこう)します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。


 作業現場には、労働者の血と汗を搾(しぼ)り取る輩(やから)がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水たらして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら、二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでもまったく話を聞かないので、私の大きな体で足蹴(げ)りをして、班長を吹っ飛ばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子供の頃の意地っ張りの気質が蘇(よみがえ)り、蹴飛(けと)ばしてしまうこともよくやります。


 川崎鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを清掃するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有毒で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。


 私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで、食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただしてみました。「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」と尋ねてみました。ご飯を前にすることに、「おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにおなかが空いても食事をしなかったので、一日に二食食べる日もそれほど多くはありませんでした。


 元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めればきりがありませんでした。大きな器に盛ったうどんを十一杯まで食べたこともあり、また親子どんぶりを七杯食べたこともあります。それくらい食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日に二食しか食べない習慣を三十過ぎまでかたくなに続けました。


 おなかが空けば食べ物が恋しくなります。空腹時のご飯の恋しさは嫌というほど知っていますが、世界のためにご飯一食ぐらいは犠牲にできて当然だろうと思いました。新しい服を着てみたこともないし、どんなに寒くても部屋に火を入れませんでした。とても寒いときの一枚の新聞紙は、絹の布団のように暖かいものです。私は一枚の新聞紙の価値をよく知る男です。


 ある時は品川の貧民窟(ひんみんくつ)で生活してみました。ぼろを被(かぶ)ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食(こじき)たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空(むな)しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不憫(ふびん)に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。


 日本で勉強する間、本当にありとあらゆることをしてみました。ビルの小使いや文字を書き写す筆生の仕事もしました。作業現場で働いて現場監督をしたこともあれば、人の運勢を占ったこともあります。生活に困れば、文字を書いて売ったりもしました。それでも、勉強をおろそかにはしませんでした。私は、そうしたことはすべて自分自身を鍛錬する過程だと考えました。いろいろな人に会ってみましたが、それを通して、人間をより多く知るようになりました。おかげで、人をちらっと見れば、「ああ、何をしている人だな」「この人は良い人だな」とすぐに分かります。頭であれこれ考える前に、体が先に分かってしまうのです。


 私は今でも、人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這(は)いずり回るような絶望の坩堝(るつぼ)に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。そうすれば、「ははあ」と驚きの声を上げながら、「今の絶望がなければ、このような決心はできなかったはずだ」と心を新たにするようになります。絶望の淵(ふち)から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。


 一箇所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上も見て、下も見て、東西南北をすべて見なければなりません。人の生涯はどれも同じ七十年、八十年ではないのです。一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また厳しい環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。


 人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々(きゅうきゅう)としますが、淀(よど)んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こういったことをすべて経験しておくべきです。


 ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈(くま)(な)く目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠(よ)って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。「全国を見回してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない」という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食(こじき)の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。


 私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学博士になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨(みむね)を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学博士になること、それが天国の栄光に至る道です。





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