平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第一章 (5)私の人生の明確な羅針盤  P.28  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)


世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝 
       第一章 ご飯が愛である - 幼少時代

(5)私の人生の明確な羅針盤  P.28


 私たちの本貫(ほんがん)は全羅道(チョルラド)羅州(ナジュ)の東にある南平(ナンピョン)です。曾(そう)祖父文禎紘(ムンチョンフル)は高祖父文成学(ムンソンハク)の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。


 祖父の致國(チグク)は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。


 祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國(ユングク)大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國(ユングク)大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博(とばく)に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海(シャンハイ)臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。


 潤國(ユングク)大叔父は朝鮮耶蘇(ヤソ)教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面(トゴンミョン) (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興(トクフン)教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善(チェナムソン)先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山(オサン)学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡(ナムカン)・李昇薫(イスンフン)先生は、潤國(ユングク)大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。


 故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗(たいきょくき) (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州(チョンジュ)郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳(アジ)浦面(ボミョン)事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役(ちょうえき)刑を宣告され、義州(ウィジュ)の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。


 警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍(たけやり)で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。


 私が十七歳頃のことです。潤國(ユングク)大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠(ほふ)り、スープを煮て、彼らをもてなしました。


 父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。


「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。


 迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國(ユングク)大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟(いとこ)の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國(ユングク)大叔父の遺骨を京畿道(キョンギド)披州(パジュ)に移葬しました。


 一九四五年八月十五日の光復(こうふく)以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善(チョンソン)に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。


「南北平和」

在前十載越南州

流水光陰催白頭

故園欲去安能去

別界薄遊為久游

袗稀長着知當夏

闘紈扇動揺畏及秋

南北平和今不遠

候簷児女莫深愁


十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた

流水のように歳月が経(た)ち、私の頭は白くなった

北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか

しばし他郷に留(とど)まるつもりが、長い間留まることになった

葛(くず)布(ぬの)の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ

扇子(せんす)をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う

南北の平和は遠からずやって来るので

軒下で待つ人々よ、あまり心配するな



家族から離れて、見知らぬ旌善(チョンソン)の地に生活しながらも、潤國(ユングク)大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。


 数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國(ユングク)大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は白頭山(ペクトゥサン)から南は漢拏山(ハルラサン)まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。



「大韓地理歌」


東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、

北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海(トンヘ)だ。


南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海(ファンヘ)だ。

三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。


北端に鎮座する民族の基(もとい)、白頭山(ペクトゥサン)は、鴨緑江(アムノッカン)と豆満江(トゥマンコウ)の二大河の水源となり、

東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。


半島中央の江原道(カンウォンド)に輝く金剛山(クンガンサン)、世界的な高原の名は大韓の誇り、

南方の広大な海に聳(そび)え立つ済州(チェジュ)の漢拏山(ハルラサン)、往来する漁船の標識ではないか。


大同(テドン)、漢江(ハンガン)、錦江(クムガン)、全州(チョンジュ)の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、

雲山(ウンサン)、順安(スナン)、扮川(ケチョン)、載寧(チェリョン)の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。


京城(キョンソン)、平壌(ピョンヤン)、大邸(テグ)、開城(ケソン)の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。

釜山(プサン)、元山(ウォンサン)、木浦(モッポ)、仁川(インチョン)の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。


大京城を中心として延びた鉄道線、京義(キョンウィ)と京釜(キョンプ)の二大幹線を連結し、

京元(キョンウォン)と湖南(ホナム)の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。


歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君(ダンクン)、箕子(キシ)二千年の建都地平壌。

高麗(コウライ)始祖太祖王建(ワンゴン)の松都(しょうと)開城(ケソン)、李朝朝鮮五百年の始王地京城(キョンソン)


一千年の文明を輝かせた新羅(シラギ)、朴赫(パクヒョ)居世(コセ)始祖の村、名勝地慶州(キョンジュ)

山水の風景、絶景の忠清扶余(チュンチョンプヨ)は、百済(クダラ)初代温祚王(オンジュワン)の創造古跡地。


未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。

寒村、山邑(サンユウ)の平民は古い頭を拭(ぬぐ)い去り、未来の世界に猛進しよう。

×

非ログインユーザーとして返信する