平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

③「天聖経」とは・・・文先生の過去を知ることにある (何故、私がご父母様の堕落問題を記事にするのか??)

 下記の御言葉は「天聖経」とは何かという疑問に、少しでも助けとなる内容になっています。ぜひ、お読みください。




余談ながら・・・
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何故、私がご父母様の堕落問題を記事にするのか??
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 この疑問に対する答えは文先生の御言葉にあります。


 それが下記の御言葉の(※1)の「先生の過去と掛け離れた人は、いくら自らが統一信徒だと自負しても統一信徒ではありません。」です。


 私は還故郷後、文先生が分からなくなっていました。文先生が聖和された後、今後も文先生を信じていくのか、それとも、リタイヤするのか、瀬戸際に立っていました。


 そこで、自分の生き方に区切りをつけたいという思いで、三年間くらいは文先生を再確認する為に御言葉を読みあさろうとしました。それが幸いしました。今まで知らなかった文先生とお母様のお姿が次第に見えるようになりました。そして、多くの疑問が湧き出てきたのです。


 その疑問を解こうとして、さらに御言葉を読みあさりました。そうするとどうでしょう、その答えは、すべて御言葉に語られていることが分かるようになったのです。


 しかし、御言葉から知った新たらしい文先生とお母様のお姿はこれまでのお父様とお母様ではありませんでした。まったく違っていたのです。あまりにものショックを受け続けました。反対に、それを否定する御言葉も探しましたが、一つも見つかりませんでした。一見矛盾しているかのような御言葉であっても、よくよく他の御言葉と読み合せると、悉く、一本の筋が通っているのです。


 何も知らなかった自分に、ただただ、驚き、その驚きを記事にしたのが777ブログです。


 そして、新しいお父様とお母様のお姿を知って、また、新たな疑問がどんどん出てきましたので、パソコンに備忘録として整理していきました。御言葉は一本の筋が通っていることが分かるようになりましたから、その疑問も、ほどなく回答を得るという希望を常に持って読んでいたのです。全て、御言葉から疑問が始まって、回答も御言葉によって終わるという事の連続でした。今も新しい発見の連続です。


 当然、私の記事をお読みになられた兄弟たちが、素直に受け入れることができないことは覚悟して始まったブログです。ですから、繰り返し繰り返し、同じような事を記事にしています。
 訓読を熱心にしている兄弟なら、御言葉を生命視している兄弟なら、必ず、御言葉を疑問視することに対面するはずです。少しでも、私の記事でその疑問を後押しし、さらに、その疑問に答えてあげて、このブログが兄弟たちの訓読の補助教材として読むことができるならば、そう思って、兄弟たちを助けてあげたいと思って記事を書いています。
 今後とも、よろしくお願いいたします。 


真の御父母様の生涯路程7 

 第一節 六 協会の歴史編纂委員会の創立(一九八一・一一・一)


 統一教会員であれば、統一教会の歴史を知らなければなりません。そのためには先生の過去を知らなければなりません


(※1)先生の過去と掛け離れた人は、いくら自らが統一信徒だと自負しても統一信徒ではありません。統一信徒は、統一教会を中心としなければ過去がないのと同じです。その過去を受け継いでこそ現在が成立するのです。


現在というものは、過去の継承であると見ることができます。現在は過去から来て、未来は現在から出ていくものです。過去と現在と未来は一直線で出合わなければなりません。


 ですから「原理」に添付されるべきものは、先生の歴史の入った統一教会の歴史です。



 このような観点で、私たちの教会には、後孫のために残してあげる様々な歴史的な文献を整理すべき問題が残っています。このような視点から考えるとき、今まで私たちが築き、鍛錬してきたすべてのものが過去の成果として終わるのではなく、未来の動機となり、出発の起源とならなければなりません。



歴史編纂委員会のすべきこと


 協会長が今まで歴史編纂委員会をつくってきましたが、先生のみ言集を作るのも、自分たちがしなければなりません。後孫のために作るのです。自分たちの国をつくらなければなりません。そのようなところに関心をもって急いでするのです。


 私がそれをして輝かしいことがありますか。子供が子供としての(子女様や幹部たちが)本分を果たせないので、それを(先生が)しているということを知らなければなりません。


火事になってすべて燃えてしまっていたら、どうなっていたでしょう。後代において、統一教会を研究する学者、博士がどれほど苦労するでしょうか。ありとあらゆる妖しいものが出てくるのです。歴史を考えなければなりません。


 (先生が)監督しながら、先生が講演したすべてのものをシリーズで早く編成しておかなければなりません。み言もそうであり、歴史編纂もそうです。


一九五七年度に伝道に出掛けていった時の所感文のようなものはすべて書籍にして記録しておかなければなりません。特定事項のようなものもそうです。資料が多いものはすべて整理しなければなりません。一次整備、二次整備、三次整備をして、博物館に積んでおかなければなりません。


 早ければ早いほど良いのです。アメリカで話したものまで、すべて連結させ、合同して編纂できるように計画しなさい。後代の学者たちが研究するにしても、誰々が編纂したというその編纂集に権威がなければなりません。私がこの世を去る前に、「歴史的な資料として信憑性がある」と、それにサインしておけば、後代のすべての学者たちの争いはありません。それを整理しておいてから行かなければなりません。


 今後、先生についての研究がすべて終われば、その次には三十六家庭の活動記が出てきます。七十二家庭の活動記が出てきます。それをすべて掘り下げていくのです。


そこに自分の後孫がいれば、後孫を中心として、それを大書特筆して先生よりももっと重要視して宣伝するのです。そのような問題が起きます。そのような時には、思いも寄らない所から、ありとあらゆる事件が起きます。そのようなことをすべて防止することができるように、本部として、各自のすべての個体の歴史記録を残さなければなりません。そこまで考えなければなりません。七十二家庭、百二十四家庭までは、完全にしておかなければなりません。


 そして、事業もすべて入れなければなりません。なぜこのようなことをするのかということがすべて事業編として入らなければなりません。これは、あとですべて入らなければならないのです。今までに私は、既に何巻の本にもなるくらい話をしました。既に英文で翻訳してヨーロッパでも配られています。何としてでも調べ回って資料を糾合したりしなければならないのです。


 このようにして作ったものを私がすべて見てチェックしなければならないのです。大衆に語るときは、原稿を書かないで話すので、甲という人に対してこのように語り、乙という人に対してこのように語り、行ったり来たりしながら話すので、一度見ただけでは複雑で理解することが難しいのです。それを整理しなければなりません。最近は、翻訳をするたびに組織を組んでするので簡単でしょう。


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