平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

第六章 (53)地は分けられても民族は分けることはできない  P.269  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝)


世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝
  第六章 愛は統一を導く ――― 冷戦終焉・宗教融和


(53)地は分けられても民族は分けることはできない  P.269


 朝鮮半島は地球に唯一残った分断国家です。韓民族には朝鮮半島を統一させる責任があります。真っ二つになった祖国をこのまま子孫に譲り渡すことはできません。韓民族が二つに分かれ、互いの父母、兄弟に会えないままで生きているということは、あってはならない悲しみです。南北を分ける三八度線や休戦ラインは人間が引いたものです。地はそのように分けることができますが、民族を分けることはできません。半世紀を超えて分けられていても、私たちがお互いを忘れることができずに慕うのは、一つの民族だからです。


 韓民族を「白衣民族」と言います。白衣の白は平和の色です。したがって、韓民族は平和の民族です。日本による占領時代、韓国人と中国人と日本人が満州やシベリアの地で互いに殺し合いをするような中でも、韓国人は刃物を持ち歩きしませんでした。日本人と中国人は全員刃物を持ち歩きましたが、韓国の人たちは火打ち石を持ち歩きました。凍りついた満州とシベリアの地で火を焚(た)くことは、命を守ることです。韓民族はそのような人たちです。天を恭敬(きょうけい)し、道義を大切にし、平和の愛する人たちです。


 日本植民地時代と朝鮮戦争を経験しながら、韓民族は本当にたくさんの血を流しました。しかし、国が統一もされず、平和の国権が成し遂げられてもいません。国土が真っ二つに分かれ、一方は共産主義の暗い世界になりました。


 私たちが民族の主権を取り戻そうとすれば、必ず統一を成し遂げなければなりません。今のように南北が分かれていては平和を得ることはできません。私たちがまず平和統一を成し遂げ、完全に主権を取り戻してこそ、世界平和を成し遂げることができるのです。韓民族を「倍達(ペダル)民族」と称するように、韓民族は世界に平和を伝達する配達人として生まれたのです(「倍達」は韓国の古典的な称。「倍達」と「配達」はハングルで共に「ペダル」と発音するので、掛けて表現している)。すべての物には名前があり、名前にはそれぞれ生まれつき持っている意味があります。白衣民族の白い服は昼も夜もよく目立ちます。暗い夜中に標識にできる色は白色だけです。韓民族は、夜も昼も世界平和を伝達して回る運命を持って生まれたのです。


 南と北の間には休戦ラインが横たわっていますが、それは大きな問題ではありません。私たちが休戦ラインを除去すれば、その次にはロシアと中国というもっと大きな“休戦ライン”まで飛び越えなければなりません。大変なことですが、不可能ではありません。大切なのは心の持ち方です。


 私は、汗を流し、血を流すとき、残らずすべて流すのが良いと考える人です。心の中の残りかすまで、ありったけのものをすべて流して送り出してこそ、未練が残らずきれいに整理されます。苦難も同じです。苦難に最後まで打ち勝ち、きれいに清算してこそ、苦難が終わるのです。何であっても、完全に清算すれば、また戻ってくるものです。そのように、凄絶(せいぜつ)な苦痛なしには民族の完全な主権を取り戻すことはできません。


 今でこそ皆平和統一を語りますが、私が以前、平和統一を主張していた頃は、反共法と国家保安法を恐れて、「平和統一」という言葉を使うことさえためらわれる時代でした。私はその当時から、絶えず平和統一を主張してきました。今も誰かが「どうすれば朝鮮半島は統一されますか」と尋ねれば、私の答えはいつも同じです。


「韓国の人が韓国よりも北朝鮮を愛し、北朝鮮の人が北朝鮮よりも韓国を愛すれば、きょうにでも朝鮮半島は統一されます。」


 一九九一年に命がけで北朝鮮の地に入っていき、金日成主席に会ったのも、全てそのような愛の下地があったために可能なことでした。その時私は、金日成(キムイルソン)主席と南北離散家族再会、南北経済協力、金剛山(クムガンサン)開発、朝鮮半島の非核化、南北首脳会談推進などに関して合意しました。反共主義者が共産国家に入っていって南北統一の入り口を開くとは誰も思いませんでしたが、私は世界をあっと驚かせました。


 私は金日成主席に会う前(十二月二日)、平壌(ピョンヤン)の万寿台(マンスデ)議事堂(日本の国会議事堂に相当)において、党・政府要人との会談の席で二時間にわたって演説を行いました。その日、私が北朝鮮の指導者たちを相手に強調して語ったことは、「愛による南北統一方案」です。金日成主義で武装した北朝鮮の指導者たちを座らせておいて、私のやり方で語ったのです。


 「南北は必ず統一されなければなりませんが、銃剣によっては一つになることができません。南北統一は武力では成し遂げられません。朝鮮戦争も失敗したのに、また武力で何とかしようと考えるのは愚かなことです。皆さんが主張する主体(チュチェ)思想では南北統一することはできないのです。それでは、何をもって統一されるのでしょうか。この世の中は、人間の力だけで動くのではありません。神様がいらっしゃるので、絶対に人間の力だけではどうすることもできないのです。戦争のような悪なることに対しても、神様は摂理されます。ですから、人間が主体となった主体思想では南北を統一することはできません。統一されてた祖国をつくるのは『神主義』によってのみ可能です。


 神様が守ってくださる私たちに統一の時が近づいてきています。統一は、わが民族の宿命であり、私たちの時代に必ず解決すべき課題です。私たちの時代に祖国統一の聖業を成し遂げることができなければ、永遠に先祖と子孫の前に頭を上げることができないでしょう。


『神主義』とは何でしょうか? 神様の完全な愛を実践することです。南北を統一するのは、左翼でもできず、右翼でもできません。その二つの思想を調和させることのできる『頭翼(とうよく)思想』があってこそ可能です。


 愛の道に行こうとすれば、全世界の前で南侵した事実を謝罪しなければなりません。北朝鮮が韓国に送った定住スパイが二万人もいることを知っています。彼らに、今すぐ自首せよと指令を出してください。そうすれば、私が彼ら思想を正す教育をして、南北の平和統一に寄与する愛国者にします。」


 私は議事堂のテーブルに拳(こぶし)を打ち下ろし、強烈に語りました。すると、私の演説を聞いていた北朝鮮の尹基福(ユンギボ)・朝鮮海外同胞援護委員会委員長(祖国平和統一委員会副委員長)と金達鉉(キムダルヒョン)副総理の顔がこわばりました。この発言が私にどのような危険をもたらすか分かりませんでしたが、言うべきことは言わなければなりませんでした。単に彼らを刺激するためではなく、その日の私の演説が金日成主敵と金正日書記にすぐに報告されるという事実を、あまりにもよく知っていたので、私たちの志を伝達しようと、わざとそのように話しました。


 演説が終わるやいなや、随行員たちの顔が真っ青になりました。北朝鮮側関係者の数人は、よくもあんな話ができたものだと真顔で抗議してきました。「演説の内容があまりにも強烈で、彼らの雰囲気があまりによくないのです」と随行員たちが心配しました。しかし、私は断固として言いました。


「私がなぜここに来たのか。北朝鮮の地を見物するために来たのではない。ここまで来て言うべきことを言わずにいれば天罰を受ける。たとえ今日の演説が原因で金主席に会えずに追い出されたとしても、言うべきことは言わなければならない」


 その後、一九九四年七月八日、突然金日成主席が死去しました。当時、南北関係は最悪の局面でした。韓国の地にパトリオットミサイルの配備が計画され、アメリカでは寧辺の核施設を破壊しろという強硬派が力を得て、今にも戦争が起きるような状況でした。北朝鮮は一切の外国の弔問客を受け入れないと発表しましたが、私は兄弟の義を結んだ金主席の死を哀悼するのが当然だと考えました。


 私は朴普熙(パクボーヒ)(当時、韓国・世界(セゲ)日報(イルボ)社長)を呼びました。


「今すぐに弔問使節として北朝鮮に行きなさい」

「今、北朝鮮は誰も入れない状況です」

「難しいことは分かっている。しかし、何としても入っていかなければならない。鴨緑江(アムノッカン)を泳いで渡ってでも、必ず入っていって弔問しなさい」


 朴普熙(パクボーヒ)は北京に飛んでいき、命がけで北朝鮮と連絡を取りました。すると、金正日国防委員会委員長が、「文総裁の弔問施設は例外とし、平壌にお迎えするようにしなさい」と指示を下したのです。平壌に入って弔問を終えたパクボーヒに会った金正日国防委員長は、「文鮮明総裁はお元気ですか。このたびはこのように難しい中を来ていただいて、本当にありがとうございます。われわれの偉大なる主席も文総裁の話をいつもしていました」と丁重に挨拶(あいさつ)しました。一九九四年の朝鮮半島は、いつどこでボンと爆発するか分からない危機的状況でした。まさにその時、金主席と結んだ縁のおかげで朝鮮半島の核危機を無事に超えたことを思えば、その時の弔問は、単なる礼節にとどまるものではなかったのです。


 私が金主席との出会いを詳しく紹介するのは、人と人との間の信義につて話をするためです。私は祖国の平和統一のために彼に会いました。そして、民族の運命を思う私の信義が通じたために、彼の死後、息子の金正日(キムジョンイル)国防委員長も、私たちが送った弔問施設を受け入れたのです。真実な心で愛を分かち合えば、越えられない壁はなく、成就できない夢はありません。


 私は北朝鮮を故郷、私の兄弟の家と思って訪ねていきました。何かを得るためではなく、愛の心を与えるために行ったのです。そして、その愛の力が、金日成主席にとどまらず金正日国防委員長にも通じました。その日から今まで、北朝鮮と私たちの間には特別な関係が続き、南北関係が難しくなるたびに、力を尽くして道を開く役割を担っています。すべてのことは、金日成主席と会い、真実な心を通して信頼関係を築いたことがその根本です。信頼はそれほどに大切なのです。


 金日成主席に会った後、私たちは北朝鮮で平和自動車工場をはじめ、普通洪(ポドンガン)ホテル、世界平和センターなどを運営しています。平壌市内には、平和自動車の広告塔が八つも建てられています。韓国の大統領が北朝鮮を訪問したとき、北朝鮮当局は平和自動車工場を見せてくれました。大統領と一緒に北朝鮮を訪問していた財界人らは、普通洪ホテルに泊まりました。北朝鮮の地で働く食口(シック)は、日曜日ごとに世界平和センターに集まって礼拝を捧げます。これらのことは南北の平和的な交流と統一のための平和活動であって、経済的な利益を得るための事業ではありません。民族的な愛で南北統一に寄与しようとする努力の一環なのです。

×

非ログインユーザーとして返信する