平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

(1)~(5)  《「序文」「第一章 ご飯が愛である - 幼少時代」》  (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝  文鮮明 著)

 これまで掲載した《「序文」と「第一章」》を(文字数の制限のため)二回に分けて掲載します。

 本日は(1)~(5)

 

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(1)序文


 第一章 ご飯が愛である - 幼少時代
(2)~(5)



 (世界平和を愛する世界人として  文鮮明自叙伝 文鮮明著)





(1)序文


 乾いた冬の終わりに、夜通し春雨が降りました。どれほどうれしいことでしょうか。朝の間中、庭をあちらこちらと歩き回りました。湿りを得た地から、冬の間ずっと嗅(か)ぐことができなかった土の香りが芳(かぐわ)しく匂い立ち、枝垂(しだ)れ柳や桜の木には小さな芽が萌(も)え始めました。至る所から、ぽんぽんと新しい生命の芽吹きの音が聞こえてくるようです。


 追いかけるように庭に出てきた妻は、いつの間にか乾いた芝の上にひょいと突き出したヨモギの新芽を摘み取ります。一晩降った雨で、全てのものが香りを放つ春の庭園になりました。


 世の中が騒がしかろうと、どうであろうと、三月になれば必ず春は訪れます。このように冬が去って春になり、春になれば花が満開になる自然は、年を取るほどに、より貴重なものになってきます。私が何者だからと言って、神様は季節ごとに花を咲かせ、雪を降らせ、生の喜びを与えてくださるのか。胸の内、その奥深い所から愛があふれ、それが喉元(のどもと)まで込み上げてきて、息が詰まるようです。


 生涯、平和な世界を成す為に東奔西走し、地球を何周も回りましたが、私は今、この春を迎える庭において真正なる平和を味わっています。平和もまた、神様が何の見返りも求めず、ただでくださったものです。私たちは、それをどこでなくしてしまったのでしょうか。全く見当違いの場所で探し出そうと努力しているのかもしれません。


 平和の世界を作るために、私は生涯、この世の底辺や辺境の地を訪ね回りました。飢えている息子を前に、なすすべもなく見守るしかないアフリカの母親たちにも、川に魚がいるにもかかわらず、釣り方が分からなくて家族を食べさせられない南米の父親たちにもあいました。


 私は彼らに食べ物を少し分けてあげただけですが、彼らを私に会いを施してくれました。私は愛の力に酔って、原始林を伐(き)り拓(ひら)き、種を蒔(ま)き、木を伐って学校を建て、魚を釣って、おなかを空(す)かせた子供たちに食べさせました。体中を蚊に刺されながら夜を徹して釣りをしても幸福であり、泥土の中に太ももまですっぽりと埋まってしまっても、寂しい隣人たちの顔から陰が消えるのを見るのが喜びでした。


 平和な世界に向かう近道を探して、政治に変化をもたらし、世の中を変えることにも熱中しました。ソ連のゴルバチョフ大統領に会い、共産主義と民主主義の和解を試み、北朝鮮の金日成(キムイルソン)主席と会い、朝鮮半島の平和について話し合いました。さらに、道徳面において崩れゆくアメリカに行き、清教徒(ピューリタン)の精神を目覚めさせるという医者や消防士のような役割も果たし、世界の紛争を防ぐことに没頭したのです。


 私たちの運動は、イスラーム教徒とユダヤ教徒の融和のために、テロが頻発するパレスチナに入ることを恐れず、ユダヤ教徒とイスラーム教徒、キリスト教徒たち数千人を一堂に集め、和解の場を準備し、平和行進を行いました。それでも、葛藤(かっとう)は今も続いています。


 しかし今、私は我が祖国韓国で平和の世界が大きく開いていく希望を見いだします。多くの苦難と分断の悲しみで鍛えられた朝鮮半島で、世界の文化と経済を導く強い機運が、龍が舞い上がるように巻き起こっているのを全身で感じています。新しい春が訪れるのを誰も抑えることができないように、朝鮮半島に天運が訪ねてくるのを、私たち人間の力ではどうすることもできません。押し寄せる天運に従って、私たち民族が共に飛躍するために、しっかりと心と体の準備をしなければならない時です。


 私は、たった三文字にすぎないこの名前を言うだけでも世の中がざわざわと騒ぎ出す、問題の人物です。お金も、名誉も貪(むさぼ)ることなく、ただ平和のみを語って生きてきただけなのですが、世の中は、私の名前の前に数多くの異名を付け、拒否し、石を投げつけました。私が何を語るのか、何をする人間なのかを調べようともせずに、ただ反対することから始めたのです。


 日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩(イスンマン)政権、そしてアメリカで、生涯六回も主権と国境を超えて、無実の罪で牢屋(ろうや)暮らしの苦しみを経て、肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真(まこと)の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐(おんしゅう)(深い怨みのあるかたき、敵)さえも跡形もなく溶けてなくなるのです。


 真の愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだことはなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げました。愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。


 今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています。その愛が、干からびた地を潤す平和の川となって、世界の果てまで流れることを祈りながら、この本を発表します。最近になって、私が何者かと尋ねる人がぐっと増えました。その方々の少しでも助けになるように、これまでの生涯を振り返り、この本に率直な話を詰め込みました。ページ数に限りがあるので、語り切れない内容は次の機会にお伝えできればと思います。


 これまで私を信じ、私の傍らを守り、生涯を共にしてきたすべての人に、そして、すべての難しい峠を共に克服してきた妻である韓子(ハンハクジャ)に、無限の愛を送ります。最後に、この本を上梓(じょうし)するまでに多くの誠を尽くしてくださった金寧(キムヨン)社の朴恩珠(パクウンジュ)社長と、私が思いつくままに語った煩雑な内容を読者の皆様に分かりやすくお伝えするために、苦労を厭(いと)わず尽力してくださった出版社の関係者の皆様全員に、心からあふれる感謝の意を表したく思います。


 二〇〇九年三月一日

    京畿(キョンギド)加平(カピョン)にて

                         文鮮明(ムンソンミョン)



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第一章 ご飯が愛である - 幼少時代



(2)父の背におぶさって学んだ平和    P.14  


 私は生涯一つのことだけを考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界中の人たちが愛を分かち合う世界、一言で言えば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした。そのように言うと、「幼い時から平和を考えていたなんて、どうしてそんなことが?」と反問する人がいるかもしれません。しかし、平和な世界を夢見ることがそんなに途方もないことでしょうか。


 私が生まれた一九二〇年は、日本がわが国を強制的に占領していた時代でした。一九四五年の解放以後も、朝鮮戦争やアジア通貨危機をはじめ、手に負えないほどの混乱を何度も経験し、この地は平和から程遠い歳月を送らなければなりませんでした。このような痛みと混乱はわが国だけが経験したことではありません。二度の世界大戦やベトナム戦争、中東戦争などに明らかなように、人々は絶えず互いに憎み合って、同じ人間だというのに“敵”に銃の照準を合わせ、彼らに向けて爆弾を爆発させました。肉が裂かれ、骨が砕ける凄惨(せいさん)な戦場を体験した者にとって、平和というのは空想に等しい荒唐無稽(こうとうむけい)なことであったかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私を取り巻く空気、自然環境、そして人々から、私たちは容易に平和を学ぶことができます。


 野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ご飯一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けずり回り、草や実を取って食べてみると、それだけで一日おなかが空(す)くのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。


 山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。「ヨンミョン!ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。


 私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。


 私はこれまで二百ヵ国近い国々を回りましたが、空港に降りた時、「ここは実に平和で穏やかだなあ」と感じた国は多くはありませんでした。内戦のさなかで、銃剣を高く上げた軍人たちが空港を監視し、道路を閉鎖し、銃弾の音が昼も夜もなく聞こえる所もたくさんありました。平和を説きに行った場所で、銃のために命を失いそうになったことも一度や二度ではありません。今日、私たちが生きる世界では、相も変わらず大小の紛争と葛藤(かっとう)が絶え間なく続いています。食べ物がなくて飢餓に陥った人々が数億人もいるのに、軍事費に使われるお金は数百兆円に上ります。銃や爆弾の製造に使うお金だけでも節約すれば、多くの人が飢えの苦しみから救われることでしょう。


 私は理念と宗教の違いのゆえに相手を憎み、互いに敵となった国どうしの問に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧(ささ)げました。イスラーム(イスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。名誉や金欲しさでしたのではありません。物心がついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をする時、私は幸福でした。


 東西冷戦時代、私たちは理念によって世界が真っ二つになる経験をしました。当時は共産主義さえなくなれば平和がやって来ると思っていましたが、そうはならず、冷戦が終わった後に多くの争いが生じました。世界は人種と宗教によってばらばらになってしまいました。国境を接した国どうしが反目するにとどまらず、同じ国の中でも人種間、宗教間で反目し、出身地域の違いでも反目しています。このように分裂した人々は、互いに敵対感情が甚だしく、全く心を開こうとしません。


 人間の歴史を振り返ってみると、最も残忍かつ惨(むご)たらしい戦争は、国家間の戦争ではなくて人種間の戦争でした。それも宗教を前面に出した人種間の戦争が最も残酷です。二十世紀最悪の民族紛争といわれるボスニアの内戦では、いわゆる民族浄化の一環でイスラーム信者を一掃する政策がとられ、ある地域では子供を含む七千数百人以上のイスラーム信者が虐殺されました。ニューヨークの百十階建て世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、二棟を倒壊させた九・一一テロも記憶に新しい大惨事です。これらはみな民族・宗教間の紛争がもたらした惨憺(さんたん)たる結果です。今もパレスチナのガザ地区では、イスラエルが敢行したミサイル攻撃によって数百人が命を失い、人々は寒さと空腹、死の恐怖の中で身震いしています。


 一体何のためにそうまでして互いを憎み、殺し合うのでしょうか。表面的な理由はさまざまでしょうが、その内幕を詳しく調べてみると、間違いなく宗教が関与しています。石油をめぐって繰り広げられた湾岸戦争がそうだったし、エルサレムを占有しようとするイスラーム勢力とイスラエルの紛争がそうです。このように人種対立が宗教という衣を身にまとうと、問題は本当に複雑になります。中世で終わったと思っていた宗教戦争の悪夢が、二十一世紀にも相変わらず私たちを苦しめています。


 宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向性を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。宗教は本来、平和のために存在するものです。すべての宗教が世界平和に責任を負っています。それなのに、反対に宗教が紛争の原因となったのですから慨嘆するほかありません。その醜悪な様相の背後には、権力と資本を握ったどす黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守ることであるのに、かえって逆のことをして、世界を対立と暴力へと追い立てているのです。


 指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨(さまよ)うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。


 お互いを認め合い助け合って生きる・・・これが宇宙の真理です。取るに足りない動物もそのことを知っています。犬と猫は仲が悪いといわれていますが、一つの家で一緒に育ててみると、お互いの子を抱きかかえ合って親しくなります。植物を見ても分かることです。木に絡まって上に伸びていく葛(くず)は、木の幹に寄り掛かって育ちます。だからといって、木が「おまえはなぜ私に巻き付いて上がっていくのか」と葛を責めたりはしません。お互いに為(ため)に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵(ののし)り合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃(ほこり)のように消滅してしまうでしょう。しかし希望が全くないのではありません。もちろん希望はあるのです。


 私はその希望の紐(ひも)をつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼い頃、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。




(3)人に食事を振る舞う喜び  P.20 


 私の目はとても小さいのです。どれほど小さいかというと、母は私を産んで、「うちの赤ちゃんには目があるのか、ないのか」と言って、わざわざ目を広げて見ようとしたそうです。すると、生まれたばかりの私が目をぱちぱちしたので、「あれまあ、目があるにはあるんだ!」と言って喜んだといいます。そのように私の目が小さかったために、幼い頃は「五山(オサン)の家の小さな目」と呼ばれました。


 それでも、目が小さくて貧相だという話は聞いたことがありません。むしろ少しでも観相の分かる人は、私の小さな目に宗教指導者の気質が現れていると言います。カメラの絞りも穴を狭めるほどより遠くを見ることができるように、宗教指導者は人より先を見通す力がなければならないので、そのように言うのでしょう。私の鼻も変わっているのは同様で、一見して誰の言葉も聞かない頑固一徹の鼻です。観相は決していい加減なものではなく、私が生きてきた日々を振り返ってみると、「このように生きようとして、そのような顔に生まれた」と言うことができます。


 私は平安(ピョンアン)北道(プクド)定州(チョンジュ)郡徳彦(トゴンミョン)上思里(サンサリ)二二二一番地で、父は南平(ナンピョン)文氏の文慶(ムンキュンシュ)、母は延安(コナン)金氏の金慶継(キムキョンゲ)の次男として生まれました。三・一独立運動が起こった翌年の一九二〇年陰暦一月六日が、私が生まれた日です。


 上思里(サンサリ)には曾(そう)祖父の代に引っ越してきたそうです。数千石の農業に直接従事して、独力で暮らしを立てて家門を起こした曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯一杯でも多く食、べさせようとし、そうすることに生き甲斐(がい)を感じる人でした。「八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる」―――これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。「どこそこの村の文(ムン)氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる」と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。


 休む間もなく熱心に働いた曾祖父は、暇ができると草鮭(わらじ)を編んで市場に出して売ったり、年を取ってからは「後代にわが子孫が良くなるようにしてください」と祈りながら、アヒルを数匹買っては放してやったりしました。また、奥の間に漢文の先生を招いて、近所の若者たちに文字を無料で教えるようにしました。そこで村人たちは、曾祖父に「善玉」という号を付けて、わが家を「福を受ける家」と呼びました。


 しかしながら、曾祖父が亡くなって私が成長する頃には、豊かだった財産はすべてなくなり、ただ幾匙(さじ)かのわずかなご飯を食べて暮らす程度になりました。それでも、人に食事を振る舞う家風だけは相変わらずで、家族が食べる分がなくても人を先に食べさせました。おかげで、私がよちよち歩きを始めて最初に学んだことが、まさしく人にご飯を食べさせるということでした。


 日本占領期の頃、満州に避難する人々が通った町が平安(ピョンアン)北道(プクド)の宣川(ソンチョン)です。わが家はちょうど宣川に行く一級道路(幹線道路)の近くにありました。家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。母は八道(李氏朝鮮時代、全国を威鏡道、平安道、江原道、黄海道、京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道の八道に区分したことに由来する言葉)の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食(こじき)がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空(す)かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉(のど)が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。


 十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅(もち)を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を「本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配(こうばい)が険しい崖道(がけみち)を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。


 わが家の横には石臼(いしうす)を使った精米所がありました。中の小米(こごめ)が外に漏れないように精米所の四方をしっかり囲むと、冬にも吹き抜ける風がなくて、とても暖かでした。家のかまどから炭火を分けてきて火を起こすと、オンドルの部屋よりも暖かくなります。そんなわが家の横の石臼の精米所に居場所を定めて、冬の季節を過ごす者たちが何人かいました。八道を転々として物乞いして歩く乞食たちです。彼らが聞かせてくれる世の中の話が面白くて、ちょくちょく石臼の精米所に足を運んだものです。母は息子の友達となった乞食の食事まで一緒に作って、精米所にお膳を持ってきてくれました。分け隔てなく同じ皿をつつき、同じご飯を食べ、毛布一枚に一緒にくるまって、共に冬を過ごしました。真冬が去って春になり、彼らが遠くへ行ってしまうと、また戻ってくる次の冬が待ち遠しくてなりませんでした。


 体がぼろをまとっているからといって、心までぼろをまとっているわけではありません。彼らには、明らかに温かい愛がありました。私は彼らにご飯をあげ、彼らは私に愛を施してくれました。彼らが教えてくれた深い友情と温かい愛は、今に至るも私の大きな力になっています。


 世界を回って、貧しさとひもじさで苦痛を味わう子供たちを見るたびに、人々にご飯を食べさせて少しも惜しむことがなかった祖父の姿が脳裏に浮かびます。




(4)誰とでも友達になる  P.24


 私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、一晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻(か)きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑(くず)がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩(けんか)もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。


 特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父(じい)さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。


 行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑(しゅうとめ)をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠(ほふ)ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。


 とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟(あわ)を持ってきて庭にサーッと撒(ま)いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌(えさ)をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。


 父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒(はちどう)に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミツバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋(みつろう)を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。


 蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつく叱(しか)られたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミツバチが分泌した蜜蝋(みつろう)が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。


 十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(とうせん)(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。


 私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧(たこ)(あ)げなどをし、夕方から近所の闘牋(とうせん)場に頻繁に出入りしました。闘牋(とうせん)場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。


 私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大晦日(おおみそか)や正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋(とうせん)場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴(みずあめ)を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。

義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。

どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯(あわめし)を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。


 村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝(ひとうね)ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩(はぎ)畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。


 次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。




(5)私の人生の明確な羅針盤  P.28


 私たちの本貫(ほんがん)は全羅道(チョルラド)羅州(ナジュ)の東にある南平(ナンピョン)です。曾(そう)祖父文禎紘(ムンチョンフル)は高祖父文成学(ムンソンハク)の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。


 祖父の致國(チグク)は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。


 祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國(ユングク)大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國(ユングク)大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博(とばく)に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海(シャンハイ)臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。


 潤國(ユングク)大叔父は朝鮮耶蘇(ヤソ)教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面(トゴンミョン) (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興(トクフン)教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善(チェナムソン)先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山(オサン)学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡(ナムカン)・李昇薫(イスンフン)先生は、潤國(ユングク)大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。


 故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗(たいきょくき) (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州(チョンジュ)郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳(アジ)浦面(ボミョン)事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役(ちょうえき)刑を宣告され、義州(ウィジュ)の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。


 警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍(たけやり)で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。


 私が十七歳頃のことです。潤國(ユングク)大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠(ほふ)り、スープを煮て、彼らをもてなしました。


 父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。


「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。


 迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國(ユングク)大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟(いとこ)の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國(ユングク)大叔父の遺骨を京畿道(キョンギド)披州(パジュ)に移葬しました。


 一九四五年八月十五日の光復(こうふく)以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善(チョンソン)に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。


「南北平和」

在前十載越南州

流水光陰催白頭

故園欲去安能去

別界薄遊為久游

袗稀長着知當夏

闘紈扇動揺畏及秋

南北平和今不遠

候簷児女莫深愁


十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた

流水のように歳月が経(た)ち、私の頭は白くなった

北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか

しばし他郷に留(とど)まるつもりが、長い間留まることになった

葛(くず)布(ぬの)の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ

扇子(せんす)をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う

南北の平和は遠からずやって来るので

軒下で待つ人々よ、あまり心配するな



家族から離れて、見知らぬ旌善(チョンソン)の地に生活しながらも、潤國(ユングク)大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。


 数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國(ユングク)大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は白頭山(ペクトゥサン)から南は漢拏山(ハルラサン)まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。



「大韓地理歌」


東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、

北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海(トンヘ)だ。


南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海(ファンヘ)だ。

三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。


北端に鎮座する民族の基(もとい)、白頭山(ペクトゥサン)は、鴨緑江(アムノッカン)と豆満江(トゥマンコウ)の二大河の水源となり、

東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。


半島中央の江原道(カンウォンド)に輝く金剛山(クンガンサン)、世界的な高原の名は大韓の誇り、

南方の広大な海に聳(そび)え立つ済州(チェジュ)の漢拏山(ハルラサン)、往来する漁船の標識ではないか。


大同(テドン)、漢江(ハンガン)、錦江(クムガン)、全州(チョンジュ)の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、

雲山(ウンサン)、順安(スナン)、扮川(ケチョン)、載寧(チェリョン)の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。


京城(キョンソン)、平壌(ピョンヤン)、大邸(テグ)、開城(ケソン)の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。

釜山(プサン)、元山(ウォンサン)、木浦(モッポ)、仁川(インチョン)の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。


大京城を中心として延びた鉄道線、京義(キョンウィ)と京釜(キョンプ)の二大幹線を連結し、

京元(キョンウォン)と湖南(ホナム)の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。


歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君(ダンクン)、箕子(キシ)二千年の建都地平壌。

高麗(コウライ)始祖太祖王建(ワンゴン)の松都(しょうと)開城(ケソン)、李朝朝鮮五百年の始王地京城(キョンソン)


一千年の文明を輝かせた新羅(シラギ)、朴赫(パクヒョ)居世(コセ)始祖の村、名勝地慶州(キョンジュ)

山水の風景、絶景の忠清扶余(チュンチョンプヨ)は、百済(クダラ)初代温祚王(オンジュワン)の創造古跡地。


未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。

寒村、山邑(サンユウ)の平民は古い頭を拭(ぬぐ)い去り、未来の世界に猛進しよう。



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