1994年、初めて日本女性に語られた御言葉(原理の本にはない御言葉)
御言葉の①と②は非常に重要な御言葉で関連しています。
御言葉① 1994年に語られました。
真の父母生涯路程 11
第二節 四
「み言を語られる真のお父様の心情」
『 先生のみ言を聞いて、どのような感じがしますか。原理の本にない話でしょう。その原理の本を書く時、そこにキリスト教信仰の中で、聖書の秘密の骨子、イエス様の家庭の問題などを取り上げていれば、世界は大混乱に陥っていました。
そのようなことを書かなくても先生を殺そうとするのに、その本質まで明らかにして公開すれば大変なことになるのです。キリスト教自体がめちゃくちゃになり、キリスト教の信仰が完全に間違っていたといいながら、完全に吹き飛んでいってしまうのです。ですから、そのようなことは書きませんでした。
今は、いずれにせよ帰っていかなければならない時、このように帰っていかなければならない大転換期に世界が入ってきているので、歴史の内容を明らかにしてあげなければなりません。このような重要な根本問題を知らなければならない時期に入ってきたのです。
率直に教えているのです。先生が誰にも話さなかった内容、父母にも、兄弟にも、姉や妹たちにも話さず、誰にも話さなかった秘密の内容を、初めて口を開いて皆さん日本の女性たちに教えてあげているのです。
「真のお父様とエバ復帰」
以前、先生はそのような訓練をしました。百人、千人の裸の美人の真ん中に転がしても棒が立ってはならないのです。そのような訓練ができています。一〇〇パーセントからゼロに帰っていく訓練をしなければ、真の父母になることはできません。娘を見てそのような考えを起こせば、大変なことになるのです。
(※1)夫を後回しにしますか、先生を後回しにしますか。どちらを後回しにしますか。はっきりと約束しなさい。式は行いませんが、決定的な条件を残さなければなりません。サインをしなければならない立場です。(笑い)離婚をしたとしても先生に従っていきますか、離婚をせずに先生をけってしまいますか。(離婚します)。(笑い)その答えを日本の政府が聞けばどのようになりますか。
(※2)嫁ぎ先を誤った女性は、離婚することによって真の父母の懐に帰っていく道があるということを知っているので、離婚が問題ではありません。息子、娘が問題ではありません。自分の夫や家が問題ではありません。それを捨て、真の父母を求めて、堕落する以前の本然の家、本家に戻っていかなければならないということを良心は知っているので、それを捨てても良心は何の未練もありません。
エデンの園には、アダムとエバ以外には男性も女性もいません。真心を尽くし、精誠を尽くしてすべてのものを投入してあげるのです。それを受け入れるか受け入れないかは、先生には責任がありません。
(※3)その代わり、(日本女性は)世界的な女性の使命、エバ国家の使命を果たすにおいては、歴史的に家族の基盤や国家の基盤を革命したリベカやタマル、マリヤのような立場に立たなければなりません。彼ら(リベカ、タマル、マリヤ)は長男と父を欺きました。エバ国家日本を(日本女性の)父として見れば、(日本女性の)夫は長男と同じ立場です。 』
(※1)(※2)
このヵ所の御言葉は、一番上の御言葉と関連しています。
この時、この御言葉の意味が分かっていたのは日本エバ国のトップクラスの幹部くらいで、他にはいなかったと思います。
幸いに、お父様は御言葉による摂理歴史の足跡を残してくださっています。
(※3)
この意味は理解できますか??摂理には当事者が存在しますので、省略します。
上下の二つの御言葉は関係が深い御言葉です。
御言葉② 1960年の出来事が2000年に出版されました。
真の御父母様の生涯路程 4
第二節 四 既婚家庭の中で新しく結ばれた家庭
『 劉孝永、劉孝敏、李耀翰牧師を結婚させて、それからもう一人は誰ですか。安昌成です。この四人を、世の中から見れば悪口をいわれるようなことをしたのです。
この人たちにはぴんぴんしている妻たちが待っているのに、思いもよらない娘たちを迎えさせたのですから、それは悪口を言われるようになったのです。その中に柳光烈もいるのです。
妻も教会に対して忠誠を立てているのに、そのような統一教会に反対しない、つつましい妻をそのままにして、祝福したのです。
何のためにそのようにするのですか。なぜそうしなければならないのでしょうか。仕方なくそうしなければならないのです。(※2)蕩減条件なので仕方がないのです。そのような条件を立てたので、今はいくらやってもサタンが讒訴できないのです。
それは世界の人のために、全体が行くべき道を切り開こうとするので仕方がなかったのです。道をつくるには、ハイウェイを通す所に宗家が王から号をもらって名前を刻んだ石碑があるとしても、それらは全部壊してしまわなければならないのです。氏族だろうが民族だろうが厳重に処理しなければならないのです。そうしようとするので仕方がないのです。