平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

「人間に対する神の希望」(73.10.20)-1

「人間に対する神の希望」(73.10.20)-1


《ポイント》


・統一教会が第二次七年路程を終えて長成期完成級の段階になった為に、失ったキリスト教、そしてアメリカをもう一度摂理に連結できる時が到来した。
それが、この講演になります。


・キリスト教の使命、行くべき道について講演されたということは、キリスト教の代理蕩減の立場にある統一教会の洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭がお父様と一つになって切り開いてきたことが結実したということです。


・ですから、統一教会の祝福家庭の霊的使命、行くべき道のあり方は、アメリカのキリスト教の手本とならなければならないということになります。


・もし、この様な手本となるようなことに汚点を残すことになれば、統一教会の洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭の行く道は試練による困難が覆い被さるようになる。


・反対に、統一教会の洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭が天の使命と行くべき道をお父様と一つとなって行くならば、アメリカもその流れに引っ張られて天運に乗って行くようになるということです。


・この講演は「アメリカに対する希望」として語られたものですが、それ以上に、摂理の未来を決定するという内的摂理を担っている洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭に対して語られた重要なみ言であったと言えます。


・この講演文を下に載せていますので、概要をつかむような気持ちでお読みください。
ポイントなるようなヶ所に太文字、色文字としました。


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余談ですが・・・
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・この講演以降、天の期待とは裏腹に、摂理的困難を迎えるようになりました。


・お父様のダンベリー刑務所収監はアメリカのキリスト教の問題というよりは、洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭の霊的使命の未完、不信(許せない、愛せない)にあったと言えるのです。


・ウォーターゲート事件の際に「許せ、愛せ、団結せよ」という声明文は当時のアメリカ国民に対して訴えたものですが、本来は、内的摂理を担っている統一教会内部にある葛藤に対して表明されたものであると、後になってお父様は語られていました。


・洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭に条件があるうちは「許すこと、愛すること」を何度か直接指摘してこられたのでしょうが、その願いが叶わなくなって、最終的には人間の責任分担に対して干渉できないという原理の為に、「許せ、愛せ、団結せよ」と間接的にアメリカの新聞に語られたということになります。


・この講演は、メシヤ宣言ということでもありますが、40年のサタン分立する蕩減路程が終わっていませんから、お父様が洗礼ヨハネの立場でメシヤが再臨されるというの宣言された講演となりました。


・結論的に、この講演のみ言自体が洗礼ヨハネ的使命者、或いは幹部達、また、祝福家庭の私たちに対する天のメッセージだったのですから、私たちがキリスト教の心霊基準(長成期の完成級)まで成長していなければならなかったということになります。
しかし、人間の心霊が短期間に成長することは困難ですから、この後に展開される摂理に困難を来たすようになりました。そして、この十字架が最も内的摂理を担われておられた御父母様の中心家庭に容赦なく蕩減が縦的に加算されて襲いかかっていくことになります。


・そして、御父母様の中心家庭の妾圏にある祝福家庭も様々な試練を通過するようになります。




「人間に対する神の希望」


(73.10.20 ワシントン リスナー講堂にて)



 紳士、淑女の皆様、まず初めに、私は、今夜この場に皆様がおいでくださいましたことに対して、心からの感謝の意を表したいと思います。そして、私は、この街を訪れ、皆様にお会いすることをずっと心待ちにしておりましたので、このような機会が与えられたことを、神に感謝するものであります。


 私たちは、互いに異なった言葉を話していますので、たとえ私が話すことができても、皆様から見れば、私はおしであり、また、たとえ皆様が聞くことができても、私から見れば皆様は、つんぼであります。このおしとつんぼの間を正しくとりもつものとして、私の通訳としてこの隣に立つ人が必要になるわけであります。しかしながら、御存じのように、一つの言語から、他の言語への通訳は容易な仕事ではありません。ですから、この私の横に立っているこの人は皆様の温かい御理解を本当に必要としているのです。


 今夜は、「神の人間に対する希望」と題して語ってみたいと思います。このテーマは広大で、その内容は複雑なものでありますので、私はこのテーマの中心点からそれないよう最善を尽くしたいと思います。


 もし神がおられるなら、神は絶対的に人間を必要とするのであります。神は、あらゆるものを創造されました。しかし、その神のあらゆる被造物の中で人間は、最高かつ中心的な位置を占めているのです。そのために、神と人間との関係に対する明確な理解をもつということが、私たちにとって非常に重要であるわけなのであります。この神と人間との関係に関しては、歴史的に様々な説がありました。様々な意見や、神学的概念、学派などがありますが、しかし、本当の生きた神と人間との関係というものは、いまだ解明されない問題として残されているのです。


 神と人間との関係というものは、人生における非常に根本的な問題でありますから、この問題を完全に明確にしない限り、我々の物事に対する理解は、それ以上進まなくなってしまうのであります。この問題に対する解答を追求していくと、主に二つの立場からの見方があるということを発見します。一つは、神の立場からの見方であり、もう一つは、人間の立場からの見方であります。様々の宗教が、この二つの見解を追求することを通して発展してきたのでありますが、これらのすべての宗教に共通した、神と我々との関係を明確にする原理があるはずであります。そして神は、我々がその真理(原理)を本質的な意味において理解することを望んでおられるのです。


 皆さんは、もし誰かに「あなたの人生において最も尊いものは何ですか?」と聞かれたなら何と答えますか? ある人は「力」と答えるかもしれません。またある人は、きっとお金と答えるでしょう。「金がすべてだ」と。そしてまた、ある人は「知恵と知識」と答えるかもしれません。それでは、これらの要素、すなわち力とか金とか知識とかが人生において最も重要なものなのでしょうか? この問いかけに対して深く掘り下げてみると、もっと違った考えが浮んできます。そして、やがて最も貴いものは愛である。愛は人生において最も貴いものであるという結論に到達するのであります。そして、愛に次いで貴いものは生命それ自体であります。さらに我々は、愛と生命とをもったならばさらにもう一つのもの――理想を必要とするのです。これら三つの要素――愛と生命と理想――は単にその価値において、貴く深遠であるというのではなく、これらの要素自体がまさしく我々の人生を生きがいあるものとなさしめるものなのであります。


 さらに、もっと深く考えてみましょう。すべての人々は、永遠の生命を慕い求めます。同様に人間の愛と理想を表現するにおいても我々は、生来それが不変であり、唯一であり、永遠であることを願うのであります。歴史上に現れた多くの作家たちは、永遠の愛の美しさを描いてきました。夜に昼にと変わるような愛に感動を覚え、それをたたえた作家は一人もありません。また、この地上を越えた生命を証明するところの世界の多くの宗教は、我々人間の永遠への願望を支えているのです。もしある宗教が永遠の生命を説かないとするならば、その宗教は善なる目的にかなうものとはいえません。


 「愛」と「理想」という言葉は、それ自体が独自に意味をもつものではありません。愛は愛する者と愛される者とがあって初めて存在するのです。また、理想は誰かによって分かち合われなければならないのです。愛と理想とは、相対的に補足し合う、ギブ・アンド・テイク(授受)の関係が成立するときに生きたものとなるのです。我々人間は対象の立場にあり、常にその主体的存在を必要としています。愛と理想とは、二つのものが主体と対象の関係をもって存在するときにのみ、初めて、つぼみから花へと開花するのであります。


 この宇宙の原因、根源は人間なのでしょうか、それとも、誰かが我々人間を造ったのでしょうか? 自分自身を創造することすらできない人間が、どうして宇宙の原因たることができるでしょうか。我々人間は結果的な存在であるということは明白であります。我々は、ある原因から生み出されたものであります。ですからある主体、あるいは原因なるものが存在しなければなりません。人間の存在に対して、その原因がなければならないのです。ゆえにこの主体、あるいは原因なるものは根本的な実在であります。我々は我々自身の存在に対して明確に認識し得るように、この根本的実在に関しても明確に認識しなければなりません。その原因なるものを、皆様がどのように名づけても、それはかまいません。最も重要なことは「彼」が存在するということであります。そして、我々は彼を「神」と呼ぶのであります。


 では、我々の問いかけを神に向けてみましょう。「神様、あなたにとって最も貴いものは何なのですか?」彼の答えは、皆様や私の答えと何ら変わらないものでありましょう。「愛と生命と私の理想とが私にとって最も尊いものである」と神は答えるでしょう。神はお金を必要とするでしょうか? 彼はすべてのものを造られたのです。いずれにせよ、すべてのものは彼のものなのですから、彼はお金を必要としません。では神は力を必要とするでしょうか? 彼は、既にすべての力の根源なのです。知識についてはどうでしょうか? 神は全知であり、すべての知識の源なのです。そうです。神はこれらすべてのものなのです。しかしながら、彼は愛と生命と理想とは、御自身一人でもつことは決してできないのです。彼は、相対関係において誰かと共に授受し合う必要があるのです。全能なる神であっても、お一人では愛と生命とその御理想の価値を体験することはできないのです。それゆえに、神は御自身の対象として人間を造られたわけなのであります。


 では、次に尋ねてみましょう。「我々人間はどうしてこのように行動するのでしょうか?」。答は簡単であります。なぜなら、神がそのように行動されるからです。なぜ我々は、このような我々なのでしょうか? なぜなら神がそのような神であるからです。


 我々は、神の性{せい}稟{ひん}を映す鏡であります。神はちょうど皆様や私のようなお方なのです。神は、根源者であります。ゆえに我々の愛は、神の愛から生まれてきたものであります。我々の生命は神の生命から、そして我々の理想は神の理想から生まれてきたものなのであります。神がまず初めに、これらのものを最も貴いものと感じられたがゆえに、我々人間はこれらのものを最も貴いものと感じるのであります。神は愛の主体、生命の主体、理想の主体であります。我々は愛の対象、生命の対象、理想の対象であります。ゆえに、神が絶対であるならば、我々もまた、絶対でなければなりません。神が不変であるならば我々も不変でなければなりません。神が唯一であるならば、我々も唯一でなければなりません。神が永遠であるならば、我々も永遠でなければなりません。我々の永遠の生命は、単なる幻想ではありません。それは現実であります。神が永遠でありますからその対象なる人間も永遠なるものとして創造されたはずなのです。そうでなければ、我々は永遠なる神の性稟を映すことはできません。


 もし、愛なる、生命なる、理想なる神が存在されて、その神がこれらのすべての性稟をその対象なる人間の中に現さないとしたならば、神は、その神の創造の目的そのものを覆すことになってしまいます。神は、その対象の中に御自身の価値のすべてを投入されたか、あるいは何一つとして創造されなかったかどちらかであるはずなのです。神は人間に対して主体であり、我々は神の対象であります。対象は主体の完全なる反映であります。ゆえに人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたちであります。主体と対象とは本質において、一つなのであります。神と人間とは、一つなのであります。人間は実体化した神なのであります。そうでなければ、我々は神の完全なる像を反映させることはできないでありましょう。神の創造の目的である神の喜びを実現することができないでありましょう。我々が対象として神御自身が完全であるごとく完全でないときには、我々は神の完全な愛と生命と理想とを反映させることができないのであります。ゆえに、神の対象なる人間はその価値において、神御自身と同様に重要なものなのです。


 もし、私が空っぽの誰もいない聴衆席に向かって大きな身振りをしながら大声で叫んだとしたら、そのような私を見た人は誰でもきっと“あれは、気違いか?”と思うに違いありません。しかし、もし私が誰か授受する相手、誰か私にこたえる対象――私の前にいる一人の小さな子供であってもよい――をもち、私の心と魂を彼に注入しているならば、そういう私は正常であると見られるのです。ただ一つの違いは、誰かが対象として存在しているということであります。しかし、その小さな子供すら聴衆席にいないとしてみましょう。私は、必死になってごみの一かけらを拾い上げ、それを見つめながら、それに向かって話しかけ、私の心を注ぎ込むことができるでありましょう。そうすれば私は、少なくとも気違いではなくなるのです。なぜなら、一かけらのごみでさえ一つの対象となり得るからであります。私が今言いたいのは、対象というものの価値であります。我々は、神の対象でありますので、神は我々を神と等しい位置に置かれました。このように、人間は神と同様の価値をもち、神と同様に重要なのであります。神は最も高く貴く、力ある方でありますけれども、神もまたやはり、その対象を必要とする方なのです。そうでなければ神は喜びを感じることができません。喜びは対象から刺激を受けるときに生ずるものであります。神であってもただお一人で喜びに満ちることはできないのです。皆様は、神が喜びのために、人間と宇宙とを創造されたということを知らなければなりません。しかし、神の喜びは神がその対象と授受することができる時まで潜伏したままになっているのです。


 今日まで、キリスト教において、我々は神を天国のあまりに高いところに置き、人間を地獄のあまりに低いところに押し込んできましたので、神と人間との間には越えることのできない断絶がありました。広く、荒れ狂う川が人間を神から引き離してきたのです。人々は、あえて、神を生きた実在としてとらえようとしないのです。人間は、神が非常に近く、非常に現実的であり、非常に近づきやすいお方であって、神と共に住むことさえできるということに気づかずにきたのです。我々は、生ける神の宮として造られているのです。しかし、因習的なキリスト教は、それを現実化することができずに今日まできてしまったのでした。


 あなたがどれほど裕福で、どれほど有名であったとしても、あなたの喜びと悲しみとあなたの意見と理想とを分かち合える、授受する誰かがいなければ、あなたは一人の哀れな人でしかありません。我々が喜びや悲しみを感ずるのは神の心が喜びや悲しみを感じられることができるからです。歴史上今日に至るまで、神が悲しみを感じられるお方であるということを我々は、思ってみたこともありませんでした。また、神が我々と同じように興奮や憤りを感じられるお方であるということも、我々の主体なる神がこういう情緒、能力をもっておられるので、神の対象である我々もまた、このような情緒を感じる能力をもっているのです。神は、第一の人格であり、人間の人格はその神から来るのです。では我々は、いかにして、神の真の対象となり得るのでありましょうか。ただ努力して一生懸命働くことによってでしょうか? いいえそうではありません。神と一つになるためには、ただ一つの道しかありません。それは愛を通して、神との愛の中に一つになる道であります。


 分かりやすく説明してみましょう。〔A〕ある有名な人がいるとします。そして彼の向かい側に、美しくもなく教育も受けていない一人の謙遜で、柔和な婦人がいるとしましょう。一たび、この素晴らしい男とその謙遜な婦人が愛によって授受の回路を結んだなら、彼女は即座に、彼と同等の名声を得ることになるのです。例えば、彼の名前をジョーンズとして、彼が、その婦人と恋愛し、彼女と結婚するとしましょう。そうすると、彼女はジョーンズ夫人となり、彼の愛を彼女の心のすべてをもって受けて返すようになります。ジョーンズ氏に与えられる、あらゆる力と権威と名声と、そのことごとくすべてをジョーンズ夫人も共に分かつことになるのです。さて、この話は我々に何を教えてくれているのでしょうか。我々は、一たび神と愛の関係を結び神と一つになったならば、我々の価値は即座に神の価値の基準にまで高められるのです。そして、そのような愛は、永遠で不変で唯一なのであります。


 今の時代はこの神と人間との基本的な関係を正しく成就すべき時なのです。主体と対象とは、ちょうど原因と結果が一つであるように、一つでなければなりません。それゆえに聖書は、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)と述べているのです。神にあっては、二つのものは一つなのです。彼は、始めであり、我々は終わりであります。そして神と人間との関係は、始めと終わりが一つになるので、一つの回路をなすのであります。


 平和と幸福と喜びとは、愛における調和から生まれるものであります。それゆえに、神は、その創造の御理想において、神と人間との関係を愛において調和し、生命において調和し、理想において調和し合いながら生きるものとして計画されたのでありました。


 このようにして、我々は神が主体であり、我々が対象であるということがよく分かるようになりました。そして、対象は、主体と同じように重要なものであるということも分かりました。次に我々は、神の対象としての人間の位置というものが、何を意味するかを明確に知りたいと思うのであります。


 神は、人間を創造されたとき、人間に知恵と野心とを与えられました。知恵は我々に比較能力を与え、野心は我々に最善を求めて闘う力を与えます。もし我々の前に、AとBという二つのものがあり、どちらかを選ぶという場合、我々は自動的に、どちらがより良いかということを判断するために、比較してみるようになります。我々人間の欲望が選択を導き、野心が、最終的な完成に我々が達するまで決して我々を休ませようとしない働きをするのです。


 もう一つの例えをしてみましょう。一人の非常に端麗な人がいるとしましょう。彼は端麗なだけでなく非常に力もあり、また、知恵もある人であります。あなたは、きっとこの素晴らいし人と何らかの個人的な関係をもちたいと願うようになるでしょう。では、どのような関係をあなたは望むでしょうか。彼の召使でありたいと思いますか? いいえあなたは心の中で召使よりもっと良い立場があるということを知っているのです。では単に彼の友人でありたいと思いますか? いいえ、それでもあなたはまだ、幸福を感じることはできません。では、単に彼の養子でありたいと思いますか? その立場はあなたに完全な幸福をもたらしてくれますか? いいえ、私はそうは思いません。あなたは、さらにもっと近い立場を求めるようになるでしょう。それ以上の親密な関係はあり得ないというほどに近い関係がもう一つあるのです。この関係をもって初めてあなたは最終的に満たされ、それ以上何も求めることがなくなるでありましょう。


 では、なぜ我々は実の息子、あるいは娘でありたいと願うのでしょうか。それは、その位置がその人の愛を最も完全に受ける位置であるからです。人間の社会において、親子の関係以上に近く深い関係はほかにありません。一たびあなたが、父親の愛を受けたならばあなたは父親のもつすべてのものを所有することになるのです。父親のすべての喜び、すべての力、すべての能力と知恵と、野心と、欲望と、それらすべてが、あなたのものとなるのです。父親の愛を受けるとき、父親が息子にこれらのものを与えるための手続きとか書類とか儀式とかは一切必要でないのです。父親と息子は自動的に一つなのです。この原理は、人類すべてに当てはまるものであり人間と神との関係に当てはまるものであります。


 それでは、あなたはどのような関係を神との間にもちたいと思いますか。彼の召使で満足できますか。あるいは、彼の友人でありたいと思いますか。彼の養子でありたいと思いますか。それとも、神御自身の実子になる道を見つけたいと思いますか。私は、あなたが神の息子、あるいは娘という最終的な位置に至らない限り満足することはできないということをよく知っているのです。


 神の、人間を創造された最終的目的は、人間に御自身のすべての愛とすべての生命とすべての理想とを与えることであります。あなたは、神の全き愛をその愛の心の深みまで完全に占領すべく造られているのです。神の実の息子、娘となることによって、あなたの欲望は完全に満たされるでありましょう。それがあなたの究極的、最終的な運命なのです。そしてあなたは、神の愛に浸されるでありましょう。あなたは喜びに満たされ、完全なる生命の充足感に打ち負かされるでありましょう。


 喜びに限界はありません。幸福に終わりはありません。あなたが神の愛の内に立っているとき、あなたの身体のすべての細胞は喜びに躍動するのです。あなたは全宇宙と共に呼吸するのです。このようにして、あなたの生命は、全うされるのであります。これが、神が我々をして、愛と喜びに酔って生きるべく造られたということなのです。そして、我々の喜びを通して神は、御自身の喜びを得るのです。人間の喜びは神の喜びであり、神の喜びは人間の喜びなのであります。


 私の幼少のころ、神は私に、神の器としての使命をお与えになるために私を呼び出されました。私は神の預言者として、神の真理を神のために明らかにするよう命ぜられました。私は霊界の丘や谷間をさまよいながら、その真理の追求に決然として専心しました。そして、ある時、突然天界が私の前に開かれ、私はイエス・キリストと生ける神御自身と直接通じ合う特権を与えられたのです。その時から、私はたくさんの驚くべき啓示を受けるようになりました。神御自身が私にこの宇宙の最も根本的、中心的な真理は神が親であり、我々人間がその子であると語られたのです。我々はすべて、神の子として創造されているというのです。そして、神は父と子が一つになるとき――愛において生命において理想において一つになるとき――それ以上に近く、それ以上に深く、それ以上に親密な関係はほかにないのだと言われました。


 愛と生命と理想とは親と子とが出会う中心点にあるのです。我々が、一たびそこにおいて結ばれたなら、その時神の愛は我々の愛となり、神の理想は我々の理想となり、神の生命は我々の生命となるのです。そして、あなたが生命の結合、愛の結合、理想の結合をもち得るのは、親子の関係をおいてほかにはあり得ないのです。これが宇宙の根本的事実なのです。


 我々はどのようにして、この世に生まれてくるのでしょうか? 父親と母親が愛によって一つになり、彼らの生命と理想を共に携えてくるのです。我々の誕生の中に、彼らの愛が先行するのです。夫と妻は愛によって一つになります。これは夫の愛と生命と理想とが妻のものとなり、妻の愛と生命と理想とが夫のものとなるということを意味します。これが二人が一つとなって生きる道であり、二人が一体となる道なのです。この愛による一体化の基台の上に新しい生命が生まれるのです。


 一人の子供が生まれるとき、その子供は、その両親の愛と生命と理想の表れであります。あなたがあなたの子供を見るとき実際はもう一人のあなたを見ているのです。あなたの愛の結実、生命の結実、理想の結実を見ているのです。第二のあなたを、もう一人のあなた自身の目に見えるかたちを見ているのです。


 では、この真理を宇宙的スケールに拡大してみましょう。神は、男と女とを、神の息子、娘として創造されました。神は御自身の姿を人間の中に見たいのであります。それゆえに、聖書に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記一・二七)と書いてあるのです。


 人間は、神のかたちに創造されました。言葉を換えて言うならば、神は御自身を人間に具現化されたのであります。人間は生ける神の鏡であり、神のすべての価値と、特性と、性禀とは、この鏡に映し出されるのです。神は確かに、人間が、神の愛と生命と理想とを映し出すことを願っておられるのです。人間は、神の愛と、生命と、理想の結実であります。


 この完成された神の生命に生きるということは、何と素晴らしい、どんなに素晴らしいことでしょうか。それがいかなる地上の喜びにも勝る真の喜びの生活なのです。一たびこのような完成された状態に到達したならば、あなたはもはや祈る必要もなくなるのです。どうして、祈る必要などあるでしょうか。あなたは顔と顔とを合わせて神と会い、心と心を合わせて神と共に生活するのです。神と一問一答し、あなたはもはや宗教を必要とせず、救い主を必要としなくなるのです。これらのすべての宗教的な事柄は、治療の過程、すなわち復帰の過程における一側面にすぎないのです。完全に健康な人は医者を必要としないように、神と完全に一つとなった人は救い主を必要としないのであります。


 神と一つになった生活は、一つの偉大な生き方であります。それは、神と共にある生活、神にある生活、そして神があなたの中に生きておられる生活です。これは、イエスが「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言われた状態であります。神と人間とは焼き尽くすような愛で一つに抱き合うでしょう。それが、神が生きた実在としておられる状態なのです。もはやあなたは、信じるのではなく知るのであります。そして真理に生きるのであります。もし、本当にこの種の愛を体験し、このような神との一体感を体験したならば、あなたは人生における最高の体験を味わったということになるのです。皆様方の中にも、多くのキリスト教の指導者の方がおられると思います。しかしその中で、何人の人が神の深い愛を受けて、この素晴らしい体験をもったことがあるでしょうか。


 神は人間を興奮(酔い)のうちに生きるように創造されました。人間は、神の愛に酔うように造られているのです。ところが人間はその本然の位置を失ってしまったので、酒や麻薬や薬などを飲んで酔っぱらうというように、不自然に技巧的に興奮を求めるようになったわけです。しかし、完成された人間は神の愛に酔うように造られているのです。その喜びの感覚に勝るものはほかにありません。あなたの体の細胞の一つ一つが喜びで爆発するでしょう。目も耳も顔の神経も、腕も、足も、すべてが喜びの歓喜のうちに新たに生きるようになるでしょう。この喜びの質にかなうものはほかにありません。これが神の本然の創造の御計画であったのです。「天の父よ」と言うとき、あなたは本当に神の臨在を生き生きと実感しますか。あなたは、神が「我が子よ」と答えられるのを聞いてみたいと思いませんか。


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